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「三太とお幸」 (その一)

 

       佐 藤 悟 郎

 

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 太平洋戦争が終わり十五年ほど経ちましたが、まだ貧しい時代だったのです。南国の港町にある湯浅書店に、遠く離れた地方の田舎町から西村三太という、中学校を卒業したばかりの少年が奉公人として住みついたのです。奉公先は、主人の春男、妻妙、娘幸の三人家族で、女中としてお里が住み込んでおりました。

 三太の生活は、朝五時に起きて始まりました。朝起きると布団をたたんで着替えをする。そしてできるだけ静かに歩いて炊事場に行き、女中のお里に挨拶をして顔を洗うのです。勝手口から外に出て、新聞受けから新聞を取ってくると居間の机の上に置いて、また外に出て店先の掃除をするのです。それが終わると屋敷の周囲や庭の様子を見てゴミや枯れ葉などを取り除きました。

 外の掃除を済ませると店の中の掃除をする。棚の本の整理や文房具の品数の確認を行う。これは売上げ台帳に基づいて行うのです。台帳が整理されていない場合は、売上伝票で行う。売上伝票は極めて重要なのでした。
 売上げに応じて、品薄となった商品は、主人の湯浅春男が必要の可否を判断しました。出版先や元卸先への連絡は、主人が行うが、時には三太に頼むことがありました。

 朝の仕事が終わると朝食となります。食事の場所は、主人家族は居間、三太とお里は炊事場の板の間でしていた。お里は、食事を早く済ませる。居間の主人たちの食事が終わる頃になると食膳を片付けなければならなかったからでした。。
 昼食も夕食も同じ場所です。朝食後、主人の春男にはコーヒー、妻の妙と娘の幸には牛乳を用意することになっていました。夕食では、主人が毎日晩酌をすることから酒の肴の用意もするのです。
 食材の多くは、予め妻の妙が決め、預かったお金でお里が買い物をする。その買い物から戻ってくると、妻の妙が品物とお金を確かめるのが常でした。料理は、妻の妙とお里の二人で取りかかりました。

 給金は、多くはないが毎月、一定額を主人から渡されました。三太は、給金をほとんど使いませんでした。買い食いなどもせず、使うところもなかったのです。残った給金は行李の中にしまい込んでいました。

 日中の仕事は、配達が多かったのです。それに店番、棚の整理、店や店先の清掃を頻繁にやっていました。万引きを防止するため、店内を巡るように清掃や本の整理をしていたのです。

 三太は、夜の七時ころになると店先に出て、人通りの状況を確認し、午後七時半までには店を閉める。閉店間際のお客がある場合は、三太が対応して売上伝票を作成し、帳場の机の上に置くことになっていました。午後六時を過ぎると、主人は帳場から姿を消し、主人家族の夕食が始まりました。

 店を閉じると、三太とお里は、二人で夕食を取りました。風呂があるときは、主人家族が済んだ後、お里が入り、最後に三太が入りました。三太は風呂上がりに、風呂場の掃除をしました。三太が自分の部屋に戻るのは、概ね九時ころとなりました。

 夏の暑い日のことです。夕方近くになって配達中の三太は、気力が無くなったように歩いている、中学校帰りのお幸の姿を見付けました。自転車を止めて
「どうしたのです。辛そうに歩いて。」
と、お幸に尋ねました。お幸は言いました。
「三太、疲れたの。元気が出ないの。」
三太は、空を見上げました。雲もなく、夏空の日差しは強い。少し歩くと、日吉神社があったのです。日吉神社の境内には、大きな木があり、日陰となっていました。
「暑さにやられたのです。元気になれる水があります。」
三太は、そう言ってお幸を連れて神社の境内の木陰に入りました。三太は、自転車の荷台の籠の中から水の入った瓶とコップを取り出したのです。更に懐から小瓶を取り出しました。
「これ、清水です。少し一杯飲んでみてください。」
お幸は、言われるがままコップに入った水を一口飲みました。
「手を出して」
三太が言うと、お幸は手を前に差し出しました。三太は、小瓶の中の白い粉を少しだけ、お幸の掌に振りかけました。
「さあ、舐めてください。少し塩っぱいけれど、美味しいですよ。」
お幸は、塩を舐めると、少し顔をしかめました。でも少しすると、また塩を舐め、最後まで舐めたのです。
「塩なのでしょう。でも美味しかった。」
お幸は、三太に笑顔を見せました。
「では、このコップで、水を三杯飲んでください。」
そう言われて、お幸は水を三杯、立て続けに飲みました。お幸は、体中に潤いを感じ、スーと力が湧いてくるのを感じました。
「最後の仕上げです。元気の出る運動です。簡単です。」
そう言って三太は、両腕を上に挙げて、肘を肩の高さで屈伸して見せました。お幸も、少し両足を広げて両腕の屈伸をしました。三太は、言い付け加えました。
「元気だぞ、元気だぞ、と言いながらやるのがコツです。」
二人は十回ほど一緒に両腕の屈伸をしたのです。お幸は、笑顔でやっている三太の顔を見ていると、自分も笑顔になっていくのに気付いたのです。
「お嬢様、もう元気が出たようですね。」
三太は、そう言って神社境内の出口まで一緒に歩いて行きました。
「お嬢様、私は配達が残っていますので。」
そう言って別れ際に三太は言ったのです。
「私は、色々思うことがありますが、心の中に幾つものポケットを作っています。嫌なこと、嬉しいこと、やりたいことなど色々ありますが、それぞれのポケットの中に仕舞い込んでいます。」
そう言うと三太は、自転車に乗ると、手を振ってお幸と別れました。お幸は、その時思ったのです。
「心の中にポケットを作るって、何のことだろう。」
そんなことを考えながら、空の雲を見ながら歩いて帰りました。

 中学生のお幸は、ある時店先を掃除している三太に尋ねました。
「幸は、背が低いの。どうしたらいいの。」
三太は、少し笑いました。
「笑って、ご免なさい。お嬢様、お父様、お母様は、背丈は人並み以上に高いのですよ。お嬢様は、これから背が伸びるのですよ。お母様のようになるのですよ。」
三太は、当然のように言ってのけました。
「三太、それ本当のことなの。」
「本当のことです。子供は、親に似るものです。ただ、食事は好き嫌いなどせず、当たり前に食べるのです。そうすれば大きくなるのです。」
お幸は、三太の自信に満ちた言葉を聞いて、目を細めて微笑みました。それから食事に、好き嫌いを言わなくなったのです。

 三太は主人の言いつけを早く覚え、一年が過ぎると、主人の意向で定時制高校に通うことになったのです。彼は真面目に授業を受け、夜遅くまで勉強に励みました。彼は勉強が好きになりました。新しい知識を受け入れ、進んで本を多く読みました。

 梅雨の頃になると、この南国の港町には雨が多く降るのです。朝、晴れていたのですが午後になると雨が降り出しました。夕方になっても雨は止みそうになかったのです。
「三太、幸を迎えに行ってくれないか。」
主人の春男が、店で本の整理をしている三太に言いました。三太は、
「携帯用の合羽とコウモリをお持ちします。」
三太は主人に尋ねて了解を得ると、自分はゴム合羽を着て自転車に乗り、中学校に向かいました。中学校には、時々本やノート、文房具などを納品に来ていましたので、校舎の勝手はある程度知っていたのです。生徒用の玄関に向かいますと、お幸が三太に向かって手を振っているのが見えました。
「お嬢様、待たせてご免なさい。」
「そんなに待っていなかった。きっと三太が来てくれると思ったわ。」
お幸は、携帯用の合羽を身につけました。
「お嬢様、鞄をください。荷台の箱に入れますから。」
お幸の鞄を受け取ると、素早く荷台の箱に入れて、ゴムカバーで覆い、ゴム紐で縛り付けました。三太は自転車を引いていましたが、二人並んで帰って行ったのです。

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