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「お囃子の新助」(その

 

                 佐 藤 悟 郎

 

その一)(その)(その)(その四)(その

 

 

 それから十日目の朝でした。村の篠竹の道を急ぐ千代の姿がありました。霧が立ちこめる道を、危うげに唐傘を差している千代は、美しく装っていました。千代は、十日目に待っているというので、朝から堤で待つつもりでした。霧が流れる中を、千代は堤に向かっていました。
 千代が、霧で煙っている川の堤を見たのは、川沿いの桑畑を過ぎてからでした。千代が堤に登り川を見ると霧が川面まで垂れ込めており、不気味に空気が乱れている折でした。垂れ込めた霧のために、岸すら見えませんでした。岸に寄る波の音が聞こえてきました。
 千代は、堤に佇み、時が過ぎるのを待とうとしました。どうでしょう、細い一筋の横笛の音が流れてくるではありませんか。優美なその音は、千代の心をしっかりと捉えました。

 堤にいた千代の心は、その混沌とした空気の中に、自分の心が愛で豊かになっていくのを感じました。千代の心は、横笛の音に愛苦しい流れに捉えられると、横笛の音の流れが、色々と分かってきました。そうです、千代の心は、横笛の音に心を囚われ、横笛の音と共に心の昂ぶりが変わっていくのでした。
 千代の心は、横笛の音と共に悲しくなってきました。言いようのない悲しみが千代を襲い、その優美な横笛の音なのに、自然と涙が出てくるのでした。
「時太郎様、本当に可哀想な人。」
千代は、我知らずそんな言葉を落としました。そのうちに千代の涙は、乾きました。それは、諦めのようなものでした。世を諦めようとするかのような横笛の音でした。
 千代は、川面の霧で煙る中に、時太郎の悲しそうな幻を見ていました。世を捨てた、その寂しく生気のない時太郎の顔を見て、千代は我が身のように悲しくてたまりません。千代は、涙を流しました。それは、止めどもない時太郎への同情の涙でした。
「お江戸で、そんなに悲しいことがおありになったの。千代は、時太郎様が帰ってこないなら、江戸へ行くつもりだったの。時太郎様がお帰りになって、嬉しいはずなのに。」
千代は、時太郎の幻に向かって言いました。黒髪に、雨の玉がほんのりと輝き、止めどもない寂しさが、千代を襲っていました。

 ところがどうでしょう。霧が晴れると川の岸べりの石に腰かけて笛を吹いている時太郎の姿が見えたのです。世を諦めたような物悲しい横笛の音が、突然崩れました。頻りに明るい笛の音になろうとしていました。しかし、今迄の横笛の音が、余りにも物悲しいものでしたから、調子が外れてしまったのでしょう。急に、横笛の音が止みました。
 千代は、今迄、横笛の音が流れてきた方を見つめますと、時太郎は横笛を膝に置いて、川を見つめているのが分かりました。千代は、余りにも悲しい横笛の音を聞いたために、そこに暫く茫然として佇んでいたのです。そしてその横笛の音が、時太郎の今迄の身の上を語っていたと思いました。佇みながら、千代は思いました。
 時太郎が、この村を出て行ったのは、十年も前、まだ童顔の頃だったのです。その時千代は、お爺さんに手を引かれ、この土手を降りて渡し場の方へ行ったのでした。千代は、幼い心にも、この土手まで駆けつけて、大声でその少年の名前を叫んだのです。少年は、手を激しく振っていました。

一陣の風が舞起こり、次第に明るくなってきました。明るくなった時太郎の後姿を見つめていました。千代は、暫く無言でしたが、落ちるように呟きました。
「貴方は、笛の名手になるって言っておりました。江戸で、横笛を習うんだと言っておりました。そう言って、秘密のことなんだと、こっそり私に教えてくれたのです。」
「貴方は、確かに横笛の名手になられたようです。でも、悲しそうなお方になられたようにも見えます。どうか、私のことを、悲しい人の心の中へお連れください。」
 その言葉に、千代自身も、少し驚きました。千代は、時太郎に心を奪われていたのです。世を諦めて、村に帰ってきた時太郎に、それでもすがりたいと思っていたのです。千代は、一人口に出した秘めた心を知り、恥ずかしいとも思いました。じっと川面を見て、一層、自分が時太郎に心を奪われていることを感じましたし、それを嬉しいと思ってもおりました。

 千代は、そんな甘い思いに耽って、俯いて長い時を過ごしました。千代が、そうして佇んでいると、時太郎は立ち上がり振り向いて、土手を見上げたのです。
「お千代さん、そこにいたのか。」
その声に千代は我に返り、その声の主を見ました。大層立派な紋付き羽織袴姿で、凛々しく髪を結い上げた時太郎が、千代を優しく見つめておりました。千代は、立ち上がりました。
「時太郎様、そうでしよう。」
時太郎は、軽く頷いて見せて堤を上がってきました。千代と向かい合い、お互い見つめあいました。
「さあ、村へ帰ろう。」
と時太郎が言うと、千代は、微笑みながら頷いて
「はい。」
と答えました。二人の寄り添う影は、村へと消えていったのです。

その一)(その)(その(その四)(その