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「三太とお幸」 (その二)

 

       佐 藤 悟 郎

 

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 彼が二年生になった時、主人の娘お幸が高校に入りました。朝になると三太と同じ高校の全日制に主人の娘が通い、夕方六時近くなると奉公人の三太が定時制に通ったのです。彼の学力は、高校でも評判となっていたのです。彼に高校から全日制に編入しないかと話があったのです。彼は、それを誰にも話さなかったのです。そんなことができるはずはなかったからです。

 娘は、彼の勉強する姿を知ることはありませんでした。定時制高校に通っていることは知っていたのですが、定時制とは学力のない生徒が通うものだと思っていたのです。それは中学校を卒業するとき、定時制に進学した生徒の顔ぶれを見て、そう思ったのです。

 高校生になったお幸は、三太に声をかけることが少なくなりました。三太は使用人だと思っていたのです。三太は奉公人で、年季が明ければ自由な身になることを知りませんでした。また、親しくすることが少し恥ずかしく思ったのです。女友達と一緒になって交遊していました。
 住吉神社の夏の祭礼がありました。暑い日だったのですが、各町内に神輿が巡行すると言うことでした。お幸は、同級生二人で店先を通る神輿を待っていました。神輿が見えたころ、同級生の咲恵が、先頭の担ぎ手の若者を指差しました。
「あれ、幸のところの三太君じゃない。とっても逞しく、男らしいわ。定時制では、とても頑張っていると聞いているわ。」
お幸は、咲恵の指先を見つめて言った。
「あら三太だわ。町内から担ぎ手を出すことになっていたの。腰が痛いと言っていた、父の代わりに出されたのよ。でも、楽しそうだわ。」
神社の紋の入った手拭いを頭に巻き、白地に青と赤の祭り半纏、半股引、白足袋姿で、前を少し開けて晒しの胴巻きが見えていました。お幸は、背丈も、他の大人より少し高いと思ったのです。

 神輿が店の前に差し掛かる頃になると、主人の春男が顔を見せた。お幸が、三太を指差すと、父春男は手を振った。三太も片手で手を振っていた。主人春男は、神輿と一緒に歩いてくる、顔見知りの世話役の者に祝儀袋と酒の一升瓶を渡した。神輿は、店先で盛大に揉みこんで、再び巡行を始めました。
 夜になって、笑顔を見せて三太は帰ってきました。夕食は、神社から折り詰めが出たので済ましたと言いました。頃合いを見て風呂に入ってしまうと、主人春男に挨拶をして部屋に行き、布団を敷くと直ぐに寝てしまいました。
 居間で勉強をしていたお幸は、三太が部屋に行く前の挨拶が早かったので、祭りで相当疲れたのだと思いました。三太が、神輿を担いでいる姿を思い浮かべました。
「もう一人前の男なんだわ。」
そう思いました。お幸自身も、母の背丈より高くなったことを思うと、以前の三太の言葉を思い、一人で微笑んでいました。

 ある日曜日のことでした。その日は店が休みで、三太は自分の部屋で本を読んでいるときでした。娘は、女中の部屋と間違えて彼の部屋を覗き込んだのです。机に向かって、三太は、静かに教科書を読んでいる。すらすらと英語を読み上げている姿でした。
 机の上には、十冊ほどの本が積み上げられていました。わずか三畳の部屋で押入もなく、突き当たりの窓には、簾が揺れているのです。机の脇の粗末な書棚には、多くの単行本が並び、棚の上にも本が積み重ねられていました。手前には布団がきちんと畳まれ、その脇には行李が置いてありました。壁の鴨井には、学生服と店で着る服が掛けられ、行李の上には下着が重ねてあったのです。
 娘は、彼が読んでいる英語の内容をほとんど読み取れませんでした。単語にしても、多くの知らない言葉でした。彼は、急に読むのを止めると、振り返って後ろを見たのです。そこには立っている娘お幸の姿がありました。
「これはお嬢様、気が付かなくて。何かご用ですか。」
そう言うと彼は、敷いていた座布団を外して、娘に正対してお辞儀をしました。
「いえ、女中のお里の部屋と思って、間違ったの。ご免なさい。」
「そうですか。お里さんの部屋は一つ置いて隣の部屋です。先程、出かけて行ったようです。」
「そうですか、ありがとう。」
娘は、そう言って頭を軽く下げると立ち去った。

 それから数日後、娘はこっそり彼の部屋に入りました。良い香りがするのに気付きました。それは机の上の牛乳瓶に挿してある薔薇の香りだったのです。机の上の本を見ると、上になっている本は定時制の四年の教科書でした。重ねてある本を見ていくと、全日制の三年までの主要教科の教科書となっていました。書棚の本を見ると、岩波文庫の本が並んでおり、それに加え、英語本、数学、物理、化学に関する書籍がありました。


 彼が定時制三年生になり、娘は二年生となりました。娘の勉強も難しくなったのです。娘の女友達も幾人かおり、時には男性の話にもなりました。噂をする男性にお幸は話を合わせるだけでした。お幸は、三太を思うと誰にも優る異性を感じていたのです。

 高校二年生の一学期の期末試験が終わり夏休みが間近になったころ、お幸は担任の鮎川先生に呼ばれ相談室へ行きました。進路指導と生活指導ということで、名簿順で生徒が呼ばれていました。相談室に入ると、担任の鮎川先生、それに生活指導の教頭先生が机の前に腰掛けていました。最初に、教頭先生から一枚の夏休み中の生活の注意事項が印刷された紙を手渡されました。
「一年の時も同じものを渡したと思うが、夏休みとなると開放感から行動を乱す者がいる。湯浅さんは、心配ないと思うが、紙に書いてある事項に気を付けてもらいたい。特に異性との交際には、注意してもらいたい。後は、健康に十分気を付け、勉強も忘れないようにしてもらいたい。私からは以上だ。他に用があるので席を外します。分からないことがあったら、鮎川先生に相談願いたい。」
そう言って教頭先生は、机の上の書類をまとめて持ち、相談室の戸をガラガラと音を立てて出て行きました。急に静かになり、お幸は進路について何を言われるのか不安になってきたのです。鮎川先生は、黒いノートを開き、指を当てて確認するように見ると、ゆっくり顔を上げて話し始めました。
「湯浅さんは、この間提出してもらった、進路希望によると、進学希望でしたね。」
お幸は、小さな声で「はい」と答えました。
「もう二年の一学期も終わりだ。志望校も決まったと思うが、教えてくれないか。」
「三重の大学、できたら文学を専攻したいのですが。」
お幸が答えると、鮎川先生はノートを見て、何かを書き加えていました。少し顔を上げて
「文学を希望ということだが、何か理由があるのかね。」
と機械的に尋ねたのです。
「はい、家は本屋、私は一人娘です。小説や雑誌を取り扱っていますので、その方面のことを勉強したいのです。」
鮎川先生は、またノートに目を落として、お幸の言ったことを書き足していました。
「よし分かった。一生懸命勉強して、大学に入れるといいですね。」
そう言って、鮎川先生の指導は終わったのです。
「何か、言いたいことがありますか。」
と最後に鮎川先生は、お幸に尋ねました。お幸は、
「先生、私は希望する大学に入れますか。心配なのです。正直なことを教えていただきたいのです。」
鮎川先生は、お幸を見つめた。
「残念だが、今のままでは危ない。ランクを下げてはどうだろうか。」
お幸は、目を下に向けました。努力をしているつもりだったのですが、どうしたらいいのか分からなくなったのです。
「予備校と言っても、この町にはない。家庭教師と言っても、適当な人の心当たりはない。」
鮎川先生は、そう言って俯いてしまいました。少し二人は沈黙し、重苦しい時が流れました。
 鮎川先生は、何か思いついたように顔を上げたのです。お幸は目を上げて、鮎川先生を見つめました。
「確か、湯浅さんの家に、西村君がいるでしょう。」
お幸は、鮎川先生が何を言っているのか分からなかったのです。
「私の家に、西村君がいる。何を言っているのですか。」
「定時制三年生の、西村三太君だよ。」
「ああ、三太のことね。それがどうしたのですか。」
「そう、君の家では三太と呼んでいるのか。彼に勉強を教わるといい。彼なら、きっと上手に教えてくれるよ。」
「だって、三太は定時制でしょう。」
「勉強に定時制、全日制なんて関係ない。彼はとても優秀な生徒だ。全日制の生徒と比べても、トップクラス、それ以上の実力がある。」
「三太って、そんなに優秀なの。そう言えば、全日制の三年までの教科書を全て持っていたわ。」
「そうだろう。もう高校生の勉強も仕上がっているのかも知れないな。働きながら勉強をして、成績がよいとは、勉強のやり方をよく知っているからだと思うよ。だから、彼から教えてもらったら良いのではないかと思ったのだ。」
お幸は、三太が優しい人であることを知っていました。鮎川先生に言われて、三太に頼んでみようと思ったのです。

 

 

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