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      「秋の夕暮れ」 (その2)

    

                                             佐 藤 悟 郎

  

(その1) (その2) (その3) (その4) (その5) (その6)

  

    

 夏休みの盆近くになって、私と妹は、級友の黒沢を連れて故郷を訪れた。試験勉強で忙しい時だったが、都会育ちの黒沢に、高校最後の夏休みだから田舎に連れて行って欲しいと頼まれたからである。黒沢と妹、それに私はその夏休みの間、色々と計画をして遊んで過ごそうと思った。妹は、久し振りの帰郷で少し上気していた。

 三人でタクシーを飛ばし、生家のある集落に着いた。小学校の校庭を、歩いて横切った。夏も盛りのころで、校庭に櫓が組まれていた。
「盆踊りをやるんですか。」
黒沢は、私に尋ねた。私は黒沢に、毎年村をあげて村人が集まり、煩いほど踊り狂うことを説明した。

 私の家の門をくぐり、中に入ると祖母が玄関まで迎えに出ていた。私と黒沢は、奥の庭に面した座敷に休み、座敷の外を眺めていた。黒沢は、私の家の造りや庭をやたらに褒めていた。黒沢は、この一週間の休暇のあいだの計画を立てていた。山登り、魚釣り、そして勉強の日課を立てていたのである。帰るとすぐ、妹は浴衣に着替えていた。母に似た美しい女性だった。黒沢といかにも不釣合の妹の姿だった。

 黒沢は、私に幼友達はいないのかと尋ねた。私は、二年半もの間、故郷から離れたために親しい友達もいないと答えた。そのとき、私の側にいた妹の口からも、道夫の名前はなかった。私の故郷では、友達というのは道夫しかいなかった。故郷を離れてからも、道夫は特別な存在だった。妹も私と同じ程、道夫を特別な人と思っていたに違いないと思っていた。道夫と黒沢を並べたとき、いかにも黒沢が劣っていると感じたのである。

 夜になって、盆踊りの囃子が聞こえてきた。黒沢は本を読んでいた。私は、黒沢に盆踊りに行こうと言った。黒沢は、もう三十分待ってくれと言った。私も仕方なしにそれまで本を読んでいた。出掛ける時になって、黒沢は妹を誘うことを忘れなかった。三人で、柳に囲まれた小学校の校庭に行った。人だかりの真ん中に、裸電球に照らされた櫓が立ち、蛾や黄金虫などが飛び回っていた。櫓の上で道夫が笛を吹いていた。浴衣姿で鉢巻きをし、すぐに私に目配せをして頷いていた。

 私は、黒沢と妹を尻目に、踊りの輪の中に入った。櫓の上の方を見ると、決まって道夫も私を見つめていた。長い間、言葉も交わさなかった道夫が、急に身近に感じた。踊りが変わると、道夫は笛を他の人と代わり、櫓から下りて私の側にやってきた。餓鬼大将的な話し方は、少しも変わっていなかった。
「おい、妹が来ているんだぜ。ほら、あそこで団扇を振ってる。」
道夫は、私が指差す方を見て、微笑んだ。
「やっぱり綺麗だな。それに都会っ子らしくなったみたいだぜ。」
私は、妹が新潟に来てからのことをかいつまんで話した。そして側にいる男が私の同級生であり、妹を好きで交際していることも話した。道夫は拘泥することもなく平然としていた。
「静香さんはそれでいい。お前の方はどうなんだ。」
私は、優子とのいきさつを正直に道夫に話した。道夫は少し笑った。
「お前の出方次第でどうにもなるさ。相手はただ戸惑っているだけさ。男を好きになった女なんて、男ほど複雑ではないさ。」
道夫は、如何にも簡単に言ってくれた。私の心のこだわりが晴れていくのを感じた。私は、踊りながらどのようにしたら良いか考えた。時折、道夫の明るい笑顔を見て、全てがうまくいくように思った。

櫓の上の囃子の人達が、道夫を呼んだ。道夫は、私に手を上げて軽く挨拶をすると、櫓の上に戻っていった。
「おい、俺の家に遊びに来いよ。一週間くらいはいるつもりだから。」
別れ際に道夫に言った。道夫は、快く頷き私の肩を軽く叩いた。道夫は、踊りが終わるまでいるだろう。私たちは、暫くして家に向かった。途中、黒沢は、道夫のことを尋ねた。私は、別段詳しく話すつもりはなかった。
「中学校の頃の、同じクラスの級長さ。」
妹は、チラッと私の顔を見た。
「あの人、餓鬼大将だったのよ。」
妹は、そう付け加えただけだった。家に帰ると、黒沢は遊んだ分勉強すると言ったので、私は先に床に入った。床に入ると、妹のことが心配になった。

 翌日から、黒沢の計画による生活が始まった。黒沢は、計画表を身から離さなかった。私は、少しそれが不満だった。遊びとは、時も場所も構わず、何もかも忘れて楽しむものだということを知っていたからである。山に登れば、藪をくぐり抜けることもある。川に行けば、釣りに飽き足らず、川底に魚を追いかけ回すこともあるものだった。故郷で過ごしたとき、遊び疲れて河原で眠ったこともあった。村の人が、大騒ぎで捜しに来るころには、村の人に見つからぬように、家に隠れたこともあった。

 それでも妹は、黒沢の後について楽しそうに過ごしていた。この村で過ごした妹は、女の子ということで自由に遊ぶことはできなかった。だから、故郷で遊ぶことが目新しく、楽しかったのだろう。一日の黒沢の日課が終わると、私は家に帰るのが楽しみだった。道夫が来ているのではないかと思ったからである。一日経っても、二日経っても道夫の訪れはなかった。私は、道夫が何処にいるのか察しが付いていた。道夫は、古い山道が好きだった。村の人々が忘れ去った古い道を見つけ、二人で良く遊び歩いた思い出があった。景色の良い道で、最初の日、黒沢にその道を登ろうと言ったが、黒沢は険しそうだからと言ったので止めてしまった。

 三日目に私は、強引に黒沢と妹を連れてその古い道へ行った。夕方の涼しい風が、その古い道を通り抜けていた。西日が、私たちの背を照らし、道に沿った木々の葉の間から赤い光がざわめき、緑の葉の上に踊っていた。村人に忘れ去られた古い道を誰が通るのであろうか、草を踏んだ一筋の跡が続いていた。崩れそうな御地蔵様が、草に半ば埋もれている。木々と豊な葉に導かれた美しい山道だった。暫く登ると、その山道は見上げるほどの急な坂道となった。妹はとても登れそうもないと言い、黒沢も妹と同じように言った。
「もう少し行くと、途中で良い道に出るところがある。そこまで行こう。」
私がそう言って、二人をゆっくりと導いた。妹は、私の悪口を言いながら歩いていた。坂道の中途まで行き、右に曲がると良い道に行くところまで登った。
「まあ…、きれい。」
妹は、山裾の方を振り返ると、思わず声を漏らした。信濃川の対岸の山陰となった集落に灯が点り、山の端はくっきりと浮かび、赤く焼けた雲が目の前に横たわっていたのである。

 私は、耳を澄ました。笛の音が流れているのを、はっきり耳にしたのである。私は、その古い道を登り切った峠にある大きな欅の上で、道夫が笛を吹いているのを知っていた。私は、妹の姿を見つめた。妹は、黒沢に指差しながら、山や村々を説明している様子だった。私が予期していたように、急に妹は振り返り、その柔らかい瞳を山の上の方に向けたのである。静かに目を落とし黙って何かを聞いている様子だった。
「笛の音が聞こえますね。とても美しい音ですね。」
黒沢は、妹に話しかけたが、妹は返事もせず俯いて耳を傾けていた。少し間を置いて、妹は黒沢に向かって笑顔を見せて
「帰りましょう。」
と言った。黒沢は、誰が笛を吹いているのか妹に尋ねたが、妹は知らないと答えた。私も首を横に振って、知らないと言った。私は、暫くすれば道夫が笛を吹き終わり、急な坂を一気にかけ下りて来るだろうと思った。

 道夫は、私達が帰る前日まで私の家に姿を見せなかった。その前日、黒沢の日課が終わっても黒沢は勉強をしていた。
「お兄ちゃん、ちょっと。」
妹は、小さな声で私を呼びに来た。水屋の方に私を連れて行き、土間に道夫が立っていた。照れる様に、道夫は頭を掻きながら私を見つめていた。どうして部屋に来ないか尋ねると、道夫はもう新潟に帰るころだろうし、また友達もいるから遠慮すると言っていた。私は、理由はともかく道夫を家に上げ、祖母の部屋に連れて行った。
「お兄さんの言うことなら、言うことを聞くのね。」
妹は、道夫を見つめながら優しく笑っていた。

 私が生家で過ごした少年時代、道夫は毎日のように訪れ、よく祖母の部屋に遊びに行ったものだった。父や母に叱られそうになると、決まって祖母の部屋に身を隠した。祖母は、私達のためにいつも菓子を用意していた。
「これがいないと、遊びに来なくなったな。でも、いい若い衆になって。」
祖母は、道夫を見上げて言った。仏壇を背にし、円いテーブルの前に祖母は座っていた。
「お前達二人は、別れてから初めて会ったのだろう。手紙を書くのが嫌いな、無精者どもめ。」
祖母は、そう言って笑った。

 妹は、西瓜を持ってくると、祖母の隣に座った。祖母は、ゆっくり首を回して妹を見つめた。軽く目を閉じ、頷くように微笑んでいた。道夫は、西瓜を食べている妹を見つめていた。妹は、顔も上げずに食べている。
「おい、どうかしたのか。」
私が、道夫に声を掛けると、道夫は何でもないと言って、西瓜を食べ始めた。妹は、その時も顔を上げなかった。

 私は、学校のことや街のことを話した。祖母は、菓子とお茶を出した。
「笛、まだ続けているのか。」
私は、道夫に尋ねた。道夫は少し恥ずかしそうに頷いた。
「えー、まだ村のお寺様に習っているの。」
妹は、驚いたように問い返した。
「お寺様のところは、三年も前にやめています。それから街のお師匠のところに通っています。」
道夫は、丁寧に妹に答えた。詳しく聞いてみると、お寺様のところでは、それ以上教えることがなく、お寺様の紹介で街の師匠のところへ行ったとのこと。その師匠は県内でも有名な人であり、師匠の娘と道夫が師範として弟子達を教えているとのことだった。

 妹は、道夫にその師匠の娘のことを尋ねると、静かに一礼して室から出ていった。
「笛の音を聞きたいね。」
祖母は、そう言うと立ち上がり、仏壇に手を合わせた。そして仏壇の奥から、美しく刺繍のされた袋を取り出し、道夫の前に置いた。
「これは、私の祖父が手に入れた黒漆の笛だよ。私が嫁に来るとき持ってきたんだ。」
道夫は、正座をして袋の中から一本の黒漆の笛を取り出した。
「お婆ちゃん、これはいい代物だ。」
そう言って、道夫はその笛の姿を見つめていた。祖母が、その笛で吹いてくれと道夫に頼んだ。道夫は、祖母の部屋が狭いから、広間で吹くと答えた。道夫は奥の広間に行くと、縁越しに庭の見える室の中央で正座をした。軽く笛を口元に持って行くと、静かに笛を吹き始めた。笛の音は家の中、そして庭へと流れていった。

 故郷からの帰り、汽車の中で妹と黒沢が話し合っているのを見ていた。私は、その様子を満足して見ていなかった。道夫が、凛々しい姿で笛を吹く姿が、私の思いから離れなかった。道夫の姿の側に、何故か、来年の大学受験に明け暮れている自分の姿を見つめていた。眠りから覚め、妹に手を取られながら私は汽車を降りた。駅前のタクシー乗り場で私達が待っていると、黒塗りの外車が目の前で止まった。
「どうぞ。」
自動車の中から優子の声が聞こえた。私達は、その自動車に乗った。優子は、父を駅まで送る帰り、私達を見つけたと言っていた。その自動車で黒沢を家まで送り、私の家に着くと優子と運転手を誘って一緒に家に入った。応接室に案内し、優子を私の向かいに座るように手招きをした。妹は、冷たいジュースと果物をテーブルに置き、優子に深くお辞儀をして応接室から出て行った。

 私は、優子を見つめていた。優子は俯き、時折、本棚に目を流した。虚ろな目が、急に輝いたように思われた。顔を赤らめながら、少し眦が上がっている瞳を私に向けた。私は、漠然とした思いで優子を見つめていた。その内に優子が話を切り出してくれるだろうと思っていた。
…この娘が、私に好意を寄せている。何故、私に好意を持つのだろう。…
私は、優子の好意が不可解だった。
「私は、貴方に失礼なことをしました。許してください。」
私は、優子を冷たくあしらったことを素直に詫びた。
「え、どういうことですの。貴方に謝っていただくことなんか、何もないですわ。」
優子は、少し戸惑いながら言った。私は素直に
「貴方と、こうしていると楽しい思いがします。」
と言った。優子は一瞬微笑むと、顔を伏せ、何回か深い動悸を見せていた。

 少しすると、妹の部屋から琴の調子をとる音が聞こえてきた。優子が妹の琴について尋ねたので、田舎の家で幼い頃から祖母に教えてもらっていたことを話した。妹が、琴を取り出したのは、久しいことだった。妹が弾き始めた琴の曲に、優子は耳を傾けていた。私は、秋の香りが漂う夜に、妹の曲を聴いて困惑した。妹は、同じ曲を繰り返し弾いていた。昨夜、道夫が笛を吹いた曲の合わせなのかと思うと、胸が熱くなった。瞳を凝らしている優子を見つめながら、妹の激しい心を感じていた。
「同じ曲ばかり弾いていますわ。」
優子が、調子をとるように首をゆっくり振りながら言った。
「この間習ったばかりで、稽古のつもりなんですよ。」
私は、そう優子に答えた。私は、隠し切れない妹の心に感動していた。妹の曲は、繰り返し続いた。私は庭先を見つめ、暗い木の下に道夫の姿を思い起こした。


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