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      「秋の夕暮れ」 (その5)

    

                                             佐 藤 悟 郎

  

(その1) (その2) (その3) (その4) (その5) (その6)

  

    

 道夫の引っ越しは簡単だった。布団袋一つと行李一棹、それに折りたたみの洋服入れ一個だった。道夫は、寮に誰もいなくなる昼近くに、荷物を運び出した。誰の見送りもなく、言葉をかけてくれる者もなかった。
 居候になってから、道夫はよく私の書棚から本を引っ張り出し、日中読書をしていた。金がないためか、今迄のように、やたらに外出をしなくなった。父がいる夜になると、必ずと言ってもよい程、深酒をしていた。酔い痴れて話す戯れ言、緩慢な仕草は、私にとって快いものでなかった。妹も、酔い痴れている道夫を見て、良い感情を抱かなくなった。
 道夫が酒を飲み出すと、妹はサッサと自分の部屋へと引き籠もってしまう。私も道夫に追い出される。妹は、時々私の部屋に来て言う。
「兄さん、あれでいいの。」
私は、妹に返す言葉がなかった。だから私は、父に道夫の勤め先を早く決めて欲しいと言った。父は、道夫の勤め先を決める気配はなかった。
 夏休みも近いある夜、妹は父と道夫が酒を飲んでいる応接室に行った。妹は、精一杯の声を張り上げたのだろう。机に向かっている私の耳にも聞こえた。
「余り大きな声で喋らないでよ。勉強の邪魔になるから。それに二人とも、近頃酒の飲み過ぎよ。体に良くないから、少し控え目にしたらどうなの。」
そう言った後に、荒々しく戸を閉める音が聞こえた。
「兄さん、とうとう言っちゃった。」
その足で、私の部屋に来た妹は、舌を出し、少し興奮気味の顔に笑いを浮かべて言った。その日、二人は静かだった。静かさは、一週間と続かなかった。
「根っからの飲兵衛ね。二人とも。」
妹は、そう言った。酒飲みが嫌いな訳でもないのだが、二人の体を心配していることは確かだった。無論、妹が酒飲みを好きな訳でなかった。

私に夏休みが訪れた。午前中は勉強をした。陽の照る暑い日は、道夫とよく海へ出かけた。夜になって、東京の大学に行っている黒沢が、毎日のように妹を訪ねてくる。道夫は、父がいるときの他は、外出するようになった。道夫は、外で飲む程の金を持っていなかった。夜の十一時過ぎに帰ってくるのだった。妹は、黒沢と二人で部屋に入り放しで、道夫が夜外出するのに気付いていない様子だった。
「なあに、少しアルバイトをしているのさ。」
と道夫は言った。たまに、酒の臭いをさせて帰ってくる道夫、どのようなアルバイトか知らなかった。
 夕方近くになって、私と道夫、妹と黒沢の四人が連れ立って海へ行った。私と道夫は、海に入って泳いだ。三〇〇メートルも岸から離れたテトラポットに上がった。モーターボートが一台スピードを上げて目の前を通り過ぎていく。
「いい気なもんだ。人前で。」
道夫は、そう言うとボートの波が残っている海に飛び込んだ。中々浮いてこなかった。海面に浮いてくると、片手に大きな蟹を手にしていた。

 私と道夫が、妹のいる場所に戻ってみると、そこに優子がおり、私に向かって一礼した。真っ赤な水着に、水色のバスタオルを肩に掛けていた。
「妹さんにお会いしました。貴女と一緒と言ってましたので、待っていました。」
優子は、微笑んでいた。優子に誘われ、浜茶屋の二階の別室に行った。そこには優子の両親がいた。
「俺、もう一泳ぎしてくる。」
道夫を紹介しないうちに、道夫は浜茶屋から出て行った。夕陽が沈みかける頃、道夫は海に入ると一直線に沖へと泳ぎだした。まるで太陽に向かって泳いでいる様子だった。
「彼かね、君のところの居候というのは。」
娘の父がそう言った。そう言って娘の父は、道夫が泳いでいるのを見つめた。
「君の父が、中々頭の切れる男だから、私の秘書にしたらどうか、と話しかけてきたんだ。」
私は、道夫とは幼い時からの友達であるというほか、道夫について余り話さなかった。道夫は、人の秘書になれる男ではない。そんな詰まらない男ではないと思っていた。優子の父は、私の父が自分の秘書にしたい、とも言っていた。私は、父に失望してしまった。

 道夫は、私と違って頭の切れはよいし、それ相当の知識も吸収できる男だった。道夫を秘書にした人は、大きな利益があるに違いなかった。人に使われる道夫を思うと、余りにも惨めに思えた。
 道夫は泳いでいる。テトラポットを遙かに超え、波間に時折、影さえ飲み込まれる程、海に泳ぎ出ていた。私は、道夫が引き返してきたのにホッとした。道夫は二階の別室に入ってきた。
「随分、泳ぎ達者だね。」
優子の父は言った。優子は、水泳の選手になったら、と言った。
「あんなに泳いで、お腹が空いたでしょう。ご馳走になったら。」
妹は、道夫にそう言った。私は、どうしてあんなに遠くまで泳いだのかと尋ねた。
「いや、太陽が海の中にあると思ってね。太陽まで行ってやろうと思っただけさ。」
道夫が、簡単に言うと、一同は笑い出した。私も笑い出しそうになったが、独身寮での冗談に似ており、身震いを感じた。道夫は、アルバイトがあるからと言って帰って行った。

 私と妹、黒沢の三人は、優子の家を訪れた。私は、優子の好意的な眼差しや言葉を空しく感じていた。私のグラスに注いでくれるワイン、そのグラス越しに見せる柔和な微笑みと熱い視線、それは誰にでもする優子の癖なのだと思った。 優子は、大学に入りたいから勉強を教えて貰いたいと言った。私は、そんな気になれなかった。優子に対する猜疑心が募っている今、好意的な態度を取ることができなかった。結局、優子の試験勉強を見ることについては、私の家に来ると言うことで承知した。
 黒沢を家まで送り、家に着いたのは、夜の十一時頃となった。
「今日も、遅いのね。」
妹は、玄関に入るなり言った。私は、妹のその何気ない言葉が分からず尋ねた。妹は、近頃道夫が外出して、遅く帰ってくるのに気が付いていた。翌朝になっても、道夫は帰って来なかった。妹の部屋を覗いてみると、机の上に両腕を当てて眠っている姿があった。私は、妹が何を思い、過ごしているのか、分からなくなった。

優子が午後になると、私の家に来るようになった。私は、道夫に頼んで夕方まで優子の勉強を見てくれるようにした。黒沢が来ないとき、妹も勉強に加わった。道夫は、私の本棚の本を読んでいることが多い。道夫は、二人を前にして本を読みながら、時々、二人の方に目を向けた。気付いたことや難しいところを教えていた。
「何故、大学へ行かないの。」
優子は、道夫が優れた人であることに気付き、道夫に言った。道夫は、大学ばかりが人生でないというばかりだった。道夫は、夕方になるとアルバイトに出かけた。
 盆近くになって、道夫は妹を誘って外出した。妹と道夫の二人きりで外出するのは初めてだった。朝出かけて、夕方になって帰ってきた。明るい顔の妹は、夕食の食卓で言った。
「昼食、ご馳走になったのよ。街の大きなレストランで。」
道夫は、頷きながら聞いていた。妹は、可愛い目を流しながら、食事の合間に話し続けた。
 午前中は散歩と言うよりは、三時間も歩き続けたという。街を通り海岸に出て、海岸沿いを語り合いながら歩いたので、余り疲れなかったと言っていた。午後からは、海の見える丘で物語をしたと言った。一つの言葉を交互に出し合い、繋ぎ合わせながら、物語を進めていくということだった。

 黒沢が来ると、妹は自分の部屋に戻った。私と道夫は、間もなく妹の部屋に行った。私は、黒沢の前に座って、東京の話を色々と聞かせてもらった。黒沢に言わせれば、他の学生は全て馬鹿だと言っていた。
 道夫は、妹の本棚を見ていた。そして一冊の本を取り出して妹の脇へ行った。
「この本を、暫く貸してくれないか。」
道夫は、そう言って、白表紙の本を妹の前に出した。
「ええ、いいわ。イギリスのペンフレンドから送ってもらった、詩の本です。私には、よく分からなくて。」
そう妹が言うと、黒沢が白表紙の本に目を投げかけてから、妹に向かって言った。
「それはないでしょう。その本に目を付けていたのは、私なんですから。最初は、私に訳して貰うと言ったでしょう。」
そう言うと、黒沢は道夫の手からその白表紙の本を取ろうとした。道夫は、その白表紙の本を黒沢に渡さなかった。
「分かった。君が帰るまでの間、読ませて欲しい。」
道夫は、黒沢に一礼すると白表紙の本を持って、妹の机の前に腰を下ろした。

 一時間ほどすると、黒沢は帰った。帰り際に、白表紙の本は、明日、来た時に借りると、妹と約束をした。道夫は、机に向かったままだった。私は自分の部屋に戻り、一時間ほどすると、道夫が外出する音がした。私は不安を覚え、玄関まで道夫を追った。
「アルバイト先で、大事な用があるのを忘れていたのさ。」
道夫は、私にそう言って外に出て行った。私は、妹が心配で妹の部屋へ行った。妹は、案の定沈んだ顔をしてソファーに座っていた。
「何か知らないけど、道男さん、腹を立てていたみたい。」
妹は、不安げな顔を私に見せて言った。私は、妹の部屋で何があったのか問い質した。妹が言うには、道夫が
「この本はいい本だ。悲しい詩でもある。最後まで読めないのが残念だ。」
と言って、妹の部屋を飛び出したということだった。

 私は、妹の机の前に立った。本の脇にある紙切れに、訳したと思われる詩と思われる文章が書いてあった。その紙切れに、点々と濡れている跡に気が付いた。
「道夫は、どうして涙を流したのだ。」
私は、妹に尋ねた。妹は驚いて机の側に来ると、私が指差すところを見つめた。開いた本には、水玉のような水滴の跡が残っている。一部は、乱雑に拭いた跡が残っていた。
「分からないわ。私、何も言わなかったわ。兄さん本当よ。私だって、道夫さんが涙を流すなんて、そんな悲しいことないわ。」
妹は、今にも泣きそうな顔になった。
 妹の心に、道夫への熱い想いを感じたが、日頃の妹の行動に不満を持っていた。私は叱るように言った。
「お前は、道夫がどうして泣いたのか分からないのか。」
妹は、私を睨むような目をして答えた。
「そんなことが、どうして私に分かるの。」
私は、妹の返事を聞いて、もう何も言う気がなくなった。私は、道夫が好きだった。それだけに、感情の薄い妹を道夫と並べることを諦めた。私と妹は、暫く黙って紙切れを見つめた。

「秋の夕暮れ」

 秋の夕暮れに 農夫は忙しい
 けれど農夫は 夕陽を見つめる
 夕陽の中に 豊かな恵みを祈りながら
 故郷を追われ 夕陽を見つめる私は
 秋の夕暮れになると とても寂しい
 独り身の旅に 冷たい風が吹くからだ
 幾度も幾度も 恵みを訪ねた
 そして 幾度も恵みを失った
 また今日も 恵みを訪ねた
 明日も 恵みを訪ねるだろう
 秋の夕暮れは とても寂しい
 夕暮れの光は 私にも差すが
 黄昏の中の私は 心貧しく寂しい
 秋が過ぎれば 冬が来る
 今年の冬も 死を怖れ
 暖かい国を指して 旅をする
 陽は落ち果て 肌を刺す風が吹く
 憩う地はあるけれど 心は流離う
 鳥の渡る声を聞き 何処かへと問い
 心ある人に巡りあい 何処かへと問う
 別れを告げる悲しさに 荒れ野に立ち
 そよ風の吹く如く 静かに私は発ち
 心ならぬ旅立ちに 私は涙を落とした
 秋の陽は落ちて 私も去る刻が訪れた
 山と川を越えて 野辺と森をさ迷い
 恵み豊かな故郷の 懐かしさを……

 道夫の素晴らしい文字の所々が滲んでいた。妹は、唇を噛み締め、紙切れを見つめていた。私は気まずくなり、妹の部屋を出た。

 秋の彼岸を迎え、妹は墓参りのため父と一緒に故郷へ行った。道夫は、風邪を拗らせ、寝込んでいた。私は、妹が出発する前に、玄関先で言った。
「道男は、病気なんだ。お前、看病しなくていいのか。」
妹は、無言のまま、父と一緒に出かけた。私は、内心冷たい妹だと思った。夕方になって、道夫は
「アルバイト先に行かなくては。」
と言って、外出をした。私が止めるのも聞かず、微笑みを返して、外に出てしまった。

 夜遅くなって妹が帰ってきた。家の中を走る音が聞こえたかと思うと、妹は私の部屋に飛び込んできた。
「兄さん、道夫さん部屋にいないわ。どこへ行ったの。」
血相を変えて、大声を上げる妹を見て、私は唖然とした。
「アルバイトに行くと言って、出かけたよ。」
私は、妹を見つめ答えた。妹は、怒った様子で、荒々しく言った。
「何故、止めないの。病気だったんじゃない。熱があったんじゃない。体が悪くなったらどうするの。」
妹は、そう言うと私を見つめ涙を浮かべていた。私は、感情を剥き出しにすることない妹が、激しく動揺しているのを感じた。故郷で何かあったのだろうと思った。

 妹を宥め、道夫が帰ってくるのを待とうと言って、応接室に連れて行った。妹が落ち着いたのを見計らって、何があったのかを聞いた。妹は、道夫の家に関することを話した。妹の話は、悲しいものだった。

 道夫の家では、昨年の秋に、道夫の母親が突然に亡くなり、先妻の長男が家に帰って来た。道夫は、高校を卒業すると、逃げるように就職をした。道夫に異母兄がいることは聞いていた。十五歳ほど年が離れていた。道夫の父が後妻を貰った時、これが道夫の母だったが、先妻の長男は家を出てしまった。その長男が家に帰ってきて、道男のいる場所がなくなったとのことだった。


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