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「三太とお幸」 (その五)

 

       佐 藤 悟 郎

 

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 正月早々の日曜日でした。居間の廊下でお幸は、店に向かって歩いてくる三太と出会いました。お幸は、三太に冗談のつもりで話しかけました。
「ねえ、三太、私、男の人とお付き合いするの。どう思う。」
「お嬢様は、十八歳となります。お年頃なのです。よいことだと思います。」
「それだけ。どんな男の人だと聞かないの。」
「それでは聞きます。どんな人なのですか。」
三太にとって、関係のないことだったのです。お幸の言葉は、戯れ言に近いことだったのです。
「背が高くて、男前の人。そこそこ頭も良くて、女の子の中でも、噂になっているの。明日、声をかけてみようと思っているの。」
「そうですか、良い返事を聞かせてください。ところで、どちらのお坊ちゃまですか。」
「伊藤英明君という名前なの。中学校の伊藤先生の次男なのよ。小学生のころから一緒だったわ。どんな言葉で声をかけたら良いの。」
三太は、笑いながら答えました。
「さあ、私には分かりません。そんな経験もなかったし、好きになった人もいませんでしたから。」
三太は、故郷で好きだった女の子がいましたが、家の貧しさで奉公することになり、全てを諦めたのです。ちらっと、その時の女の子を思い浮かべましたが、頭を左右に振って、消し去ったのです。
「お嬢様、言葉というものは、言ってしまうと一人歩きをするものです。お嬢様の本当の心と関係なく、お嬢様を支配するものです。」
お幸は、三太の言葉を聞くと、急に不機嫌となって顔を背けた。
「じゃ、仕事がありますので失礼します。」
そう言って三太は店の方に向かって歩いて行ったのです。
「三太、お前のことが好きなんて言えないじゃないの。でも、何時か言うわ。」
お幸は、そう思いながら三太の後ろ姿を見つめていました。

 その日の夜のことでした。お幸は、高校三年生の年の暮れの頃から、受験勉強のため居間の隣の部屋で勉強をするようになっていました。お幸は、机に向かい電気スタンドの光で勉強をしていました。居間の方で、両親が話をしているのが聞こえました。両親の話など、気にならなかったのです。話が三太のことになると、お幸は筆を止めて聞き耳を立てました。
「春には、三太も年季奉公も開ける。奉公が明けた後、残るのか、出ていくのか聞かなければならないな。」
「三太は、よく働いてくれましたね。残ってくれれば良いのにね。出ていくことになれば、また三太のような子が、来てくれたらいいね。滅多に、三太のような良い子はいないでしょう。」
それを聞くと、お幸の体が急に震えだしたのです。目をつむって項垂れ、目に涙が溢れ一筋二筋と流れました。
「三太がいなくなる。」
お幸は、三太がいなくなることは考えてもいませんでした。ずっと家で働いているものと思っていたのです。
「嫌だ、三太がいなくなるなんて、嫌だ。」
そう思うと、次から次へと涙が流れてきました。お幸は、勉強を止めて床に潜り込み泣き続けたのです。

 翌朝、高校に行くため鞄を提げて玄関を出ました。庭を通り店先に出ると、三太が箒と塵取りを持って掃除をしているのに会ったのです。お幸は、立ち止まって三太の姿を見つめていました。三太は、お幸に気付きました
「お嬢さん、お早うございます。今日は、よい日でありますように。」
お幸からの返事はありませんでした。立ち竦んでいる様子を見て、三太はお幸に何か異変が起きと思ったのです。ようやくお幸は、首を数回横に振ると、向きを変えて学校に向かって歩き出しました。


 湯浅書店の奉公は、五年で明けることになっていました。春になると三太は奉公明けとなるのです。二月に入って早々、三太が店を辞めて故郷に帰りたいと主人に言ったのです。どうしてなのか、主人は三太に問い質しました。三太は、正直に答えました。
「色々お世話になりましたが、私は大学に行って勉強がしたいのです。自分勝手なことだと思いますが、どうかお許しを頂きたいのです。」
主人は、三太の故郷の家が貧しいことは知っていました。店での奉公の姿を見ていると、三太は相当の覚悟をしていると思ったのです。家に帰らずに、どこか書生などをして大学に行くのだろうと思いました。主人春男は三太に尋ねました。
「大学へ行って、何になりたいのだ。」
「できたら、弁護士になりたいと思っています。この町にも困っている人が多いのを知りました。でも、弁護士がいないことも知りました。少しでも人助けをしたいのです。弁護士となったら、この町に住みたいと思っております。」
「そうは言っても、どこの大学へ行くのだ。」
「この地元の国立大学に受験申込みをしました。一旦家に帰り、母によく説明して、納得してもらいます。」
「家の方、暮らしはどうなんだ。困っているのだろう。」
「兄が、大学を卒業して、マグロ漁船に乗っております。暮らしは楽になったと、便りに書いてありました。」
「そうか、マグロは良い金になると聞いている。それは良かったな。」
主人の春男は、三太の兄が大学に行き、そのための金の工面のため、三太が奉公に出されたのを初めて知ったのです。三太が大学に進んでも、後ろ盾ができたと思ったのです。

 主人は、娘のお幸に彼が出ていくことを話しました。
「お幸は、三太がいなくなるなんて嫌です。」
それが娘のお幸の答えだったのです。主人は、どうしたらよいのか分かりませんでした。暫く娘の様子を見ることにしたのです。

 お幸に話してから、十日ほど経ったのですが、別段娘の様子に変わったところがなかったことから、主人の春男は、お幸の言葉が一時の戸惑いだと思いました。主人春男は、妻妙と一緒に、三太の最後の意思確認を行うこととしたのです。
 主人の妻妙が二階の部屋に行くことは滅多にありませんでした。階段や廊下は、綺麗に掃除されていました。三太の部屋の前まで行くと、机に向かっている三太に声をかけました。
「三太…、三太、お父さんが呼んでいるよ。早くおいで。」
三太は、主人のいる居間に入ると、主人春男の前で正座をして深くお辞儀をしました。
「三太、奉公は明けるが、もっとこの店にいて欲しい。働く時間も短くするし、給料も多く出すことにする。」
「有り難いことですが、もう少し勉強がしたいのです。」
「駄目か。お前がいなくなると、寂しくなる。」
そして主人春男は、少し厳しい声で言った。
「私の願いを聞き入れてくれない。辛いことだが、今すぐこの家から出て行ってくれないか。お前の大学受験のこともあるだろう。私は、未練を断ち切りたいのだ。」
三太は、主人春男の気持ちを察していた。
「分かりました。用意はしてあります。長い間有難うございました。」
三太は、深々と主人にお辞儀をして立ち上がり、部屋に行きました。お幸は、隣の部屋で、机に向かって俯いて聞いておりました。しかし、お幸の心は不安と心配でいっぱいだったのです。

 三太は、少ない荷物をまとめると、主人の前に座りました。
「出ていく支度をしてきました。汽車まであと二時間あります。それまでここに置いてください。」
「遠くまで行くのだろう。今日は寒いから、早く駅へ行くのが良いだろう。」
三太は、いつまでもいるのが目障りなのだと思ったのです。
「御主人様、奥様、今まで本当にお世話になりました。また、私の我が儘を聞いていただき、本当に有り難うございました。どうぞお達者でいてください。」
 三太は、頭を低くして暇を告げたのでした。その様子を娘のお幸は静かに聞いていました。三太は、お幸のいる隣の部屋に向きを変えると
「お嬢様、いつまでもお元気で。」
と言いました。お幸は、悲しさのため言葉が出てきませんでした。

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