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「川の堤を歩いて」(その二) 佐 藤 悟 郎
(その一)(その二)(その三)(その四)(その五)(その六)
しばらく歩くと陽が西の方に赤く、全ての大地が紅の中に浮かび、燃えていた。すぐ鉄橋を手前にして、町への小道に入った。ポプラの続きが、紅の空に伸び、町の人々であろうか、林の中をそぞろ歩いて、家路にのんびり歩く姿が見えた。赤色に映えた白いワンピースの上衣と水色のスカートを靡かせ、少女が自転車に乗って近付いてきた。
「今日は。」 少女は、哲也の手前で自転車を止めて、素早く降りて言った。哲也も、同じ言葉を言い返した。少女は微笑みかけた。
「こんなところで会えるなんて、嬉しいわ。でも、どうしてここに。」 「とても、歩きたくなって。」
「歩いてきたの。それは随分、お疲れになったでしょう。」
哲也は、首を横に振って見せた。そして、遥か山の方に浮かんでいる赤い太陽を見つめいる少女を見つめた。二人は、並んで町の方へ歩いて行った。道に長い影が落ちていた。町の中に入って
「どこにバス停留所があるのですか。」 「お帰りになるの。一人暮らしなのでしょう。急がなくても。」 哲也は、少女の好意を素直に受け取った。
「じゃ、この町を少し案内してくれませんか。」 「ええ、喜んでしますわ。」
どこにでもあるような町を歩き回った。中学校の校庭にも行った。高台に、二人で力を合わせて、自転車を引っ張り上げて、町の風景を見た。その麓の公園にも行った。街灯が池の水面に光っていた。
ベンチに腰掛け、哲也は疲れた様子を見せた。体を後に大きく弓なりにし、息を深くついたのだった。 「お疲れになったのでしょう。」
「ええ、少しね。」 哲也は、笑って見せた。そして肩をほぐすように、すくめたり伸ばしたりしていた。少女は、そっと彼を覗き見るように
「一人暮らし、寂しくありませんか。」 「少し慣れてきたから、そうは思わないけど。」 「今度、私が貴方の家に遊びに行ってもいいかしら。」
「貴女さえ差し支えなければ、どうぞ。」 「行きますわ。きっと。」 そう言って、少女は俯いて、自分に言い聞かせるように、小声で
「私は、悪い女の子よ。」 二人は、暫く黙って、池の街灯の光を見つめていた。 「私の家にいらっしゃって。少し休んでいってください。」
「でも、もう暗いし、帰らなきゃ。それにご迷惑でしょう。」
哲也は、家へ帰っても、実際、詰まらなかった。できるなら、このままベンチで夜を明かしたいと思った。そんな哲也の気持ちを直ぐに察して、少女は微笑んで立ち上がり、哲也の前で頻りに首を振りながら哲也の手を取った。
「ちょっとも迷惑ではありませんわ。それに、まだバスはありますわ。さ、早く行きましょう。」
少女は、自転車を引きずりながら、頻りに哲也の顔を覗いていた。哲也も嬉しそうに、少女を見つめた。
哲也は、少女との出会いを思い返した。今は、仲が良いように振る舞っているけれど、自分と少女の結びつきは、本当にただの感覚的なものに過ぎない、淡いものであることを思い出した。
昨年の修学旅行の時、同じ学校でも見知らぬ少女と目を見交わしたことから始まった。哲也は、そんな少女が学校にいたことすら知らなかった。京都を見学するときに、クラスが入り交じったバスの中で、大きな瞳の少女が哲也をじっと見つめていた。隣にいた少女の友達にも、それと分かるように顔を大きく綻ばせ、真っ赤になりながら、それでも哲也を見つめていた。清水の舞台の人混みの中で、互いに求めて見交わした。ささやかな恥じらいの中に、お互いの瞳には、離れがたい光があった。哲也も少女も、お互いに見交わすことを止めることができなかった。帰りの汽車の中では、向かいの席に座り、そして互いに見交わすことのできる場所だった。二人は、見交わすだけで話すことができなかった。
恥じらいで、しかも淡い思いは、心の中へ深く入っていくようだった。学校では、クラスは違っていたが、お互いの姿を見落とすことはなかった。一年近い、長い感覚的な思いは、今は、話し合える状態にあった。言葉を交わしても、不自然でないほどお互いの瞳が語っている様子だった。その長い間に、当然、相手に関する知識を求めた。友達に聞いたりしたことは確かだった。お互いの名前は、既に知っていた。哲也は、その少女の名前が藤田美和であることを知っていた。
小路に入り、街灯が明るく光る。その中を哲也と美和は、寄り添って歩いていた。家並みの軒が続き、熟した花の香りが漂い、名残の花は、仄かにその白さを見せていた。
玄関を開けると、美和の母が小走りで出てきた。明るい玄関に、母の姿が廊下に映っていた。 「美和、随分遅かったのね。どうしたの。」
少女は、明るい笑顔を母に向け、そして振り返った。 「入ってらっしゃい。」
美和は、玄関の外で入るのを躊躇っていた哲也に向かって言うと、哲也の手を取って玄関へ引き入れた。美和は、母に嬉しそうに言った。
「町外れで、お友達に会ったの。お連れしてきたのよ。」 「そう、それはまあ、良かったね。田中さんでしょう。」
母は、そう言って脇のスリッパを取り出して、床に置いた。哲也は、美和の母が自分の名を知っていることに、思わず恥じらいだ。哲也が脱いだ下駄を、美和は懐から取り出したハンカチで丁寧に拭いていた。
「さあ、どうぞ、お飲物を出しますわ。」
哲也と美和の母は、美和を玄関に残して茶の間へと行った。そこには、美和の父がいて、にこやかに哲也を迎えてくれた。何か気軽に感ずる人のように、上機嫌だった。茶の間の入口で、哲也彼は丁寧な挨拶をして、テーブルの美和の父の正面に正座した。美和の母は、哲也に楽な姿勢でいるように、と勧めて立ち去った。
美和のいない茶の間で、心ばかりの菓子と葡萄酒、レモンジュースを囲み、哲也と美和の父母は語り合い、時を過ごした。何故か、美和の父母は哲也に気を遣っている様子だった。
「あの娘、遅いね。どうしたんだろうね。」 「今に、来るよ。」 軽い話は、その言葉で切れた。美和の父母は、少し丁寧に話しかけた。
「田中さん。お母さんを亡くして、心細いでしょう。」 「ええ、少しは。」
「何か、すっきりしない時がありましょうが、どうかあの娘を忘れないでください。親の口から言うのも何ですが、昨年の修学旅行が終わってから、見違えるほど大人っぽくなりました。一人っ子のために、過ちも多い娘でしたが、今では静かな、どこに出しても恥ずかしくない娘になったんです。」
「親に親切になってくれて、陰鬱な影もなくなったんです。親としてみれば、本当に嬉しいんです。あの娘の将来のためにも、本当に人間らしく生きれるということを、田中さんが教えてくれたんだと、主人と共に思っております。深く感謝をしております。お礼もいたします。どのような事になっても。」
哲也は、自分が一体何を美和にしてやったのかと疑った。美和が得るものは、自分も得ていたからだった。美和の慕うことも、美和の幸福も、全て自分も得られたことだった。
美和は、何もかも素裸になった。少なくとも、両親の前では、全てを打ち明けていた。両親は、それなりの深い理解と、以前に増して愛情を示していることに、哲也は羨ましく感じた。哲也は、自分の母に何も、どんなことも話そうとはしなかった。思っていること、考えていること、全てを心に閉じこめ、自分一人で悩み、そして今は、親に何一つ言い聞かせせることができない寂しさがあった。親でありながら、子供の心を何も知らず、盲目の愛情だけに執着して、世を去っていった母に済まない思いがした。
美和の澄んだ思いは、哲也のそれよりも遙かに大きかった。美和の両親が、哲也に対して暖かい心遣いで迎えてくれることは嬉しく、美和の思いの深さに、淡い人と思っていた美和の心が哲也の心に輝いたのだった。
美和は、落ち着いた姿で茶の間に入ってきた。濃紺の中に淡い紺の格子縞の古風な身形をして、洗い上げた髪が黒々とし、目筋がはっきりと浮かんでいた。引き締めた口元が、微かに太く途切れている。哲也は、恥じらいだ。美和の母の前で、宝のような娘が、自分のような詰まらない男を慕っているのが恥ずかしかったのだ。
美和は、哲也の隣に座り、顔を寄せて 「何も、恥ずかしがらないで。」 と言った。 「そんなことを言われても、恥ずかしいよ。」
哲也の期待していたことであっても、現実は、それ以上のことで、この場から逃げ出したい気持ちになっていた。
「美和、田中さんを、お部屋にお連れしなさい。」 「分かったわ。田中さん、行きましょう。」
哲也は、美和の両親に一礼をした。両親も喜んで頭を下げていた。美和と並んで、明るい廊下を歩いた。美和の部屋は、八畳の部屋だった。机には、辞書が三冊重ねてあり、蛍光灯が小綺麗に光っていた。天井に吊された光は、ピアノを照らし、奥まったところにある大きな本棚にも光が差し込んでいた。哲也は、何もかも自分の知らない豪華な世界に導かれ、目を見張った。
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