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      「秋の夕暮れ」 (その3)

    

                                             佐 藤 悟 郎

  

(その1) (その2) (その3) (その4) (その5) (その6)

  

    

 夏休みが過ぎて、私は大学受験のために、最後の追い込みの勉強をした。家でも学校でも、時間を惜しみ勉強を続けた。黒沢は、土曜日になると、決まったように私の家に訪れた。黒沢と妹の交際については、私は何も言わなかった。
「俺、卒業したら、君らの近くに行くよ。」
そう言った故郷の道夫の言葉が、私の心に強く残っていた。全国の模擬テストの成績を見ると、道夫は常にトップクラスだった。道夫が、この新潟の大学に来れば、心ゆくまでの交わりができるだろう。その時こそ、妹は道夫との豊かな交際ができるだろうと思った。

 優子は、よく自分の父と一緒に私の家を訪れた。親同士は応接室で酒を酌み交わしているのだろう、優子の父が帰るまで、私は優子の相手をしていた。秋が過ぎ冬を迎えた。日毎に寒さが増し、私は学生服の下にセーターを着込んだ。海辺の新潟は、雪が少ないけれど、一面氷が張り詰めるほど寒いところである。

十二月になって、大学入学試験には自信ができた。その頃、優子から誕生日パーティに来て欲しいと言った。私は、気安く引き受けた。父は喜ばしげに、私に言った。
「田舎のパーティとは違うぞ。いいな。」
私は父に、何が違うのかと尋ねた。父もそのパーティに招かれていることを聞き少し驚いた。父の話によると優子の家でのパーティは、本当に近しい人達が集まり、主催するのはもちろん優子の父であるとのことだった。政財界の有力者はもちろん、優子の親しい友達も招待されることになるだろうとのことだった。

 私は、父の話すのを聞いて、パーティに出るのを止めようと思った。私が行っても何もならないと思ったからだった。私の消極的な言葉を聞くと、父は叱るように言った。
「お前は、心配しなくてもよい。隅っこにいればよいという立場ではないのだろう。よいか、お前は、お嬢様の男友達として、最も親しい者としてパーティに出ることになるのだ。まあいい、恥ずかしくないように私がやってやる。」
父の言葉に、私は不愉快な気持ちとなった。確かに優子は、私に好意を抱いているが、そのために私が大変な煩わしさを受けなければならないのか。そう思うと、取り敢えず優子に電話をした。大学受験を控え、一日も勉強を欠かすことができない。誕生日のパーティの出席を取り消して欲しいと伝えた。

 私が電話をかけて寝ようとする頃、優子は父親と一緒に私の家にやって来た。優子の顔に、不安そうな表情が浮かんでいた。私は、優子を私の部屋に入れ、ソファーに腰掛けさせた。案の定、優子は、私がかけた電話のことで来たのだった。私は優子の誕生パーティが、私の父が言ったようなものか尋ねた。優子は、その通りのパーティだと答えた。更に、私がどのような立場で出席することになるのかと尋ねた。
「私の、最も親しい男友達として、私の手を取っていただきたいのです。」
優子は、はっきりと答えると、暫く私を見つめた。私は、腹立たしく思いながら、唇を噛み締めて優子を見つめた。優子は、悲しげな目をして、俯いてしまった。

 私は、父の立場を考えると、そう簡単に断ることもできなかった。それ以上に、目の前で項垂れている優子の姿が、寂しそうでならなかった。優子からの招待が、何を意味しているのか知っていた。衆目の中で、私と優子の関係が親密であることの表明である。私は、そうなることを嫌っていた訳ではない。私が快諾できないのは、私自身の将来性に不安があったからだった。私は、言葉もかけず、ただ黙っていた。

 優子は帰っていった。父が部屋に来て、私に尋ねた。
「お前は、行くのか、行かないのか。」
私は、父に行くつもりがないことを答えた。父は、何も余計なことを言わなかった。
「そうか、機会は幾らでもある。お前には、少し早過ぎることだった。私から、大久保さんに話しておくから、お前は心配するな。」
父は、そう言って室を出て行った。私は、内心ホッとしたが、床に入ると、優子の寂しげな姿が目に浮かんでならなかった。

 私は、周囲に目もくれず、受験勉強に励んだ。優子は、それ以後、私の家に尋ねて来ることがなかった。優子の誕生日も過ぎ、年の瀬が迫っていた。妹は、夜になると琴を弾いていた。夏休みに帰ってきた夜に弾いた曲を、異常と思える程まで弾き続けていた。

 冬休みになると、妹は同級生の家で正月を過ごすのを楽しみにしていた。大晦日の朝、妹は同級生の家へ行ってしまい、父も故郷に帰ってしまった。そればかりでなかった。お手伝いさんも帰ってしまった。私の食事は、隣の家の人が賄ってくれるとのことだった。

 私は、夜になって学生服の上にジャンパーを着込んで、二年参りのため街へ出かけた。新年を迎える街は、商店に装いがあり、着飾った人々が歩いていた。故郷では、村の鎮守様と町の二荒神社にお参りに行っていた。今年は、一人でこの街の中心にある郷社へ両手を合わせるつもりだった。街を歩きながら、ふと足元を見た。長靴が目に入った。
「俺は、やっぱり田舎者なんだ。」
そう思うと、下を向きながら苦笑した。

 神社は、新年を迎えるために混雑していた。晴れ着姿の若い娘達の姿が目に付いた。鳥居をくぐり右に折れて、人の流れに沿って私は歩いた。ポケットから百円硬貨二枚を取り出し、握り締めた。人の流れはノロノロとしており、寒い中できるだけ人混みから外れないように歩いた。ようやく賽銭を投げ、間違っても大学試験に落ちないように祈り、歩いてきた道を引き返そうとした。社から振り向いたとき、神社に向かってくる人混みの中に、優子の姿を見付けた。優子は、女友達らしい二〜三人と男友達らしい二〜三人と語り合いながら歩いていた。私は、急いで階段から駆け下り、人混みから抜け、大きな松の木の幹に身を隠した。華やいだ姿の優子は、白地に赤と緑の花模様の振り袖姿だった。楽しそうな顔の中からは、落ち着いた顔もなく、翳りも少しも見られなかった。

 私は、逃げるように家に戻り、気を乱すまいと思いながら勉強を始めた。床に入ると、誰もいないこの家の中で、恐ろしい程の寂しさが襲ってきた。正月二日の夜、私は夕食も取らず、フラフラと外に出かけた。寂しさのあまり、家から抜け出したかったのだった。アスファルトの道は、凍りついていた。舗道を歩いている内に、自分の身形が大晦日と同じのに気付いた。

 樅と松が、冬空に聳えている。その奥に暖かそうな灯火が輝いている。窓辺のカーテンに人が動く様子が見えた。私は、優子の家の広い門の門柱に凭れて見つめていた。両手をジャンパーのポケットに入れ、その暖かそうな家には入れない訳を、色々と考えていた。優子や彼女の家に対し、越えることができない壁を作ってしまったからだと思った。何かの機会があれば、その壁は崩れるだろうと思った。私は、家のカーテンから見ればよく見えるように、門柱での位置を変えて凭れていた。冬の寒空を見上げ、震える星を見つめた。

 私の目の前に、黒い外車が止まった。
「君じゃないか。家の中に入りなさい。」
優子の父は、直ぐ私を認め、車の窓を降ろして言ってくれた。
「いいんです。私は、帰るところなんです。」
娘の父は、通り過ぎて行った。私は、帰る気にもならず、門柱に凭れていた。門柱の灯火に照らされながら、私は家を見つめていた。暫くすると、人の揺れ動くカーテンの中央が、時折開かれるのが分かった。開いているのは、優子ではないかと思った。幾度もチラチラと開くのが見えると、期待が外れて腹立たしくなった。
「何故、迎えに来てくれない。」
私は、帰ろうと思った。門から一歩、また一歩と遠退いた。カーテンから人が覗くのを見る度に、遠退いていったのだ。優子は、喜んで迎えに来てくれる。そして手を取って暖かい家に招き入れてくれる。そんな期待が私にあった。私は、門灯の光が届かないところまで遠退いてしまった。急に、自分が惨めで、悲しい男だと気付いた。左に向きを変え、一目散に駆けだした。

 私は、優子のことを考えないようにと思った。ただ、逃げるように帰ってきた日のこと、悲しく惨めな自分の姿を忘れてならないと思った。受験勉強している際、悪夢のように優子の家から逃れたことを思い出す。
「冷たい娘だ。」
私は、思い出す度にそう思った。私は、大学入学試験に合格した。合格発表があった翌日、優子から手紙が来た。
「合格おめでとうございます。心から喜んでおります。私の不始末から、あなた様の御友誼を失ってしまった今、毎日寂しく思っております。家に尋ねていただければ、それに優ることはございませんが、お便りの一通なりともお寄せください。」
走り書きに似た、短いものだった。交遊を求めるには、少し雑で軽率なことを書いてきたと思った。私は、返事を出す気持ちになれなかった。大学に通えるという新しい気持ちが、今迄のことを過ぎ去った小さな出来事と思えるようになった。優子からの手紙を、手文庫の中に大切に入れて忘れることにした。

 黒沢は、東京の私立大学に合格した。黒沢の喜びは異様な程で、自分の人生は、まさに自分の思うままに進んでいる、そう豪語していた。黒沢の口癖は、学者になることだった。黒沢の合格祝いは、私の家でやった。妹が歌ったり、覚えたてのフォークダンスをしたり、挙げ句の果てに琴を持ち出して奏でたりしていた。私は、黒沢の楽しそうな姿を見ても、余り楽しむことができなかった。黒沢は、満面に喜びを溢れさせ、妹に
「今度は、貴女が東京の大学へ来てください。東京には、私の叔父がいますし、不自由させませんよ。」
そんなことを言っていた。妹も、迎合するように言った。
「私も、東京の何処か知らないけれど、女子大学へ行くわ。東京って楽しいんでしょうね。」
二人は、そんな将来のことを話し合っていた。私は、二人の話を、苦痛に思いながら聞いていた。妹は、大学なんか行かなくてもよい。黒沢に取られるくらいなら、私の手元に置いておきたかった。無心に楽しみ、喜び合っている二人を見つめながら、私は道夫のことを思った。毎日、新聞の大学合格発表を見ても、道夫の名前はなかった。

 私が、大学の教養課程に通い始め、妹は高校二年生になった。勉強に追いまくられ、訳の分からぬ間に五月を迎え、桜の花も終わっていた。その日は、土曜日だった。父と妹、それに私の三人で応接間のテレビを見ていた。父がいるときは、努めて寄り合って話をしていた。私は、父という人間が分からなかった。ただ、精力的な政治家と言うことは知っていた。

 お手伝いさんが、父に電話が来ているということを伝えると、父は応接間から出て行った。電話から部屋に戻ってきた父は、声を出して笑いながら私を見つめた。
「私への電話なのですか。」
私がそう言うと、父は首を横に振りながら笑っていた。お手伝いさんに服を持ってこさせると、素早く着替えた。頷きともつかず、笑いともつかない様子を見せて、また私を見つめた。父が夜になって、急に外出することは珍しいことでなかった。その日の父は、余りにもおどけた様子だった。
「今夜のお父さんは、どうかしているよ。」
私は、そう言いながら妹に目を流した。妹もにこやかに頷いた。
「正真正銘、私のところへの電話だったよ。それもお前の友達からだ。お前じゃなくて、私に電話をしたんだとさ。」
そう父は言った。父は、別に驚いている様子でもなかった。私は
「誰から」
と尋ねたけれど、父は名前を教えてくれなかった。
「今夜も、酔っ払って帰ってくるかも知れん。お前の部屋に、もう一人分、床を取っておいてくれ。」
父は、私の友達を連れてくるからと言って、外出してしまった。妹が、お手伝いさんから電話の主を聞いたところ、女性だった。バーかそのへんの飲み屋からの電話のようだったとのことだった。

 父は、一時間も経たないうちに帰ってきた。私の部屋に訪れると、酔っ払っている道夫を置いていった。ソファーに腰掛けていた妹は、直ぐにすくっと立ち上がった。私は、驚きの余り茫然と道夫を見つめていた。
「兄さん、そこをどいて。苦しそうよ。」
妹は、払い除けるように私をベッドから追い払った。そして、道夫の右手を肩に回すと背負うように、歯を食い縛りながら道夫をベッドに寝せた。私は、青い顔をして、血走った目をしている道夫を見つめて唖然としていた。妹は、慌てて部屋を出て、バケツと新聞紙、それに氷を浮かせた水とタオルを持ってきて、最後に毛布を掛けた。

 私は手を拱いて、その様子を見つめるだけだった。妹は、道夫のネクタイを外し、背広とワイシャツを脱がせた。
「兄さん、何をボサッと見ているの。早くズボンを脱がせてよ。」
私は、妹に言われるがまま、道夫のズボンを脱がせた。それが終わると、私は道夫の足元に立ったまま、ただ眺めていた。道夫が酔っ払って、私の家に現れることなど、とても信ずることができなかった。妹は、散らばった衣服を片付けると、自分の半纏を外し、道夫の上半身に掛けた。道夫は、時々目を開いた。
「済まない。済まない。」
道夫は、小声でそんなことを口走っていた。
「そんなことありません。安心して休んでください。」
妹は、その度に声を掛けていた。妹は、終始、道夫の顔から目を離そうとしなかった。妹の脳裏には、私の存在など無かったに違いなかった。私は、妹の立ち振る舞いを見て、可愛い女性だと思った。


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