リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集
「川の堤を歩いて」(その四) 佐 藤 悟 郎
(その一)(その二)(その三)(その四)(その五)(その六)
それから、美和は彼に殊更に近付いた。学校でも、人前で連れ立っていることが多かったし、休み時間に校庭を巡ること、朝、橋のたもとで彼を待っていること、放課後になって帰りを誘いに来ること、全て人前でのことだった。そして、彼の家を訪れ、遅くまで語り合ったり、音楽を聴いたり、勉強をしたりしていた。そして周りの人に憚ることなく、泊まることさえあった。しかし哲也は、別れを告げた女性には、摂理を全うしていた。
晩秋の午後に、哲也のところへ尋ねてきた人があった。それは、哲也が以前想いを寄せていた女性の弟後藤淳造だった。哲也は、美和を誘って三人で散歩に出かけた。
以前想いを寄せていた女性について、哲也は何も心苦しさも感じなかった。友としての親しく生まれ変わっていたのである。丘に登り、木々の間から町を望み、大河の流れを見ていた。淳造は、姉の道子には、今はもう変わらぬ恋する男性がいると言っていた。淳造は、快く礼を述べて去っていった。遠い、遠い、他の土地へだった。
哲也は思った。自分が、如何に隠し立てしたことであっても、その茫々とした今迄の人生の中で、如何に女性に対して頭を使い、悩んできたかを知った。しかし、全てが儚いのだ。伴侶とする人が一人であるのに、想いを寄せる人が、如何に多いかについて不思議に思った。何気なしに生きてきたが、それでは本当の自分の人生を得ることができないと思った。
悩める心の中にも、自分が生きていく上に、絶えず考えなければならないもの、それは限りない知性であると思った。日々の生活が、悩みの一日で過ごすことよりも、自分の知性を育てる落ち着きが欲しいと思った。悩める心を自分自身で押し付けることになるだろうと思った。楽しみのない人生のようにも思った。しかし、自分はそれでよいし、それで押し通すのがよいと思った。深い愛情に陥らない人になってもよい、知性を求めることを止めてはいけないからだ。傍観者の立場で人生を辿ろうと、彼は思っていた。
三月に入り、美和は東京の女子大学に合格した。哲也は、市役所職員に採用される通知をもらっていた。四月になって早々の日曜日、美和は両親と共に東京へと向かった。哲也は駅まで見送りに行った。
「東京には、叔母がいるの。叔母のところから通っても良いと言っていたけど、中々厳しい人なのよ。大学近くでアパート暮らしをすることにしたわ。」
汽車が来る間際に、駅のホームで美和が言った。哲也は、板チョコを渡した。
「汽車の中で食べてくれ。好きなんだろう。無理をするなよ。体には気を付けてな。」
哲也はそう言って美和と握手をして別れた。客車の窓から手を振る美和に、哲也も手を振って見送った。
駅から家に歩いて帰る途中、哲也は何か生活に穴が空いたように感じた。美和が大学に行くことを強く勧めたのは哲也である。美和が東京で生活をし、多くの経験を積むことが良いことだと思った。自分の思うように美和と行動していたなら、美和が誤った者にすがりつくに他ならないからだった。でもそんな考えが果たして正しかったのだろうかとも思った。
哲也は、美和から激しい心を打ち明けられた日のことは忘れ難いことだった。そして哲也の、あの日の行いは正しかったと思った。人の心が変わるのも正しいと思ったが、心の片隅に耐え切れぬ悲しさを感じていた。求めれば、求めることができた幸せだった。しかし自分だけの幸せで、美和の本当の幸せではないと思っていた。美和は、一緒にいれば自分も幸せになれると言ったが、それは美和の無知と幻影の神に弄ばれたに過ぎないと思った。哲也は寂しいと思いながらも、美和が本当に幸せになってくれることを望んでいた。美和が大学を卒業して、胸を高く躍らせて駆けてくるかも知れないと、心の片隅に思いを抱いていた。
哲也は高校を卒業するとその町の市役所に勤めた。勤め始めた初日に、哲也は市民課に配置となることを命じられ、窓口業務をすることになった。市長の訓示を受けた後十日間は、新入職員の研修で、午前中は市役所業務の全般についての教養があり、主に各課長の教養を受けた。午後は配置された市民課で、先輩職員から実務の指導を受けた。研修期間中、哲也は思った。多種多様の書類があり、その名称、書類の記入方法、書類の法的根拠などを把握する必要があると思った。研修期間が終わると、哲也は全ての書類の一覧表を作成し、一覧表に従って書き捨ての用紙を集めた。書き捨ての用紙がないものは先輩等にことわり、空欄の用紙を一揃い集めた。その根拠となる法令集を買い求め、例規等は課の書棚から取り出して熱心に読み込み、必要な事項をノートに書き込んでいった。市民課の課長池田吉夫氏は、彼の仕事ぶりを好意を持って見つめていた。
彼が市民課の窓口にに座って一週間後のことだった。哲也が下を向いて例規を読んでいるとき 「こんにちは、田中君。」
という声に、ハッとして顔を上げた。そこにはにこやかな笑顔を見せる美和の父憲一の顔が飛び込んできた。憲一は、声をひそめて言った。
「田中君、週に一度くらい行政書士としての仕事に来ているんだ。よろしく頼むよ。」
そう言うと、手を軽く挙げて待合室にある行政書士の机に向かった。哲也は、美和から父が行政書士をしていることを聞いており、市役所にも顔を見せることがあるとも聞いていた。行政書士仲間で交代で市役所の机に座り、市民からの代書依頼や相談に応じているとのことだった。
藤田美和の家は多くの土地を所有する豊かな家だった。美和の父憲一は、行政書士として街に事務所を構えていた。また地域での信望もあり区長や民生委員もしていることから、市長も一目を置く存在だった。
美和が東京に行って、十日になっただろうか、美和から哲也の元に手紙がに届いた。手紙は、
…「東京に着いた日は、両親と共に叔母の家に泊まったの。歓待を受けたわ。翌日に私が住む大学近くのアパートに両親と一緒に行ったの。荷物は着いていたので、それを両親に手伝ってもらって、配置やら片付けをしたの。机の上に哲也の写真を置いたわ。それが終わって、近くの店で食品やお風呂用品などを買ったの。
翌日は、大学の入学式で両親も出席したの。夕方になると父と母は帰って行き、私はひとりぽっちになった。寂しくて涙が出てきたわ。
大学へ通っても、どうして大学に入ったのか後悔したわ。哲也が望んだことなので、我慢することにしたの。今日は日曜日で、都内巡りの観光バスに乗ったわ。皇居、東京タワー、浅草などを巡ってきたの。でも、アパートの部屋に入ると寂しくてたまらないの。哲也に会いたい。」…
哲也は、美和の手紙を読んで、周囲の人との交わりがなく、孤独な生活を送っていることを感じた。彼は、先ず身の回りを片付けること、周囲の人に話しかけ友達を作ることなどを婉曲に綴って送った。また哲也自身も寂しいから、給料をもらったら会いに行くことにするから、楽しみにしていると付け加えた。
七月に入っての土曜日の午後、梅雨時の雨が降り続いていた。仕事に余裕もできた彼は退庁後家に帰った。昼食のパンを食べた終わったが、何か手持ちぶさたになった。何か小説でも買って読もうかと思い家から出た。コウモリに落ちる雨音を聞きながら、本町通りにある吉沢書店に向かった。その書店の次男坊の勉君は高校の同級生で、東京の大学に進学していた。書店に入ると、制服姿の男女高校生の姿が目に付いた。哲也は高校生の頃、兄弟からの仕送りで生活しており、本を買い漁るような生活ではなかった。市役所に働き始めて給料を手にすると、単行本を買う余裕ができたのである。
多くの小説が置いてある棚を見ていたが、何を買ったら良いのか見当がつかなかった。「文学入門書」と書かれた本を手にして開いた。色々文学についての説明が書いてあり、多くの作品名が登場、あるいは列記されていた。哲也は、小説を読むにしても体系的なことを知らなければ、頭の中で整理がつかなくなるのではないかと思った。結局小説を買わず、「文学入門書」を買うことにした。書店の帳場に行って金を支払ったとき、帳場の片隅に「通信大学の案内」と書かれたリーフレットが目に付いた。
「これ頂いて良いですか。」 と言って、店員の了承を得て、それも手にして書店を出た。新入職員研修での総務課長の教養を思い返した。
「君たちが勉強することを勧めています。通信大学へ行く道だって開かれている。知識や教養を身に付けることは、市役所職員にとっても必要不可欠なことです。」
そんなことを思い出しながら下宿へと帰った。
哲也は部屋に入ると、通信大学のリーフレットを開いた。大学は法学中心の大学で、書店の次男坊の勉君が入学した大学のものだった。色々と法律関係のカリキュウラムが並んで書いてある。入学は四月と十月の二回あり、十月の申込期限は八月二十日となっていた。
「市役所の仕事も、法律と大いに関係ある。」
そう思ってリーフレットを脇に片付けた。「文学入門書」開いて読んでいたが、通信大学のことが頭から離れなかった。
哲也は、国家資格を取得するには大学卒業資格があると有利であることを、高校時代に担任教師に教わったことがあった。夜学でも、通信教育でも卒業すれば大学卒業資格を得ることができるということだった。哲也は、将来何になりたいということはなかったが、美和に大学進学を強く勧めたこともあり、自分も大学卒業資格を得たいと思った。
市役所で仕事をしていても、通信大学への思いを払いきれなかった。彼は池田課長に直接相談した。池田課長は、
「良いことじゃないか。法律の勉強なら仕事にも役立つ。スクーリングについても認めるよ。やってみたまえ。でも、以前にも通信大学をやった者があるが、終わりまで続いた者はいなかった。それでも法律の知識をある程度得て、仕事に自信を持つようになっている。難しいだろうが、やってみるが言い。」
と、激励とも受け取れる答えが返ってきた。哲也は、リーフレットに書かれているように、入学申請書の書類を整えて大学へ送り、通信大学で勉強することになった。
(その一)(その二)(その三)(その四)(その五)(その六)
|