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「川の堤を歩いて」(その五) 佐 藤 悟 郎
(その一)(その二)(その三)(その四)(その五)(その六)
彼が通信大学の願書を送ってから数日後に、美和から手紙があった。
…「アパートでの暮らしは寂しく、食事を作るのも面倒になったの。母に電話で相談したら叔母の家に引っ越したらどうかと言われたわ。だから叔母の家に引っ越しをしたの。叔母の家の旦那様は、会社の重役をしているの。子供は二人で上が男、下が女なのよ。幼い頃からよく私の家に遊びに来ていたわ。長男は商事会社の社員で、結婚して大阪支社で働いているわ。長女は丸の内ビルで働いているけど、彼氏がいるわ。大学までの通学は、少し遠くになったけれど食事を作る煩わしさ、独り身の寂しさもなくなったわ。
ただ、旦那様はお茶を長らくやっていて、師範だと言ってます。性格が真面目で厳格ですが、叔母はそんなことを意に介していないので安心しております。私の母が生け花をしているでしょう。私も習い事をしたいと思っています。大学の勉強だけでは、息が詰まりそうなんです。今以て、大学でこれと言って良い人には巡り会いません。」
哲也は、美和にとってアパートの一人暮らしが、余程辛いのだろうと思った。叔母の家に身を寄せ、心身ともに安定したと思った。哲也は、返信として大学の通信課程を受けることを書いて送った。
哲也は、市役所職員となって、一年間経つと仕事にも慣れ、不規則な生活も度々あることから、それまで住んでいた家を引き払い、市役所近くのアパートに住居を変え自炊生活を始めたのである。住居を変えたことは、手紙で美和に知らせていた。美和からの返事は、
「住まいが変わったお手紙、受け取ったわ。体を大切にしてね。」 それだけの至って簡単なものだった。哲也は美和の揺れ動いている姿が目に浮かんだ。
哲也は東京の私立大学の法科の通信教育を受け、真面目に勉強した。年次休暇を取って、スクーリングも問題なく消化していた。何処で聞きつけたのか、ある時法務局の黒田出張所長が哲也のところに尋ねてきた。
「田中君は、通信大学で頑張っているようだ。できたら司法書士の試験を受け、司法書士にならないか。」
そう言って、司法書士への誘いを受けた。退庁時間の頃合いを見計らっての訪問であり、退庁時間になると一緒に市役所を後にして、町の居酒屋に入り酒を酌み交わした。
出張所長は、そう若くはなかったが、しきりに
「県内では、過去に通信大学を卒業して司法書士になった人がいる。それらの人に言えることは、誠実な仕事をしているということです。是非、田中さんにもなってもらいたい。卒業時期になったら、また声をかけますから。」
と言っていた。哲也は、
「私は市役所に勤めております。何も不足は感じておりません。考えさせてください。通信大学の方も、卒業できるかどうか分からないのです。」
と言い、返答は保留のまま別れた。
便りもなくなった美和が、夏休みや盆・正月にも帰省することがなかったことを、父憲一から聞いて哲也は知っていた。大方、素敵な青年と恋に落ちて、そのうちに青年を連れて帰ってくるだろうと思った。
雪国のこの田舎の市にも三月が訪れた。美和が大学へ行ってから四年の月日が経ったのである。哲也が市民課の窓口に座っていると、黒田支所長の姿が見えた。黒田支所長は、
「ちょっと課長のところへ転勤の挨拶に行ってくる。」
そう哲也に言って脇の通路を回って課長のところへ行った。そこで少し話をした後、市長室に入って直ぐに出てきた。課長と黒田支所長は哲也の側に来た。課長が哲也に声をかけた。
「黒田さんと知り合いなんだって。黒田さんが田中君に話があると言っている。応接室に行って話をしたら良い。」
そう言ったので、哲也は席を外して黒田支所長と一緒に市民課の片隅にある応接室へ行った。応接室と言っても、曇り硝子の衝立で仕切られたところだった。応接室の机に向かい合ってソファに腰を下ろした。
哲也は、黒田支所長とは昨夜居酒屋で顔を合わせたのだった。久しぶりの再会で杯を酌み交わしたのである。その時黒田支所長は、
「私は、今回の異動で新潟へ転勤することになった。前にも言ったのだが、田中君には是非司法書士になってもらいたいと思っているのだ。」
以前の話を改めて言った。 「通信大学を卒業できるかどうかも分からない。そう期待しないでください。」 彼は、そう答えた。
「田中君、司法書士試験には受験資格なんかないんだよ。勿論、大学卒業資格なんか要らないんだよ。人柄だよ。勤勉さだよ。資格を取っても、それが足りない人がいるんだよ。」
哲也は、大学卒業経歴が受験資格ではないことを、その時初めて知った。
「必要な知識があれば司法書士になれるのか。まずは、試験に受かるための勉強が大切なのか。」 と思ったのである。
黒田支所長は、彼の前のテーブルに膨らんだ風呂敷包みを置いた。
「風呂敷の中には、過去の試験問題と参考となる書類が入っている。少なくとも試験傾向を掴むことができると思う。頑張ってもらいたい。」
そう言うと黒田支所長は、哲也の顔を見つめた。 「所長さん、有り難くいただきます。」 哲也が、風呂敷を解こうとすると
「風呂敷は田中君にあげるよ。きっと、また会えると思っているよ。」
そう言って黒田支所長は立ち上がった。哲也も立つと、黒田支所長は右手を差し出し、握手をしながら
「田中君、元気で頑張って欲しい。期待している。どこかでまた逢う日を楽しみにしている。」
と言った。黒田支所長は、課長に挨拶を済ませると颯爽として市役所から立ち去っていった。
三月の末に黒田支所長は新潟へと出発した。哲也は課長から許可をもらって駅まで見送りに行った。そして三月が終わり、四月の新年度を迎えた。
「もう東京の桜も散っただろう。」
哲也は、美和からの音信もなく、目を閉じて美和の姿を思った。市役所にも、新人職員が各課に配置となった。市民課にも二人の女性職員が配置となり、哲也は懇切丁寧に業務を教えていた。美和の父憲一は、相変わらず市役所に来ていた。哲也は、美和の父に美和の音信を敢えて聞くことができなかった。
美和は大学を卒業したのに四月になっても帰ってこなかった。雪国の雪も消えて桜の蕾が膨らんできた。哲也は、昼休みになって外に出て庁舎敷地の桜の木を見上げた。東京の桜は散り始めただろうと思った。
「美和は、やはり帰ってこないのか。」
そう哲也は呟いた。好青年に出会って、今頃一緒に桜吹雪の下を歩いているのだろうと思った。哲也が美和の幸せを望んでいたことであったにしろ、寂しい思いがした。市役所には若い女性職員がおり、中には良家の娘もいることは知っていた。貧しい家庭で育ち、孤児同然の身を考えると、そんな思いも褪せてくるのだった。
哲也は、暫くは真面目に仕事をし、終了間近の通信大学の勉強に取り組まなければならないと思った。司法書士として身を立てるにも資力もなく、それらの関係者との知己もなかった。資格を持った市役所職員として勤め続ければ良いと思った。勉強を続けれは、司法書士資格の先に弁護士への道もあると思った。
昼休み時間も終わり、哲也は窓口の机の椅子に腰掛けた。年度初めでもあり、住所異動などの事務が忙しくなっていた。行政書士の机に美和の父の姿が、ここ暫く見えず、他の行政書士の姿が見えた。哲也は、美和の父が病気にでもなったのかと思った。その一方で、自分を避けているのではないかとの思いが大きくなっていった。
遅い春の桜が咲き始めた土曜日の午後、丘の公園で職員の花見が催された。勿論、有志だけの会費制の集いで、折り箱と酒が出された。何故か美和の父憲一の姿も見えた。市長の姿もあったためか、部長や各課長の姿も見られた。哲也は、頃合いを見て美和の父の脇きに座った。黙って酒を飲み始めると、美和の父と顔を見合わせた。哲也は先に問いかけた。
「最近、市役所の方に見えませんでしたが、病気になったのかと心配していました。」
「いや、花見見物ですよ。南の土地から名古屋まで、ゆっくりと夫婦旅をしたんですよ。」
哲也は、美和の父の旅先の話を頷きながら聞いておりました。暫くすると、旅の話を止めて急に 「美和は、まだ帰ってこない。困ったものだ。」
少し困惑した顔つきで、哲也に言った。 「そうですか、一人娘さんですから、心配ですよね。」 と哲也は答えた。すると小声で顔を突き出して、
「田中君のところに便りがあったのじゃないか。」 美和の父の問いかけに、哲也は首を横に振るだけだった。
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