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      「秋の夕暮れ」 (その1)

    

                                             佐 藤 悟 郎

  

(その1) (その2) (その3) (その4) (その5) (その6)

  

    

 私の故郷は、信濃川が山間に流れ、山の裾野がなだらかに広がり、森が多くて緑も深く、静かに川の流れる音が聞こえるところだった。街から五キロほど離れている集落に、私の生家があった。その生家から新潟に移り住んだのは、高校入学の時だった。新潟に住むことになったのは、父の命令によるものだった。父は横山鉄治と言い県議会議員で新潟市にも事務所を持ち、私を後継者にするため、新潟での教育を受けさせようと新潟に呼んだのである。

 私が故郷に帰るのは、夏休み中のお盆と冬休み中のお正月の二度である。新潟の高校に入り友達もできた。映画も見に行き、繁華街にも出でかけていくことがあった。都会の生活に馴染むに従い、故郷への関心も薄れていった。故郷に帰っても、夏は、がら〜んとした奥の広間の縁で、藤椅子に深々と座り込み本を読み、夜の十時になると眠ってしまう。冬は、炬燵に入って本を読んでいる。その時に私がやることは、本を読むことだけだった。

 私の妹、静香は慎ましやかな女性だった。私が妹の部屋を訪れると、決まって軽く瞳を上げて微笑んで迎えてくれる。母、良子によく似た女性だった。私が故郷に帰って本を読んでいると、妹は日に一度言う。
「道夫さんのところへ、遊びに行かないの。」
そう言われると、幼い頃からの親しい友達の石澤道夫を思い浮かべる。私は、道夫が好きだったが、道夫の家の雰囲気というものは嫌いだった。中風になっている道夫の祖父の姿を見ると、気持ちが滅入ってくるのだった。

 妹が生家を去り新潟に来たのは、新潟の女子高校に入る時だった。私が高校三年生になる時で、妹が新潟に来ることについては私が誘った。妹の将来を思うと、やはり都会で過ごした方が良いと思い、父に頼んで妹を呼んだのである。故郷には祖父母がおり、母はその面倒をみていた。妹は、そのとき何故か新潟に住むことを中々承知しなかった。母の決断で、渋々妹が来ることになったのである。

 妹が来てから、私の心は豊かになった。妹が来るまで、私は心細い思いで毎日を過ごしていた。妹は、慎ましやかで姿も美しく、人前に出てもしっかりしており、私は誇りに思っていた。学校から帰って、夕方になると一緒に散歩をする。妹は疲れたと言って、私の足元に屈み込む姿を見せていた。そして、時々私に話しかけてくる。可愛らしく、また賢い妹だと心から思った。私は、妹こそ幸せにならなければと思い、心配りをしたつもりである。日課となった散歩と学習、私の心細かった心は豊かになっていった。妹は、時折故郷へ帰った。そんな時、試験勉強が気にかかる私は、取り残されたような寂しい感じを抱いた。妹が帰ってくる時間が分かると、何時も新潟駅まで迎えに行った。故郷から帰ってくる妹を見ると、必ず明るい表情だった。

 私の級友の黒沢忠明は、妹に好意を抱いているようだった。私と黒沢は、家でよく勉強や雑談をする仲だった。都会での味気のない生活を豊かにしてくれている好学生でもあった。その春、妹が田舎からきて住むようになり、黒沢は身だしなみに気を付けるようになった。また、妹の好物をしきりに私に尋ね、ケーキやら果物をふんだんに持ってくるのだった。妹は、黒沢の持ってくるものを、素直に喜んで受け取っていた。その都度、妹は黒沢に対して愛らしい瞳を投げつけ、丁寧なお礼を述べていた。

 県民会館でドイツのベルリン・フィルハーモニ楽団の演奏会があった。黒沢は、三枚の入場券を持ってきた。黒沢に連れられ、私と妹は演奏会に行った。その広い会場の幕間で妹が席を立ったおり、黒沢は私に話しかけた。
「これだけ多くのインテリー女性がいるが、やはり君の妹が一番美しい。本当に君の妹は美しい。」
道夫は、少し恥じらいで話していた。私もホールの中を見渡してみた。なるほど、上品な女性が多く目に付いた。見渡しているうちに、ふと私の方を見つめている女性に気付いた。登校する時に、何時もバスの中で顔を見る女性に似ていると思った。妹が席に戻ると、黒沢はチラッと妹を見つめ、平気を装っていた。

 演奏会が終り、私と妹は、玄関ロビーで用を足しに行った黒沢を待っていた。ゆったりした足取りで、聴衆は県民会館を出ていく。幕間で私たちの方を見つめていた女性も出口に向かっていた。思ったとおり、バスの中でよく顔を合わせる女子校生に間違いなかった。父親らしい人と腕を組んで歩いていた。父親に甘えるような仕草をし、水色のスカートが軽やかに揺れていた。私の前を通り過ぎようとしたとき、目が合ってしまった。その少女は、父親らしい人から腕を離すと、少し顔色を変え、私に向かって立ち止まった。父親らしい男は、急に立ち止まったのに少し驚きをみせ、そして間もなく私の方を見つめた。

 少女は、二言三言父親らしい男に話し、間もなく二人は私の前にきた。
「君、私の娘の友達だって。」
いきなりそう言われて、私は戸惑った。少女を見つめると、少女は恥じらいながら微笑んでいた。
「はい、始めまして、横山慎司と言います。よろしくお願いします。」
私は、そう言って頭を丁寧に下げた。少女は、安心したように頷いていた。少女の真意は、私には分からなかった。
「君、遅くなって悪いが、これから私の家に寄ってくれないか。」
私は、妹に向かって振り向いた。妹は、平然として笑顔を見せていた。
「お兄さん、行ってらっしゃい。」
私も笑って見せた。丁度、黒沢が戻ってきたのを見ると、笑顔を私に振り撒きながら妹は走り去った。

 少女の父親は歩き出した。はにかんだ少女の脇に寄り添い、私も歩いた。県民会館の階段を下りながら振り返ると、黒沢と妹は並んで立ち、大きく手を振っていた。階段を下りると、黒く輝く外車が目の前に現れた。その車の運転手は、車から下りると、少女とその父親の前に立ち、深々と頭を下げていた。車の中の後部座席で、私とその名前も知らない少女が並んで座っていた。時折、その少女は、私に深い微笑みを見せた。

 私は、不安な気持ちを抱きながら、その少女の家を訪れた。少女の家の広い玄関に着くと、私の耳元に
「私の名前、大久保優子です。」
と小声で言ってくれた。そして家に入るなり少女は、出迎えに出た母親に私を紹介した。応接室に入って少女の父は、私に家のことを聞いた。
「父は、県会議員をしている横山鉄治です。」
と答えた。少女の父親は、私の父を知っており、私を親切に受け入れ、私の父に電話で連絡をしてくれたようだった。少女の母親も、ジュースとお菓子を運び、屈託のない態度で私に話しかけてくれた。私は、その少女が妹と同じ高校の一年上の生徒であり、ピアノが好きな慎みの中にも明るい女性であることを知った。少女の家のホールに案内され、ピアノを弾く後ろ姿を見つめ、美しい少女として心に留めた。
「これから貴方とお会いしたとき、会釈をしますわ。」
「お話をしてもよいですか。」
私が帰るとき、見送りに出た少女は、私に近寄り小さな声で、そう耳元で囁いた。私は、微笑んで頷き、握手を交わし分かれた。少女の父は、わざわざ車を使って私を家まで送ってくれた。

 私が家に帰って部屋に入ってみると、黒沢と妹がテーブルに向かい合って座っていた。二人は黙って俯いていた。テーブルの上の紅茶は冷えており、ケーキも手がつけられていなかった。私は、暫く二人を見つめていた。何か、気まずいことがあったのかとも思った。 妹は、急に立ち上がり、私の紅茶を入れてくると言って部屋から小走りに出ていった。黒沢は、一瞬私の顔を見つめた後、下を見つめながら立ち上がった。
「俺、今日は帰るよ。また遊びに来る。」
弱々しい声で言いながら、そそくさと帰って行った。私の部屋の中に、私の心に馴染まない空気が漂っているのを感じた。それから暫くの間、黒沢は訪れてこなかった。妹の様子に別段変わったことはなかった。

 私は、演奏会で知り合った優子と、人目の多い場所で会うのが恥ずかしく思っていた。高校へ登校するのも、歩いて行くようになったのである。そんなある日、登校中の道で優子から声を掛けられた。立ち止まって振り返ってみると、セーラー服姿の優子は恥じらいを見せ、急に俯いてしまった。高校生の多くが私と優子を見つめ、そして通り過ぎて行く。私は、優子が顔を上げるのを待って会釈をした。優子は顔を赤らめ、明るい笑顔を見せながら私の方に歩み寄って来た。

 私と優子は、肩を並べ黙って歩き始めた。ただ黙って、ゆっくりとした歩調で歩いていた。通り越していく同級生などに肩を軽くたたかれる。その度に私は、顔が火照るのを感じた。私は、恥ずかしさで一杯になった。
「急ごう」
私は、優子に小さく声を掛け、急に歩調を早めた。優子も歩調を早めた。私は、ただ周囲の人の目から逃れようと思った。優子を振り払うように歩調を早めたのだった。私が一瞬振り返ると、優子は悲しそうな顔をして小走りで付いてくる。
「呼び止めたりして、御免なさい。」
優子は息を切らせ、歩調を緩めた私に話しかけてきた。
「妹さんから聞いたの。このごろ眞司さんは、歩いて登校するってこと。でも、もうついて行けない。歩くのが早いんですもの。」
私は、軽く会釈をして、また歩調を早めて歩き出した。とにかく誰も見えないように俯き、真っ直ぐ歩いた。少し正気を取り戻し振り返ってみると、私の後ろに優子の姿はなかった。

 私は、授業を受けながら、時折、深い吐息が出てくるのを押さえることができなかった。私は、周囲の人の目を逃れる行動を取った。残された優子は、どんなにか深く、そして多くの恥ずかしさを受けたことだろうと思った。優子の悲しい姿、惨めな気持ちを思い浮かべ、私は人間として恥ずかしい行動をしたと深く後悔した。その優子は、もう私に好意を抱いていないだろう。恨みや悪意を持っているだろう。それは当然なことであると思った。

 私は、家に帰ってからも優子のことを考えた。妹にも声を掛ける気にもなれなかった。妹も私に声を掛けなかった。私は、考えた揚げ句、優子に謝らなければならないと思った。バスで登校すれば、優子と会えるかもしれないと思った。そして三日目にバスの中で優子の姿を見つけることができた。バスの乗車口に入り、すぐ捜し始めた。込み合った人々の合間から、奥の窓側の席に優子が座っているのを認めることができた。官公庁の職員や高校生が多く乗車しているバスの中は、騒々しいものだった。揺れ動く乗客の間から、優子の姿を垣間見るのが精一杯のことだった。その、時々に見える優子の姿は、表情に力がなく、虚ろな様子にさえ思われた。

 女子高校の前の停留場でバスは停車し、多くの女生徒が降りていった。私は重そうな腰をゆっくり上げ、俯いて歩く優子を見つめた。私は、一緒に降りようと思った。力のない優子の姿を見ると、私の体は動くことができなかった。乗客の降りる流れに乗って、優子は降車口の方に向かって歩いていた。降りる間際になって、優子は隣の女子高校生の顔を見つめるとすぐ、私の方を見つめた。優子は、驚きの瞳を私に投げかけ、降車口に姿を消すまで私を見つめていた。そしてバスの外から、窓越しに私に向かって立っている優子の姿があった。弱々しい美しい女性の顔だった。

 私は、優子が憤っていると思った。そしてその怒りは消えることがないだろうと思った。無理もないことであろうし、私も優子と会わないように気をつけて行動をした。会えば気まずい思いをする、女子高校での妹も困るであろうと思ったからである。日が経つにつれて、私の困惑した気持ちも和らいでいった。そして優子の思い出を、甘美な思い出として心に止めていくことができるようになった。

 そのころ、黒沢と妹に関するある噂を聞いた。それは学校が終わった後に、二人で町を出歩いているということだった。
「静香、聞くけど、外で誰かと交際しているんじゃないか。」
私は、妹に問い質すような口調で尋ねた。妹は、黒沢と交際していることを素直に認めた。音楽会のあった日、私が家に戻るまでの間、黒沢と二人で私の部屋にいた。そのとき黒沢に好きだと言われ、二人だけで交際したいとも言われ、妹は承知したと言った。最初は、困惑しながらの交際であったが、今では楽しく交際をしているとも、妹は言った。
「別に咎めて言っているんではない。あいつだって、俺よりも増しな男だ。でも、二人で交際したという事実というものは、消えないものだよ。」
妹は、私の言っている意味が分からない様子だった。
「具体的に言えば、静香が将来会う人、また過去に会った人、それが好きな人であり尊敬する人であるかもしれない。それらの人にとって、静香が黒沢と交際していたという事実、公然とした事実であり、消えないということだ。その事実に対して誰がどう思うか分からないが、事実以上に歪めて思われることがある。それを承知しておかなければならないだろう。」
妹は、一瞬驚いて私に瞳を投げかけた。そして項垂れ、何かを考えていた。
「私には、お兄さんの言うこと、余りよく分からない。そんなに大袈裟に言わなくたって、私だって何となく知っているわ。」
妹のその言葉と表情には、私に対して初めての反抗する姿を見た。私は、もう何も言うことができなかった。妹と黒沢を並べて思ったとき、黒沢への不満が少しあったが、咎めるほどでもないと思った。

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