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「秋の夕暮れ」 (その6)
佐 藤 悟 郎
(その1) (その2) (その3) (その4) (その5) (その6)
夜が更けても、道夫は帰ってこなかった。妹は私に、アルバイト先がどこなのか尋ねたが、私は知らなかった。翌朝になっても、道夫は帰って来なかった。私と妹は、一睡もせず応接室で待っていた。父が帰ってきたので事情を話した。
「どこかで、悪友に引っ掛かっているのさ。酒に酔い潰れて、その内に帰ってくるさ。」
父は、軽く言うと、部屋へ行ってしまった。とうとうその日も、道夫は戻ってこなかった。 「道具はこの家にあるから、帰ってくるさ。」
私は、妹に言った。妹は黙って考え込んでいる様子だった。私は、その夜も応接室で眠った。
翌日、目を覚ますと、妹はテーブルに伏せていた。目の縁が赤く腫れ上がっていた。 「妹は、泣いたな。」
と、私は思った。昼過ぎになって妹は、目を覚ました。私は、軽い食事を妹の前に運んだが、妹は、少し手を付けただけで、食べるのを止めてしまった。
夕方近くになって、黒沢がやってきた。私は、妹に会わせたくなかったが、妹は会って話がしたいと言った。
「今まで、貴方と交際してきました。もともと貴方は、兄の友達です。貴方との交際は、これで終わりにしたいと思います。」
妹は、黒沢に言い終わると、応接室から出て行った。黒沢は、唖然として私を見つめ、何があったのか私に尋ねた。
「妹に何があったか知らないが、妹が言っている以上、交際は終わりだな。」 と、私は答えた。黒沢は、曇りがちの目をして私の家から立ち去った。
道夫が、私の家から出て、一週間も過ぎた。妹は、力を無くし、心配した父も夕方早く帰ってきた。無言で食べる親子三人の食事はまずかった。妹は、食事を殆どとらなかった。黙っている妹に何かを言えば、妹は泣き出すに違いなかった。
夕食の後、間もなくして、見知らぬ少女とその母が訪れた。その親子は、道夫を訪ねて来たのだと言った。とにかく応接室に通した。
聞いてみると、親子は、道夫がアルバイトをしていた家の人だった。新聞の広告で、少女に横笛を教える人を求めたところ、道夫が来たという。中学校三年になる少女に横笛を教え、更に高校三年生の長男の勉強まで面倒を見るようになったという。この一週間、道夫が来ないので病気かと思って見舞いに来たと言った。
私の父は、道夫が私の家を出たきり帰って来ないと、親子に言った。行き先については、皆目見当がつかないと説明をした。
「でも、行きそうなところ、一つくらい心当たりがあるでしょう。私の父も、先生なら、私の家に一緒に住んで貰っても、いいと言っております。」
そう言う少女は、髪の毛を後に束ね、よく櫛目の入っているきちんとした可愛い少女である。その親子は、是非、道夫を捜したいと言った。
私の父は、懐から一通の手紙を取り出した。
「これは四日前に、私の事務所に届いた、道夫君からの手紙です。読めば長くなりますが、もう道夫君は、この土地にいないだろう。私は、子供達の悲しむ姿を見たくないので、道夫君が帰ってくると言っていたのです。もう、はっきりさせた方がよいと思います。道夫君は、もうこの家に帰っては来ない。」
父は、手紙をテーブルの上に置いた。皆が黙ってしまった。 「お母さん、先生と、もう会えないのですね。先生、何処かへ行ってしまったんですね。」
少女は、そう言って母を見つめると泣き出してしまった。母は、少女の頭を抱え、優しく抱き寄せていた。
私は、妹を見つめた。妹の目から涙が溢れ、そして頬を伝って流れ落ちていった。今まで妹は、泣き顔を人前で見せたことがなかった。妹の啜り泣く音が、痛々しく聞こえてきた。私も、急に目の裏が熱くなった。そして涙が溢れてくるのを止めることができなかった。道夫は、何処へ行ったのだろう。帰ってきて欲しいと思った。病身のまま出て行った、痛々しい道夫の姿が目に浮かんでくる。
「泣くのは、止めなさい。」 父は、そう言って席を立ち窓辺へと行った。
「泣く者は、泣いてもよかろう。道夫君は、死んだ訳ではない。何処かで生きている。会える時がきっと来る。その時は、心を開こうではないか。」
父は、少し黙っていたが、独り言のように話し始めた。
「私は、道夫が私を頼ってきた時、子供が一人増えたと思った。私は嬉しかった。道夫の母とは、とても親しかった。結婚しようと思ったくらいにな。昨年の秋に、道夫の母が亡くなったとき、道夫を引き取りたいとも思った。世間体というものがあり、それはできなかった。」
父は、更に話を続けた。
「今年になって、道夫が私を頼ってきたとき、本当に嬉しかった。道夫に部屋を与え、好きなようにさせた。来年になれば、道夫を大学に遣るつもりだった。でも、道夫の心の動きや、心の重荷まで知ることができなかった。皆も、色々な面で、道夫を好きであり、愛していたと思っている。私は、実に、親としての心遣いが足りなかった。道夫が、この家を出て行ったのは、全て私の責任だ。」
父は、そう言って、テーブルの上に道夫の手紙を残し、応接室から出て行った。
私は、応接室から出て行く父の目に、涙が光っているのを見た。父の涙を見るのは、初めてだった。道夫を自由にさせていたことは、父の言葉で分かった。父の苦しみも初めて分かった。妹は、萎れて応接室から出て行った。少女も母に抱かれて私の家を立ち去った。
私達を、暗い中に陥れた道夫を憎もうとしたが、父の言葉で憎むことができなくなった。道夫を仕事に就け、私の家から追い払おうとした、私でなかったかと思った。友としての立場でしかなかった私だった。
道夫が、私の家を去ってから、妹が心配だった。妹は、思い詰めていた。泣き疲れて眠り、食事も軽いものを少ししかとらず、乱れた生活が続いた。思い出したように、琴を取り出して爪弾いていた。その纏まりのない琴の音が、机に向かっている私の耳に、痛々しく聞こえてくる。
冬休みも終わりに近付いたころ、妹は午後になって外に出て行った。何のためか白表紙の本を携えていった。私は心配だったので声を掛けた。
「心配ないわ。夕方までに帰ってくるわ。」
妹は、赤い目をしてそう言って出かけた。家を出て行く妹の後ろ姿は、哀しみに沈んでいた。私は、妹の命が心配だった。妹の部屋に入ると、机の上に涙に濡れた紙があった。
…帰ってきて欲しい。身を投げて貴方に抱かれたい。貴方がどんな人でもいい。酔いどれであろうが、病の身であろうが、帰ってきて欲しい。
私が欲しいのは、私の命よりも貴方だけが欲しい。心ない人と交際をする姿を見せた私が悪かったのです。
あの本は、貴方だけのものにすればよかった。あのことで、私の全てを貴方は見てしまったのです。
私は、貴方が生きている限り生きます。私の幸せが、何時、訪れるのか私は知っています。
貴方が帰ってくるのを信じています。私が心を開くのは、貴方が私の前に来るときです。…
私は、妹の紙に書かれた言葉を読んで、妹が哀しみの底に陥っていると思った。妹の激しい心が流れている。以前の私は、道夫と妹を並べて考えていた。それも妹が黒沢と交際するのを見て、その思いが薄れていったのを思い返した。
「妹は、素直でなかった。それだけに、自分を責め立てている。」 そう思うと、私は不甲斐ない男であり、妹は軽率で悲しい女だと思った。
私の父は、新聞広告や警察に頼み、道夫の消息を尋ねた。道夫の消息は、何一つ得ることができなかった。妹は、弱々しい姿で学校に通った。学校から帰って家に入る妹は、ひっそりとしていた。そして残り少ない夕方までの時間を、惜しむように外に出かけていった。
寒々としたある日、私は妹の部屋を尋ねた。妹は机の電気スタンドの明かりで勉強をしていた。椅子から振り返る妹は落ち着いていた。
「大分、元気が出たようだね。」
少しやつれた顔に赤味が差し、微笑みながら妹は頷いた。その微笑みの中に、寂しさが映っていた。私は妹に、道夫のことを忘れないで欲しいこと、元気を出して生活をして欲しいこと、たまには応接室で顔を合わせて欲しいことを言った。
「時が経っていけば、今より悪くなることはないと思うわ。」 妹は、そう言った。考えながら、一つ一つ考えながら言っている。
「私は、泣いたり、沈んだりする必要なんか、何もなかったんだわ。」 妹は、少し俯いて考えた。顔を上げて苦笑いをした。
「だって、私は、好きだと言ったこともないし、言われたこともないわ。だから、私が泣くことなんか、おかしいことだと思ったわ。」
また、俯いている妹の姿を、私は黙って見つめた。妹は、少し震えていた。
「兄さんが言うように、私は忘れたりなんかしません。言いたいことが、山ほどあるんですもの。」 私は、妹の言葉を遮るように言った。
「今までのことを思い返せば、俺もお前も辛くなると思うよ。ただ、お父さんや俺も、気落ちしたお前を見るのが辛いんだ。」 妹は、急に顔を明るくして
「そうね、私は、もう誰にも惨めな思いをさせないわ。それくらいのこと、ちゃんと知っているもの。」 と言った。
妹は、道夫のことを決して忘れないと言った。また、道夫の好きだった夕方の海辺に行くと言っていた。
「だって、道夫さんは毎日のように行っていたの。雨の日だって、雪が降っていても、あそこが好きだったの。」
妹は、軽く目を閉じて、何かを探っているようだった。
優子は、大学の文学部に入った。昨年の優子の誕生日に、招待されたけれど出席する気になれなかった。
それでも優子は、彼女の父と一緒に、私の家を訪れている。今年の誕生日には、私は出席つもりだ。
今年になっても、道夫の消息は何もなかった。一言も、道夫のことを口にせず、明るい顔を見せている妹は、冷たい雨の中をこっそりと家から出て行った。
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