リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集




「川の堤を歩いて」(その三)

 

         佐 藤 悟 郎

 

その一)(その二)(その三)(その四)(その五)(その六

 

 

 洋間風に造られたその部屋には、真ん中に茶色に光る長いテーブルがあった。一対の長く柔らかそうな椅子も、光沢があった。限りを尽くした豪華さに、自然と哲也は、自分の部屋と比較しない訳にはいかなかった。兄弟は疎らに暮らし、長兄はそれでも家庭を持っているが、それも子供のために荒らされ、また家の中を豪華にするほどの余裕もなかった。他の兄弟は持ち家もなく、借家やアパート暮らしだった。外国へ行っている兄は、帰る住居もなかった。
 昔の地主的権威もあり、山を数多く持っている美和の家柄に、哲也が入り込むには大き過ぎ、威圧さえ感ぜられるのだった。

 哲也は部屋の入口で、しばし茫然と見つめた。そして頭を垂れた。
「どうぞおかけになってください。」
その声で、哲也は、静かに戸を閉めて、テーブルに近付いた。物思いに陥りながらも哲也は、美和との関係が、心まで通じ合っていることに後悔した。自分が求めているものは、こんな豪華な暮らしでもなく、安全で安楽な暮らしでもなかった。自分の一生は、自分一代で築き上げる、自分の実力と知恵の中にあるのだ。完成されているものに入るとは、哲也は全く考えていなかったのだった。テーブルに両肘を突き、両手で顔を覆いながら、哲也は黙って考えていた。そんな哲也を心配そうに、美和は見つめていた。

 哲也は、自分と美和との間に、まだお互いの実情も知らないで、心を結び付けたことに苦しんでいた。そして思ったことは、この関係が、友達という以上のものであってはならないと思った。
 侘びしい心が哲也に残った。求めたくとも、自分にはできないということを知ったときの心だった。自分の限界を見つめていたのだった。その侘びしい目で、手の覆いを払って美和を見つめた。
「どうかなさいましたの。そんなに寂しい目をして。」
「いゃ、何でもないのです。」
そう言って、哲也は微笑みを見せ、立ち上がった。美和も立ち上がった。哲也は、本棚の本を見渡した。文学小説も、外国小説と日本小説と段も違い、目ぼしいものは全てあった。歴史の本も、世界史観の方法書や各国の史書も揃っていた。芸術史、音楽史、まるで小さな図書館だった。そればかりでない。隣の棚には、科学理論書や概観書等が整っていた。
「随分、良い本がありますね。」
「ええ、ねだって揃えたんです。田中さん、良かったら持っていってください。」
「本が読みたくなったら、借りますよ。美和さんも、随分お読みになったんでしょうね。」
「誰でも、教養を身に付けたいと思うものじゃありません。でも、私は、ほんの少ししか読んでいないの。昨年の秋から、読み始めたの。」
哲也は、美和の言う少しの本というのが、自分にとって相当な量であると思った。美和は、自分の生活程度を実際に知らない。だから、こんなにまで心を通わせることができたのだと思った。感覚的に交わったものの悲しさである。現実を知り、圧迫を感ずると言って離れ去ることは、いかにも寂しい思いだった。

 彼は、ピアノの上に置いてある写真立ての中に、哲也の写真が入っているのに苦笑した。何も、自分のような変哲もない男を、金箔の中に飾るよりも、映画俳優のブロマイドを飾った方が、この豪華な部屋に似合っていると思った。
「この写真、いつのものかな。」
「三年生の記念撮影の時のものよ。写真屋さんに、無理言って引き伸ばしをしてもらったの。」
戸を軽く叩く音に、美和はすぐ戸の方に行った。哲也は、じっとピアノの上で、この豪華な部屋に暮らしている自分を見つめていた。自分の五体が、実際に何日も、何年も、この部屋にいるとしたなら、この写真と変わらない人間になってしまうことを感じた。

 美和とは違って、てんでバラバラの作法で、食い荒らして、哲也の夕食が終わった。それを見て、却って美和は喜んでいた。嘲笑ったのではなく、幸せそうな柔らかい顔が、そのことを示していた。食後、美和はピアノに向かった。
「何か、弾きますわ。田中さん、お好きな曲は。」
「別段、曲を知っておりません。ただ、ヴェートヴェンの「月光」と「悲愴」を聞いたことがありますが。あれは好きです。」
「私も好きなの。聴いてくださいね。」
本当に好きなのか、美和は、時折哲也を見つめながら、弾いていた。曲に静かさもあったが、激しい楽章には、何もかも感情をぶちまけ、甘い激しさを奏でていた。格子縞の袖が、激しく揺れていた。必死になって曲に打ち込んだ感情が、哲也に伝わらないはずがなかった。

 美和は、ピアノを弾き終わるや否や、哲也に向かって駆け寄り、ドサッと頭から彼の胸に飛び込み、顔を彼の胸板に押しつけ、離そうとしなかった。哲也は、今、美和が駆けてきたピアノの白く光る鍵盤を見つめていた。その光の如く、美和の心は沸騰している。感情を、いかにも抑え難いことだと思った。そして、その激しさが、純白な感情であることも感じた。哲也は、片手を美和の背に回し、もう一つの手は、美和の湿りがちな髪を撫でていた。誰の愛も未熟であるように、この二人も若いが故に未熟だった。しかし、誰もが互いに愛し合うように、この二人も愛し合っていた。ただ、年が若いということはあったが、それだけに二人は生活にも社会にも染まぬ、清らかなものだった。
「ずっとここにいて。帰るの、嫌よ。こうしていたいの。」
哲也は、美和の熱き想いに惹かれながらも、落ち着きを失ってはならないと思った。言葉を出せば、今夜さえ、もう離れることができなくなると思った。頬を美和の髪に当て、自ずと手は美和の背を撫でていた。ふと、我に返ろうとした。でも止めることができなかった。
「今夜は、帰さないから。そうよ、帰さないから。」
美和は、そう呟いて哲也を抱いた腕を、強く締め付けていった。哲也は、身によぎる熱情の中に、とにかく、こうなってはならないと思った。頬を髪から外し、両手を美和の肩に置いた。
「美和さん、話がある。さあ、離して。」
美和は、拗ねて体を揺すり、離さなかった。
「大事な話なんだ。ちゃんと聞いてくれなきゃ、駄目だよ。」
「分かったわ。話を聞くわ。」
美和は、哲也に寄り添い、座り直した。哲也の手を、しっかりと握っていた。その哲也の手を、見つめながら哲也の話を聞こうとしていた。危険を察知して、言い逃れのように発した哲也には、大事な話などあるはずがなかった。そうとは言っても、話をせずにいることはできなかった。
「僕には、好きな人がいたんだよ。」
そう言うと、美和は頷いて言った。
「髪の毛が細く、長くて光沢のあるのね。その人は。まだあるわ、少し細くて鼻筋も綺麗な、それでいて柔らかい唇、首がほっそりしていて、水色のスカートの好きな人。」
「よく知っているね。」
「ええ、何でも知っていますわ。年は、私より一つ下で、弟が一人いて、今はこの町にも、貴方の町にもいない人、とても賢い人なの。そうね、間違いないでしょう。」
哲也は、驚いて美和を見つめた。いかにも快活そうに喋っているけれど、その項垂れた姿に、少しの感傷を感じていた。
「どうしたの。急に。」
「田中さんは、今でもその人が好きなの。」
「それは、好きですよ。」
「愛していらっしゃるの。」
「愛、愛って。」
「違うのね。良かった。本当に良かった。」
そう言って、美和は手を力強く握った。しかし束の間だった。
「私は、愛という言葉も、愛という感情も知らない。だから、君を愛しているとも言えない。」
「どうして、そんなことを言うの。愛していると言えば、ただそれだけでいいのよ。」
哲也は、美和の言っている愛というものが、友の心以上のものであることを知った。しかし、自分の心を述べるには、いかにも自分も美和も寂しいことだった。
「私は、増せているわ。それはそうよ。貴方を知る前は、もっと、もっと危険な女でしたわ。男の子を引っ張り込んだりしました。でも、貴方には違います。貴方は、私の心の中に入り込んでいる。」
「美和さん。こんな事を言うのは、本当に悲しいことだが、私の愛というものは、貴方だけに捧げるつもりはない。いや、私の愛は、誰にも捧げない。愛なんて消えてしまったんだよ。」
「いやよ、嫌よ。そんなことを言うのは。」
「美和さん、よく考えてくれ。私は、どんな女性の前に出ても、恥らいを感ずるし、思いやる男なんだ。私も貴方も、まだ、ほんの子供なんだ。それに、私は、君の家に入り込む訳にはいかない。私は、一人で生きていくのだから。」
「嫌よ。離さない。この家から出さないわ。」
美和は、そう言うと、哲也の膝に凭れ込んで泣き出した。そして、声絶え絶えに言った。
「私には、貴方一人よ。母さんにも、父さんにも、田中さんがこの家に来たら、今からでも、一生一緒に暮らしてもいいって、言い聞かせたの。約束したわ。許してくれたわ。いくら年若くても、これが、私の精一杯の生きる望みよ。」
哲也は、悲しくなった。美和を悲しませたことに。この籠に入ってしまえば、何のために、自分は生まれてきたのかと思うと心苦しかった。
「美和さん、私は幻に過ぎない。この世の中は広いし、私のような人間も多くいる。君が求める私の姿は、どこかに見つけることができるはずではないのだろうか。もっと君に相応しく、気高く、君を幸せにしてくれる人が。」
「駄目よ。貴方がいるんですもの。それから、貴方は一人のはずよ。」
哲也は、美和が慕ってくれるのも嬉しい気持ちがあった。しかし、自分を愛してくれるには、いかにも勿体ない思いだった。朧気ながら、女性への想いが幾度も破れ、心密かに将来、伴侶とする人を求めないと思っていたのだ。
「嫌だよ。こんな華奢な籠に入って。」
哲也は、重々しい甘さに絶えきれずに言った。そして、美和を横に払い除けた。美和は、目に溢れる涙を湛えて見返した。
「私がこの家から出て行くわ。一緒になれるなら。」
そう言って美和は、哲也に覆い被さろうとした。哲也は、美和の腕をしっかり押さえた。白い腕が哀れだった。
「それなら、こうしょう。私の願いだ。聞いてくれるね。」
美和は躊躇っていた。逃げ切るための言葉だと思ったのだ。
「私が、それ程相応しい善い男なのか、もっと人と、大勢の人と交わってみなさい。君は、大学へ行くだろうし、そうだ、大学卒業後に、まだ君が私のことを最愛の人と思っているならば、私も喜んで、君の籠に入り、できるだけ君を幸せにしてあげよう。いいね。」
「それまで会えないなんてこと、ないんでしょうね。」
「君が、私のところに訪れてくるなら、それも良いだろう。」
「いいわ、できるわ。きっと、きっと、貴方はこの家の人になりますわ。」
哲也は、美和が嬉しそうに涙を拭いているのを見て、その清純さを改めて見直した。しかし、美和が指を折って数えているのを見て、その間、自分を思い続けることは不可能なことであると信じていた。哲也は、それが当たり前で、期待もしていた。美和は、もっと自分より素晴らしい人を思い続けることになるだろうと思った。そして自分を思ったことを、馬鹿らしかったと嘲笑うことになるだろうと思った。彼は、一人の女性に別れを告げた。それは、人生の中途で生きることに気付いた者と、天性として生きることを待っている者の違いだった。

 

その一)(その二)(その三)(その四)(その五)(その六