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「川の堤を歩いて」(その一)

 

          佐 藤 悟 郎

 

 (その一)(その二)(その三)(その四)(その五)(その六

 

 

 青空が映る川は輝き、林や家並み、濃い緑色の大地に、川は大きな右カーブを描いて遠くに消えている。初秋の風を冷たく感じながら歩いている少年がいた。彼の名前は田中哲也である。哲也の母は、一か月前に肺を患い世を去ってしまった。それからの日々は寂しく、その日も晴れた日の光の下で、寂しく空虚な思いで川を見つめながら堤を歩いていた。川風は、いかにも哲也に冷たく感じたのだった。昭和の時代、学生運動が終わりを迎えたころ地方の町での話である。

 哲也の父は幼い頃に病死していなかった。四人の兄たちが働いており、高校生である哲也を援助していた。母と暮らしていた二間の古い借家で自炊生活をしていたが、これと言って困ることはなかったが、やはり寂しい思いがあった。丘で遊んでみたり郊外を一人出歩いてみたり、父や母の思い出をたどったりして過ごした。川伝いに町を出て何キロも歩き、次の町まで行ってバスで帰ってくることもあった。変哲のない散歩を、心の慰めとしていた。

 堤の補修工事のためか、彼方の土手は赤い焼き土が見えた。土手の道路には人影はなかった。かれこれ一時間も歩き続けた。その焼き土となっているところから更に三十分ほど歩き、爽快な気持ちの中にも疲れを感じ、堤に腰を下ろした。曲線を描いて雄大に流れている川の景色が目に写った。川の下流の方を見ると、赤黒い鉄橋があり、そのたもとに小さな町が見える。土手下の河川敷に目を投げると、緑色の稲穂が続き、その稲穂の中に濃い緑色の車が止まっていた。
 
 近くに用水の水が落ちる音が響き、その川縁には、数人の人が釣りを楽しんでいた。用水の流れが川に流れ出るところに釣り人が集まっていた。その中の一人の少女が、哲也に近付いた。
「田中君、来ない。」
哲也は黙って首を横に振って見せた。その少女は、土手を駆け上って来た。哲也と同級生の少女だった。
「田中君、来ない。いるわよ。」
「行きたくないよ。これから、また歩くつもりなんだ。」
「いいじゃない。一寸来たら。」
「いゃ、ここで見ているよ。」
少女は、加津子と言う名前だった。加津子は、哲也の隣に座った。
「ただ歩くだけなの。」
「うん、それだけさ。」
「あそこにいる人達、分かる。」
哲也は、知っているだけに行きにくかったのだ。優等生達とは、いかにも自分と縁が薄く思えた。隔たりが大きく、彼等は遠い存在だった。
「うん、だいたいは分かるよ。」
哲也は、加津子と小学時代から一緒で、親しく口を利いてくれたので気安かった。
「どこまで行くの。」
「あの鉄橋のある町までさ。行ったら、バスで帰って来るだけだよ。」
川岸にいる者達が振り返る度毎に、加津子は同級生達に来るように手招きをしていたが、来る様子もなかった。
「とてもよく釣れるのよ。」
「そうらしいね。釣ってどうするんだい。」
「それは、勿論、食べるわ。お汁こさえて、ご飯を炊いて、魚を焼いて食べるのよ。だから、田中君も一緒に来ない。皆んなが喜ぶよ。」
哲也は、子供の世界でガキ大将だった。だから同じ中学校の者だったら哲也を知っていた。
「田中君。随分おとなしくなったのね。」
「幅が利かないからな。高校では。」
それが哲也の本音だった。成績を重視する中で、暴れ狂って名を挙げても、意味のないことだった。哲也は、正義感が強く、それだからこそ誰にも憎まれなかった。行動もひっそりしてしまい、目立たぬ存在となってしまった。

 哲也は、加津子とお互い好意を持った時代もあった。現在は、暖かい友として、いつでも話し合える間となっていた。
「ね、いらっしゃいよ。」
再三の誘いに哲也は、快く誘いを受けた。彼方の町に着くのには、夜でも良かった。仲間達も、快く迎え入れてくれた。哲也は、楽しい時を過ごした。みんなと声を合わせ歌ったり、ラジオの音楽に合わせて踊ったり、炉を石で重ねて作ったり、釣りをしながら話し合った。味噌汁の臭いを嗅いで、褒めてみた。楽しかったのは、皆と炉の周りで昼食を取ったことだった。炉の火に竹を通した魚を炙り、それを口に入れた。哲也は、その味を満喫した。広大な景色を見ながら汁を吸う、川の音を聞いて食べる温かいご飯は舌触りが良かった。楽しい宴が終わっても、二時間ほどそこに留まっていた。堤の草に身を寄せる者、声を張り上げ歌う者、何か、学んだこともない高踏な話に聞き入っている者、自由は溢れていた。

 帰る時になって加津子を始め皆が、哲也に一緒に帰ることを勧めてくれたが丁寧に断り、楽しく過ごしたことに対して礼を述べた。女子生徒二人、男子生徒三人の仲間は、窓から手を覗かせて去っていった。哲也は、また、赤黒い鉄橋に向かって足を進めた。

 哲也は、楽しく過ごした時間に、心から感謝した。彼等が、あれほど楽しく過ごせるとは、それまで哲也は知らなかった。ただ、勉強だけに嚙り付き、楽しみを知らないと思っていた。初めて、彼等の底抜けの愉しさが、彼等の歩んだ生活態度にあることに気付いた。全て、そうだったのではないだろうか。人間が生きていく上に精力を傾ける。それらの積まれた生活態度が愉しさを倍加するのだと気付いた。哲也は、自分が勉強に狂ったように精力を傾け、その結実を求めることが可能なのか疑っていた。望んでいた理想が高すぎるのだ。何の拘泥もなく、溌溂とした行動をする彼等に力強さを感じた。気が付くのが遅くとも、新たに目標を立てて向かえば、満足のいく人生を実現することが決して無理でないと思った。

 同級生との明るい戯れと別れ、哲也は川の堤を歩いた。遠くの町の森影が見え、その町へと堤防の砂利道が続いていた。時折、ざわめきが聞こえ川を見ると浅瀬に流れる水の響きだった。哲也は高校を卒業したらどうするのか考えた。母が亡くなり、その借家で一人暮らしをしている。家賃が安いということが住み続けた一番の理由だった。生活をするのに不自由さを感ずることはなかった。母の看病している間、炊事や洗濯などが身に付いていたからだ。先に亡くなった父が残した簡易保険金と兄達の援助があった。その保険金は十八歳になると打ち切りとなる。兄たちの援助に甘えることはできない。

 哲也は立ち止まって空を仰いだ、広々とした青空が見える。その広い世界のいずれとも知れない都会に出て漠然とした成功を考えた。果たして安定した生活ができるのだろうか。心に不安が渦巻いていた。腕を組んで空を見続けた。広い空に、自分の影すら見付けることができなかった。
「とにかく生きていかなければならない。確実に食事にありつけることを考えなければならない。」
そして更に
「世の中の流れを見極め、その流れに沿って生活しなければならない。人と争うことなく、従順で素直に生きていかなければならない。」
と思った。現在の自分の身の上を考えた場合、無理をして野垂れ死にするのを避けなければならないと思った。
「別に消極的に生きるということではない。安定した生活を得たなら、それから更なる活路を探すのが良い。何が更なる高みなのか慎重に考えれば良いことだ。」
哲也は、そう考えると公務員となることが適当だと思った。
「公務員であれば、安定した収入があり、生活できるだろう。その生活の中で活路を見出すことだ。世の中の流れに従って生きていく。これも正しい道の一つなのだ。これから色々なことが目の前で起きるだろう。それを素直に受け入れていこう。そして、更に何ができるのか探していこう。」
そう決めると哲也は、幾分先が見える気がした。遠くに見える集落を目指して哲也は歩き始めた。

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