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      「秋の夕暮れ」 (その4)

    

                                             佐 藤 悟 郎

  

(その1) (その2) (その3) (その4) (その5) (その6)

  

    

 翌日、私が目を覚ましたのは、陽もだいぶ高くなってからだった。私は、ソファーで寝ていたことから、昨夜のことを思い出した。ベッドを見ると、毛布や妹の半纏は、畳まれて置いてあった。本を捲る音が聞こえた。ソファー越しに机の方を見た。道夫は、私の机に向かって本を読んでいた。私は、道夫の後ろ姿を静かに見つめた。静かに本を読んでいる道夫の姿を見つめていると、昨夜のことが嘘のように思えてならなかった。私は、道夫に声を掛けた。道夫は、机から離れてベッドに腰掛けた。
「あまりよく眠っていたから、声を掛けなかったよ。」
と道夫は言った。私は、昨夜のことを尋ねたが、道夫は何も答えなかった。
「君の本を読ませてもらった。大学の本か。」
私の問いかけに無関心なのか、唐突にそんなことを私に尋ねた。私は、もう昨夜のことについて尋ねないことにした。

 私は、ソファーから机に行った。机の上には、半分以上ページがめくられて開かれていた。その右脇に、一冊の本があった。これは、道夫の癖で、既に読み終わったことを意味していた。
「君は、大学に行かなかったのか。」
道夫に尋ねると、道夫は力なく頷いた。その理由を尋ねると、道夫は家の状態がとても大学に通える状態でないと答えた。道夫は立ち上がると、背広の内ポケットから名刺入れを取り出し、名刺一枚を私に差し出した。その名刺を見て、放送局の社員となっていることが分かった。道夫は、社員寮に寝泊まりしていると話してくれた。
「給料は、そう悪くないさ。」
道夫は、ベッドに腰掛けながら言った。何か寂しげな声だった。

 妹が部屋に入ってきて、道夫の前に立った。
「昨夜は、グロッキーのようでしたね。」
妹がそう言うと、道夫は妹を見上げながら
「いゃ、大分、沮喪をして、ご迷惑を掛けました。親切にしていただき、助かりました。」
道夫は、頭を下げながら言い、ベッドにあった妹の半纏を両手に持ち、妹に差し出した。
「苦しいんですもの。当たり前ですわ。」
妹は、半纏を胸に包み込むように抱いて、明るい笑顔を見せた。部屋からの出際に
「お父さんが、二人とも応接室にいらっしゃいと言ってたわ。」
と言い残した。道夫は、妹が室から出ていくのを見つめていた。道夫の顔に微笑みがあったけれど、力ないように私の目に写った。

 道夫は、夜になって帰った。それまでの間、道夫は私の部屋の机に向かって、本を読み続けていた。道夫の理解力と、鋭い頭の回転を私は知っていた。道夫程、優れた頭脳の持ち主に出会ったことがなかった。道夫は、本を読んでいる最中に、一言だけ私に問題を投げかけた。私は、それに答えることが出来なかった。道夫は、推量的な意見を述べ、それ以後、私に問いかけなかった。大方、私には分からないと思ったからだろう。道夫が帰った後、道夫がどうして就職をしたのか不思議でならなかった。道夫の実力は、見せかけだったのかとも疑ってみた。とてもそうは思えなかった。

 それから少し経ったある日、どういう訳か知らないが、父が私に三万円を手渡し、道夫のところへ持っていくように言った。道夫が住んでいる寮は、私の家から意外と近く、歩いて二十分くらいのところだった。川の傍にある放送局、その隣の鉄筋の建物だった。
私が、道夫の部屋のドアーを叩くと、女性が出てきた。見れば化粧の厚い、若い女性だった。道夫は、私の声を聞いてすっ飛んできた。女性を部屋に押し返すと、突然私に言った。
「おい、お前は、俺の中学校の同級生で、どっかの印刷屋で働いていると言うことにしてくれ。俺のためにも、お前のためにもな。」
私は頷いて、部屋に入り込んだ。男二人、女四人の賑やかな部屋だった。ウィスキーの瓶が男達の前に一本転がり、もう一本は半分程飲み上げていた。
 道夫は、玄関で私に言ったように、私を印刷工として紹介した。居合わせた人達は、全て放送局の社員だった。成る程、顔立ちの整った人ばかりだった。道夫は、私にウィスキーを勧めた。初めて飲むウィスキーだったが、心地良い香りと味がした。道夫は突然言い出した。
「そこの女性達、私を好きな人は、手を上げてくれ。」
居合わせた女性達は、冗談半分に、皆が手を上げた。道夫は、それを見て満足そうに頷き、財布を取り出して逆さにして振った。
「ご覧の通り、財布には一銭もない。俺は、一文無しだ。認めてくれるだろう。」
道夫の言葉を聞いて、居合わせた皆が笑い出した。つい、私も笑い出した。
「君達、女性の中で、金を貸してくれる人がいれば、俺の嫁にしてやる。金額は、二万円以上だ。」
皆が、婚約料にしては安すぎると言って、笑っている。私も体を揺すりながら、笑って道夫を見つめた。
「本当に、お嫁にしてくれるかしら。」
一人の女性が言った。道夫は、その女性を見つめながら頷いた。
「本当だとも。」
道夫がそう言うと、その女性は俯いて考えている様子だった。冗談だと思っていた話を、その女性は本気で受け止めたようだった。私は、酒の酔いも手伝ってか、語気を強く道夫に言った。
「おい、お前が今言ったこと、嘘なんだろう。」
道夫には、絶対妹が必要だと思ったからだった。道夫と妹が居並ぶことしか、考えになかった。道夫は、私に向かって言った。
「じゃ、君は、金を持ってきてくれたのか。」
道夫の言葉を聞きながら、ポケットを探りながら、父から受け取った三万円の入った紙封筒を取り出し、道夫に手渡した。
「悪かったな。君にも、家の人にも迷惑をかけて。」
道夫は、済まなそうに私に頭を下げた。道夫は、現金の入った封筒のまま、財布の中にしまいこんだ。

 道夫は、酔いが白けたらしかった。真面目な顔して、落ち着いた声で言った。
「皆なには、悪かったけど、さっき言ったことは本当だったんだ。今、金を何も言わずに出してくれる女性がいたら、本当に結婚しようと思った。無条件で愛すつもりだった。今日、皆なに来てもらったのは、何を隠そう、金を借りるためのことでしかなかったんだ。」
女性達は、黙って聞いていた。男は、道夫の言うことに頷きを見せた。
 道夫は、みんなを体よく帰した。私は、道夫の部屋に残った。私は、道夫の気持ちが分からなかった。人生と引き替えに、何故金が必要なのか。また、今日という日に、道夫のところに金を持たせた父の意図も分からなかった。
 私は、道夫が勧めるがまま、道夫の部屋に泊まった。翌朝、早く妹がやってきて、私と道夫を起こした。妹は、昨夜の荒れた部屋を、黙って片付けていた。道夫と私は、妹のその仕草を見つめていた。

 道夫は、酒が好きだった。道夫が私の家を訪れ、父がいるときは、父に誘われて応接室で一緒に酒を飲んでいた。道夫は、深酒をする癖があった。父は、それを知っていたが、道夫に飲めるだけ酒を勧めていた。
 道夫は、勤め先の放送局のことを色々話してくれる。妹は、喜んで道夫の相向かいに座り、道夫の話を頷きながら聞いていた。酒を飲む前に、道夫は私に言う。
「君は、もっと勉強をしなくちゃ。私の分までな。だから、そろそろ部屋へ行って勉強しなさい。」
真面目な顔で言い放ち、私が部屋に行かない内は、酒を口にしようとしなかった。

 父がいないときは、たまに私を誘って街に出ることがあった。スナックやグランドバーで、安いウィスキーを飲んだ。酔い痴れて道夫と歩く私は、気分が良かった。色々なことを忘れ、街を歩くことが楽しかった。今迄知らなかった社会が、目に入ってくる。目に写るものは、決して上品なものばかりではない。そんな中で、多くの人が生きているのを見た。
「こんな夜に、何もすることなく、遊んでいる連中は馬鹿さ。その馬鹿な人間の一人なんだ。俺は。」
道夫は、私に向かって、よく言っていた。
「人間の短い一生に、余裕とか遊びとかは、人間のためにならない。自分のためにもならない。自分がやらなければならないことを、休まず、繰り返すことが大切だ。」
とも言っていた。道夫の純粋な考えを聞いて、道夫の実際の行動が、その考えと正反対に進んでおり、道夫が不安の渕にいるのを感じていた。
 道夫と一緒に街を歩いていると、たまに私の顔見知りの大学生に会うことがある。私が学友と話をしていると、道夫は黙ってしまうか、何処かで待っているからと言って姿を消すのだった。

 道夫が私の家に来るようになってから、二か月程過ぎたころ、家で道夫と私がウィスキーを一杯煽り、街にあるグランドバーに出かけた。私は、このグランドバーが好きだった。静かな音楽が流れ、白い壁の落ち着いた店だった。店に入って直ぐ、奥のテーブルに優子がいることに気付いた。私と道夫は、少し離れたテーブルに腰掛けた。隣にいる若い男に、覗き込むように話しかけている優子、遠い存在のように思えた。
 私は、ウィスキーのストレートを三杯、一気に飲み干した。
「中々、お強いですね。」
カウンターの中にいる白い帽子を被ったボーイが言った。そのボーイの笑顔を見て、私も微笑んだ。道夫は、味わうようにグラスを唇に当て、私を見つめて微笑んでいた。私は、熱くなった目を、時折、道夫の視線から反らして、優子を見つめた。男二人、女二人の友達らしかった。
 上品そうに見える男の服装も落ち着いていた。楽しそうに頸を傾け話している。優子の姿を見ていると、寂しいと言うより腹立たしさを覚えた。
「おい、お前落ち着かないな。何処か、他のところへ行こうか。」
私の様子を見て、道夫が私に声をかけた。
「何でもないさ。」
私は、笑って見せた。暫く経つと、やはりおかしいと道夫は言った。
「やはりおかしいか。酔っているからさ。」
そう言いながら、私は優子のいる方に目を流した。
「あそこに座っている娘が、余りにも綺麗だから、目を流すのさ。」
道夫も、振り返って優子のいる席を見つめた。
「お前も、中々、女を見る目があるな。上品そうで可愛らしい女だ。」
道夫は、頷くように言った。私達の話を聞いていたボーイが言った。
「ええ、あの人は、最近、顔を見せるようになったのですが、中々美しい方です。金持ちのお嬢様のようですね。」
私は、このボーイは知っているかもしれないと思った。それとなしに、連れの者達が誰であるか尋ねた。ボーイは知らないと言っていた。私は
「帰ろう。」
と道夫に言った。
「いゃ、あれ程の美しい人がいるのだから、みすみす帰ることはないだろう。美人がいるときは、美人を肴に酒を飲むものだ。」
道夫はそう言って、グラスを口に寄せながら、優子の方を見つめていた。ボーイも、それが一番ですと言って、私に酒を勧めた。

 私は、内心思った。優子が、私の姿を見付けたらどうするだろうか。席を外して、私の隣の席に腰掛け、一緒になるだろうか。それとも、素知らぬ振りをして帰るだろうか。戸惑いの目を見ることができるだろうか。
 暫くして、娘達は帰っていった。別に、私に目を止めることもなく、平然と歩き、店を出て行った。私の期待は破れた。何もかも嘘のように思えた。空しさが心に広がった。道夫が帰ろうと言ったが、私はもう少し酒が欲しいと言った。
「肴がもう無い。帰ろう。」
道夫は、そう言ったが、私は従わなかった。道夫は、暫く黙ってグラスを空けた。
「もしかしたら、お前が言っていた娘というのは、あの女の子か。」
私を見つめ、道夫は私に問いかけた。私は、黙ってグラスを見つめていた。道夫は、飲み干したグラスにウィスキーを入れると、私のグラスに軽く当てた。
「ああ、お前に付き合うぜ。」
道夫は、グラスを軽く上げて、私を覗き込むように見つめた。私は、これまでの経緯をかいつまんで話した。
「お前は、無くなったものを思い出し、惜しんでいるようだ。それもいいだろう。だけど、今夜限りで、忘れようぜ。」
道夫は、そう言った後に、私がまだ社会を知らないこと、人間の多さを知らないこと、人間の良し悪しを知らないことを言ってくれた。
「確かに、あの娘はいい人に違いない。お前には、勿体ないくらいにな。でも、一日中街角に立ってみろ。冷静に見れば、あの娘以上の娘がいるのに気付くはずだ。」
道夫は、そう言ったが、私が優子のことを忘れないことを認めてくれた。
 その夜、私は酒を大量に飲み、酔い潰れてしまった。翌日、私が目を覚ますと、道夫の寮の道夫の床に寝たことが分かった。朝早く、妹が訪ねて来たので大学の授業に間に合ったが、一日中二日酔いのために、ひどく苦しく長い日となった。

 大学が夏休みに入ろうとする頃、道夫が酔っ払って私の家に来た。私が玄関に出ると、道夫は少し寂しそうな顔を見せ、俯いてしまった。
「俺、放送局をクビになったよ。」
小さな声で道夫は言った。雨に濡れたコートを脱いだ。妹は、道夫の姿を見て、黙ってコートを受け取っていた。
 道夫は、応接室のソファーに座り、私にウィスキーが飲みたいと言った。ウィスキーを飲みながら、道夫は黙ってテレビの方に目を投げていた。無表情の道夫の姿を見て、私の口から言葉が出なかった。道夫は、妹の問いかけにポツリポツリと答えるだけだった。私達に目を向ける元気さえなかった。道夫は、放送局をクビになった理由は話さなかった。
「下らないことさ。」
と落ちるような声で、ポツンと言っただけだった。道夫は、私の父に勤め先を見付けて欲しいと、私に言った。

 私は、道夫が悲しくてならなかった。道夫の人生が狂いだしている。将来の不安が見えるような気がしたのだった。
「お前、大丈夫なのか。」
私が声を掛けた。
「不安と苦しみは、いつでも付きまとっているよ。多分、大丈夫だと思うよ。」
道夫は、苦笑いをして答えたが、急に顔を落としてウィスキーを煽ると
「俺自身、こんなになるとは予想もしていなかった。これからも大丈夫だと思うけれど、今は惨めたらしくて。」
と言った。私は、道夫が泣いていると思った。私には、もう掛ける言葉がなかった。妹は、唖然として私を見つめている。父の帰りが待ち遠しかった。

 父の声が玄関から聞こえると、私と妹は急いで玄関まで迎えに行った。私は、父の顔を見るなり、道夫が苦しんでいることについて簡単に話した。父は、平然としていた。私の顔を見て
「本当だな。お前達は、応接室に戻っていろ。直ぐ行くから。」
確かめるように私に言うと、父の部屋に入った。
 私は、応接室に戻って、一言父が帰ってきたことを道夫に告げた。道夫からの返事もなかったので、私と妹はソファーに座り、黙ってしまった。父は、着替えて応接室に入り、道夫の隣に座った。父は、新しいウィスキー瓶と、自分のコップを手にしていた。
「まあ、私に心当たりがない訳でもない。暫くの間、私の家に泊まりなさい。」
父は、座るなりいとも簡単に道夫に言った。道夫は、父の顔を見た。
「そうして頂ければ、助かります。」
道夫は、父に感謝するように言った。父は、私と妹の同意を求めた。私と妹は、喜んで承諾した。


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