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「川の堤を歩いて」(その六)
佐 藤 悟 郎
(その一)(その二)(その三)(その四)(その五)(その六)
四月も終わろうとする日曜日の午後だった。哲也は晴れて暖かい日だったので、川の堤の春風を求めようと思い外出の用意をしていると、玄関の戸を叩く音がした。玄関の扉の錠を外して戸を開けると、両手に多くの荷物を提げている美和の姿があった。
「ただいま。哲也。」 そう言って美和は驚きの表情を見せる哲也を見つめた。哲也は食い入るように美和を見つめ、そして笑顔を見せると言った。
「お帰り、美和さん。」 美和は玄関に入り、両手の荷物を廊下に投げ捨てるように置き、靴を脱いで廊下に上がると彼にしがみつくように抱きつくのだった。
哲也のアパートの部屋は、六畳二間と台所、便所、風呂場がある。一室は居間、もう一室は寝室としていた。美和は、手荷物を開くと、本や写真アルバム、化粧品、着替えなど、当面必要なものを我が家のごとく、机や押し入れに片付けた。座卓に向かい合って座ると先ず哲也を見つめて、大学を卒業して帰りが遅くなったことを詫びた。
「私、習い事を欲張ってしまったの。お花とお茶、それにお料理を習ったの。」 そう言い出したのを、哲也は頷き美和を見つめながら微笑んだ。
「母が家でお花を教えているの知っているでしょう。私が何か習い事をしたいと母に相談したの。母が知り合いの先生がいるからと叔母の家からそう遠くない先生を紹介してくれたわ。お茶は、叔父さんの強い勧めがあり、断ることができなかった。私の家に茶室があることも知っていたし、そこに月に一度来られるお茶の石澤先生のことも知っていたの。卒業間際になって忙しかったの。卒業するための勉強が、思った以上に手間がかかったの。」
哲也は美和の顔を覗き込み、興味深そうに幾度も頷き話を聞いていた。
「お花の時間が足りなくなって、卒業してからも稽古を続けていたの。母が折角だから指導員資格だけ頂くのよと言ったからなの。父には内緒にしておくからと言っていたわ。やっと一番下の指導員資格を頂いて帰ってきたの。遅くなってご免なさい。これから母の指導を受けてもっと上手になるように頑張るわ。」
美和はそこまで言うと、哲也に向かってぺこんと頭を下げた。
「良かったね。心配していたけれど、頑張ってきたんだから嬉しいよ。それにお茶の方はどうなったの。」 哲也は、話の続きを聞きたいという風に問いかけた。
「そうお茶の方は、修行が足りないと叔父に言われたわ。家の茶室に来られる石澤先生に頼んでおくから、修行を積みなさい言われたの。それでも最低の指導員資格を得ることができたの。」
美和は、嬉しそうに答えた。 「良かったね。二つとも指導員資格を取れたなんて、素晴らしいことだよ。」
哲也はそう言って、眩しそうに美和を見つめた。
「でも、お料理の方は、そこそこだった。お花とお茶で追い捲られたの。でも哲也の口に合う料理を心掛けるから、拙くても怒らないでね。」
付け足しのように美和が料理について言った。 「怒るなんて、そんなことあるもんか。美和さんの作るものは美味しいに決まっている。」
哲也は、笑いながら言った。
電気ポットの湯が沸くと、美和が 「コーヒーないかしら。飲みたいわ。」
と言った。哲也は、インスタントコーヒーならあると答えて、台所へ行き、インスタントコーヒーの瓶とカップとスプーン、それに角砂糖の入った箱を盆に載せて持ってきた。美和が二つのカップにコーヒーを入れ、砂糖を二つずつ入れた。そして美和は、四年間の大学生活を話し始めた。
「大学へ行ったらどうなの。これは哲也が言ったことでしょう。私、哲也が私のことを試していると分かったの。私が心変わりをするんじゃないか。世間知らずの私に、他にも良い人がいるということを知ること。私を試しているんだわと思ったの。」
そう言ってコーヒーを一口飲んだ。
「そう、哲也が言ったとおり とても素晴らしそうな人がいっぱいいたわ。でも、哲也以上の人なんていなかった。そんなこと大学に入って直ぐ分かったわ。」
「私、家に帰ったら、大学に戻れない、大学なんか辞めてしまう気がしたの。でも、哲也と一緒になって、約束を破って、嫌われるのはいやだったの。だから家に帰るのが怖くて、帰らなかったの。」
「勉強もしたけれど、将来の生活のことを考えたわ。私の母はお花をやって生き甲斐を感じていたでしよう。私も習いごとをすることにしたの。そうすれば四年間、我慢できると思ったの。」
そう言うと、哲也に向かって明るく微笑みを見せた。 「色々苦労をかけたね。ありがとう。」
哲也は、美和にねぎらいの言葉をかけた。そして二人は、顔を見合わせながらコーヒーを飲むのだった。そして思い出したように哲也は美和に尋ねた。
「美和さん、家の方に寄ってきたの。」 哲也が美和に尋ねると、美和は手を休めて 「美和さんだって。他人事のように聞こえるわ。美和と言ってね。」
そう言ってから
「家って、ここが私の家よ。お母さんには、電話で哲也のところに帰るからと言っておいたわ。茶箪笥や鏡台などは、明日ここに届くことになっている。哲也、今日から一緒に暮らすのよ。いいでしよう。」
美和は嬉しそうに話していた。 「ああ良いよ。でも手狭になりはしないかな。」 そう彼が答えると、美和は彼の前に向き合うように座り込んだ。
「私、結婚のことを考えていたの。私の言うことを聞いてくれない。私と哲也は、できるだけ早く藤田の家に移り住むことにする。そしてできるだけ早く婚姻届を出すの。私、一人娘なの。哲也には悪いけれど、哲也には藤田の姓を名乗ってもらいたいの。どうかしら。」
哲也は、美和の真剣な眼差しを見つめて聞いていた。
「美和さん、いや美和、色々と考えてくれてありがとう。美和のご両親が、それで良いのであれば、そうして欲しい。」
美和は、哲也の返事を聞くと、花が咲いたように笑顔を見せた。
翌日、哲也が市役所へ出勤して間もなく、美和の父憲一が姿を見せた。哲也に手招きを見せて、待合室の隅で向かい合った。
「田中君、私の家に入ってくれることになったんだって。」 そう憲一が尋ねた。哲也は憲一に一礼すると
「はい、そうしていただければ、よろしくお願いします。」 哲也はそう答えて、再び礼をした。
「私も、あれの母も喜んでいる。明日、美和との婚姻届を出すことにしよう。週末には、二人でアパートから引っ越してきたら良い。」
嬉しそうに憲一が言った。更に 「市長に、一言話してくるから。」
と言った、哲也が頷いているのを見ると、遅れて登庁したばかりの市長の部屋へと向かって歩いて行った。
その日、哲也は定刻になって、寄り道もせずにアパートに帰った。玄関に入ると良い匂いが流れてきた。 「ただいま。」
彼は、そう声をかけた。玄関から台所が見える。新しい暖簾が掛かっており、その奥から 「お帰り。」
美和の溌剌とした声が聞こえた。直ぐに暖簾を手で払いながら美和の笑顔が見えた。 「ご苦労様でした。」
そう言って美和は手を伸ばした。哲也が戸惑っていると、美和は恥ずかしそうに哲也が下げいる鞄に手を伸ばした。 「ありがとう。」
と哲也が言いながら差し出した鞄を、美和が受け取り、奥の部屋へと行った。鞄を机の上に置き、美和が 「着替えをしますか。」
と彼に尋ねた。哲也は不思議に思った。哲也には着替えをする習慣がなかったのだった。哲也は背広とズボンを脱いで、普段着に着替えようとしたところ、どこから手に入れたのか長着と帯を彼の前に乱れ盆に入れて出した。
「私の父は、夜になると、いつも長着になるの。」 哲也は頷きを見せて長着に着替えると机に向かった。一時間ほど通信大学の勉強をして食卓に着いた。
「口に合うかどうか分からないけれど、食べましよう。」 哲也は、見た目にも美味しそうな料理を見た。 「由美、料理、見事なものだ。」
向かい合って、時々顔を見合わせ、美和の料理の説明を聞きながら哲也は食べた。哲也が、時々褒め言葉を言いながらの食事だった。
「美和、今日、お父さんに言われた。明日、婚姻届を出すようにと。美和も一緒に役所に行ってくれるだろう。きっとお父さんも来ているに違いないから。」
哲也の言葉を聞くと、美和は嬉しそうに微笑んだ。 「一緒に出向くなんて、少し変よね。三十分後に行くわ。それで良いでしょう。」
哲也は、美和の気遣いを感じ、頷きを見せた。
こうして田中哲也は美和の家の姓「藤田」を名乗るようになった。一週間ほどしてアパートを引き払うための荷造りも終わった。運送屋が来て素早く荷物を幌付トラックに積み込んだ。トラックを見送ると
「堤を歩いて、家まで行かない。」 美和の言葉で、二人は堤に向かった。美和の家のある集落近くになって美和は立ち止まった。
「哲也、長い間待っていてくれてありがとう。こうして哲也と一緒に歩くなんて、美和はとっても幸せよ。いつまでも一緒にいようね。」
美和は哲也の瞳を覗きながら言った。 「私も幸せだよ。美和が幸せなんだから、なおのこと幸せだよ。美和、ずっと一緒にいようね。」
と頷き、微笑んで哲也は答えた。
これからの人生、色々なことが起きるかもしれない。哲也は流れるままに人生を受け入れようと思った。美和と連れ添って人生を歩けば、何も怖れることはないと思った。これは以前、この川の堤を歩いているときに決めたことだった。暖かい日差しを二人で仰ぎ、そして顔を見合わせた。美和は手を差し伸べ、哲也は美和の手を握った。二人の手は結ばれ、そして歩き始めた。藤田の家がある町の森影は浅緑に見えていた。
彼は、司法書士になるための勉強を続けている。美和の父は、自分の事務所の看板に司法書士が付け加えられるのを楽しみにしていた。
美和の母は、生け花教室に美和を加えて続けている。屋敷の一角に茶室を設け、市のお茶の石澤先生を招き、近所の人にお茶を振る舞った。美和は、お茶の石澤先生の来ない日は、自らお茶を点てて指導するようになった。
(その一)(その二)(その三)(その四)(その五)(その六)
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