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「三太とお幸」 (その三)

 

       佐 藤 悟 郎

 

 ( その一 その二 その三 その四 その五 その )

 

 

 夏休みに入って間もなく、お幸は模擬試験を受けたのですが、鮎川先生の言われたとおりの結果だったのです。数学や英語で分からないことが多くなりました。八月に入って、お幸は母妙に言ったのです。
「お母さん、勉強で解らないところがあるの。三太に教えてもらっていいかしら。」
「三太って、定時制でしょう。分かるはずがないよ。」
「だって、三太だって三年生なんだから、分かるわよ。試験が迫っているんだから。」
そんな遣り取りをして、日曜の午後になって三太は主人に呼ばれたのです。
「娘が勉強を教えてくれと言っているんだ。そこの居間で教えてくれんか。」
三太は、少し戸惑いを見せました。
「お店の方は。」
そう心配そうに言いました。
「店の方は、俺がする。娘の勉強も大事だからな。」
主人はそう答えると、娘を呼んだのです。

 娘は、教科書や参考書を持って居間の座卓の手前、三太と向かい合って座りました。最初に英語でした。三太は、学習の範囲を聞き、過去の単語帳があるか尋ねたのです。全てはないと答えたことから、一年生から習った単語を拾い出し、単語帳を作ったら良いと言いました。そして、参考書やこれから学習するところの単語をメモをして書くことを勧めたのです。
 そう言った後に、英語の教科書を読ませ、英文法や熟語等に入っていったのです。熟語等については、別に抜き書きをしたら良いと教えました。読んでは、意味を言わせ、それを繰り返していたのです。
 数学については、公式の成り立ちを一通り説明をしました。幾何学、代数、積分、微分等について説明をしたのです。公式を理解して暗記し、教科書の問題を反復して解くこと、問題集にも少しは挑戦し、理解することを勧めました。
 他の教科については、繰り返し目を通す。できたら音読していく。繰り返して読んでいくうちに、教科書に慣れてくる。どこに、何が書いてあるか分かるようになる。本当は、時間がかかることであるが、教科書一冊まるごと繰り返し読むことを勧めた。教科ごとに、一時間で何ページ読むことができるか測り、それを勉強時間の計画作成に反映させることが大切だと言いました。

 彼は、勉強の中身に入る前に、勉強の方法を言ったのです。
「お嬢さん、私が言ったことの多くは、勉強方法です。詰まらないことと思っては、前に進むことはできません。信ずることだと思います。自分にとって不都合があれば、少しずつ変えていけば良いのです。」
そう言った後、更に付け加えて言いました。
「勉強していて、解らないところがあったら、具体的に言ってください。私が解るところであればお手伝いいたします。私も解らなければ、調べてお知らせいたします。」
そう言って、彼はお幸の瞳を見つめた。お幸は、暫く三太を見つめて微笑みました。
「三太、分かったわ。」
そう言って、差し当たって解らない問題を前に出しました。三太は、ヒントを与え、正解に導いていきました。一つ、二つとゆっくり進んでいきました。全て解き終わると、お幸は喜びに満ちた瞳で、三太を見つめました。そしてお幸の心には、三太への信頼と尊敬の思いが湧いてきたのです。


 夏休みも中頃になって、お盆を迎えました。夜明けの清々しい朝早く、三太は、盆花が入った桶、柄杓、蝋燭と線香などを持って、主人家族に従って歩きました。山の裾野の高台に、その町の墓地があったのです。湯浅家の墓と記された前に家族が立ちました。
「三太、ありがとう。とても綺麗になっていて。」
そう主人の妻妙が、労うように三太に言いました。三太は、桶の中の物を取り出し、空になった桶を下げて足早に水汲み場へ向かいました。
「私も行くわ。」
お幸は、そう言って三太の後を追いかけていったのです。三太は、隣で歩いているお幸に向かって言いました。
「お嬢様、水汲み場では、服が汚れないようにしてください。水汲みは私がやりますので、上で待っていてください。」
水汲み場というのは、細い道から急な階段を下りた谷川でした。冷たく感ずる谷川の水を、桶に八分目ほどにして汲み上げました。湯浅家の墓に向かい、三太とお幸は並んで歩きました。
「三太ありがとう。三太の言ったように勉強をしているわ。色々工夫して、無駄のないようにしている。勉強していて、自信が湧いてきたわ。三太に相談して、本当によかった。」
お幸は、時々三太の顔を覗きながら言いました。
「それは良かった。全てお嬢様が、お力があるからですよ。」
三太は、嬉しそうに笑顔を見せて答えました。
「三太、明日はお店お休みですよね。私、高校の友達と海に行くことになっているの。三太も一緒に行かない。彼女の男友達も来るの。」
三太は、お幸が誘ってくれるのが初めてだと思いました。
「お嬢様、ありがとうございます。漁師で定時制の同級生と約束しているのです。ご一緒したいのですが、残念です。」
お幸は、三太の返事を聞くと立ち止まりました。お幸は、俯いて元気なく言いました。
「本当に残念だわ。明日が、つまらなくなった。」
と俯いたままお幸が言いました。三太にはどうすることもできなかったのです。お幸は、顔を上げると三太を見つめ、笑顔を見せて言いました。
「三太、分かったわ。今度早めに誘うわ。そうしたら、都合をつけてね。」
二人は、顔を見合わせお互い微笑み合ったのです。
 花を飾り、柄杓で墓に水をかけました。主人の春男は、蝋燭をともし線香に火を着けたのです。線香の心地良い匂いが立ち籠める中、湯浅家の墓参りが済みました。お幸は帰り道、時々後ろを振り返って三太を見つめました。

 翌日、お幸は早く起きましたが、もう三太の姿は見えませんでした。お幸は、勉強を始め、途中朝食をとって十時近くまで勉強をして筆を置きました。高校の同級生の咲恵が迎えに来ると、袋に入った海水用具を持って家を出ました。出かけに母に声をかけると、母妙は、
「海は怖いよ。気を付けるんだよ。」
と言って、咲恵に挨拶をしてお幸を送り出しました。二人は、咲恵の兄が運転する自動車に乗り込んだのです。
「どこの海岸に行くの。」
お幸は、咲恵に尋ねました。
「夢島海岸だって。直子、そこで待っているって。二キロくらいあるね。直子の彼、今日はそこにいるからって、言ってた。」
「直子の彼って、咲恵知っている。私知らないの。」
「私も良く知らない。二つ上で、漁師だというくらい。咲恵の家も漁師でしょう。お似合いだわよ。」
そんな話をしているうちに、夢島漁港の駐車場に着きました。駐車場の左手に漁港があり、海水浴場は右の方にありました。
「帰りは、直子が何とかすると言っていた。迎えは要らない。」
咲恵は兄に向かって言い、二人は自動車から降りました。海水浴場に行くと、直子が手を振っていました。直子の知り合いの浜茶屋に入って水着に着替え、三人は浜に出たのです。直子は、海女にまじって海に潜っていることから、泳ぎが上手でした。咲恵も、そこそこ泳いでいたのですが、お幸は泳ぎが苦手だったのです。お幸は、体が冷えてくると、海から上がって砂浜で仰向けに寝転びました。青い空、中に白い雲が浮かんでいるのを見つめていました。
 海から二人が上がってくると、車座になって座り、持ち寄ったお菓子を真ん中に置き、お喋りを始めたのです。学校の女生徒、そして男子生徒、先生の噂が中心になって話が弾みました。そして、瞬く間に昼時になったのです。
「お昼よ、浜茶屋で何か食べる。」
咲恵が二人に言うと、直子が承知したという風に
「今日、午前中、私の彼、私達のために漁に出ると言っていた。そろそろ帰ってくる頃よ。もう少し待っていましょう。」
と言いました。

 直子の言ったとおり、暫くすると駐車場の方から、篭をそれぞれ下げた若い男三人、その後ろに夫婦らしい二人が歩いてくるのが見えました。
「来たわよ、私の彼よ。」
直子が手を振ると、ひとりの男が手を振って応えているのが見えました。直子は、
「手を振っているのが彼、もうひとりは兄、後ろから歩いてくるのは両親、もうひとりは彼の友達よ。私の家の船で漁に出かけたのよ。」
と嬉しそうに言った。五人が歩いてくるのをお幸は見ていました。その中に三太の姿を見つけると、大声で叫んだのです。
「三太、三太、幸はここにいるんだよ。」
お幸は、急に元気が出たのでしょう、大きく両手を高く上げて振ったのです。咲恵と直子は、急にはしゃぎ立てるお幸を驚いて見つめました。二人の視線を感じてか、お幸は恥ずかしそうに少し俯きましたが、明るい顔は変わりませんでした。
 三人の若い男達は、浜茶屋から大きな鉄製の火鉢、それに七輪、金網、鉄板等、浜焼きの道具を借りて、浜に置きました。篭には、取り立ての貝やエビ、魚などが入っていました。それらを火鉢に火を焚き、金網や鉄板を使い、焼き始めました。香ばしい匂いが周りを取り囲んだ人の間に流れました。
 お幸は、三太の隣から離れず、三太が焼き上がった魚介を皿に入れてくれるのを食べました。
「これは何という貝なの。美味しいわ。」
そう言って、お幸はいちいち三太に笑顔を見せて尋ねていました。三太は、丁寧に教えていたのです。
 お幸は、そこで直子の男友達が、三太の定時制の同級生だということを知りました。船乗りの資格を取るために、高校は出なければならないと思い、三太と同じく一年遅れで定時制に通うようになったということを知りました。お幸は、浜で三太と一緒になってから、楽しさで溢れていました。

 楽しい時というものは、早く過ぎるものです。青い海、遙かな空を見つめ、時が流れて浜の宴も終わりました。後片付けが終わると帰らなければなりませんでした。直子の兄は、三太とお幸、咲恵の三人を自動車で送るつもりでした。
「お嬢様と一緒に帰る訳にはいかないでしょう。別々に、家を出てきたのですから。私は歩いて帰ります。お嬢さんをよろしく。」
そう言った言葉に、お幸も納得して咲恵と二人で自動車で送ってもらいました。お幸は、三太と一緒に過ごした時間を思い返すと、幸福な気持ちになりました。

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