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「三太とお幸」 (その六)

 

       佐 藤 悟 郎

 

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 三太が家を出て行ってしまうと、お幸の心は寂しさと不安でいっぱいになってしまったのです。時間が一秒、そしてまた一秒と過ぎていく。汽車が駅から離れれば、もう一生会うことはできなくなるだろう。そう思うと胸の動悸が切なく高まっていくのを感じていたのです。
 女中のお里は寝ていました。主人春男は、居間で苛々として座っていたのです。時間が過ぎていくに従い家の中は暗く、重苦しい雰囲気となりました。
「お父さん、これ、三太の机に上がっていたんだよ。」
主人の妻妙は、預金通帳と一通の手紙を主人に手渡した。
…御主人様、今日までお世話になり大変嬉しく思っております。このご恩は決して忘れるものではありません。私の勝手から、出ていくことになり申し訳ないと思っております。この通帳を少しの役立てていただければと思っています。…
 通帳のお金は、母に仕送りをした他の殆どだった。その額も大金になっていたのです。
「お父さん、三太、手持ちのお金あるのかね。」
と妻の妙は心配そうに言った。主人の春男は気落ちした様子で、返事をしませんでした。妻妙は、お幸が話を聞いていたと思い、心配になって隣の部屋の襖を開けました。
「あら、あんた、お幸がいないよ。」
妻の妙に言われ、主人はお幸の机の方を見たのです。音もなくお幸の姿が消えていました。

 お幸は、寒い道を駅に向かって俯きながら歩いていました。お幸の心は苦しく、また寂しかったのです。ようやく駅の入口までたどり着くと、駅の入り口から長椅子に座り、本を読んでいる三太の姿が見えました。さっと、お幸の心に懐かしい感情が横切りました。
 冷たい風が三太の頬を撫で、通り過ぎました。三太が顔を上げると、俯いて自分の前に立っているお幸の姿があったのです。
「お嬢さん、お嬢さんどうしたんです。」
三太は、本を椅子に置いて立ち上がりました。
「三太…」         
呟くようなお幸の声が、三太の耳に心細く聞こえたのです。
「こんなに寒いのに、ストーブの側に行きましょう。」
三太は、お幸の背中に手を当て、連れ立ってストーブの側へ行きました。列車が発つまで三十分ほどだったのです。
「何処まで行くんだ。」
切符売場の窓越しに駅員が声をかけた。
「新潟県まで行きたいんだ、どのくらいかかるやろ。」
三太は生まれ故郷に帰り、少し体を休めたいと思いました。
「そうだな、特別に北陸線回りで敦賀まで乗車券を出すよ。そこから、新潟県の何処でも発行してくれるよ。」
駅員は、大きな声で答えたのです。

 その時、お幸は三太の瞳を覗くように見つめました。
「三太、お幸も連れていってくれないか。ねえ、いいだろう。」
三太は、お幸の言葉に驚きました。そして、すぐ首を横に振ったのです。
「お嬢さんは、家を継がなければならない大切な人です。それに、私の故郷は遠い所です。何もない、詰まらないところです。」
「いいんだ…。三太と一緒なら、遠くても、詰まらん所でもいいんだ。だから連れていって、お願い。」
三太は、少し考えた。そして、お幸の自分に対する真面目な好意を感じたのです。
「でも、お嬢さんいけません。」
三太は、お幸に言った。所詮その場凌ぎの言葉でしかなかったのです。
「三太、私を連れて行けないなら、お幸の家に戻ってくれないか。お幸もお父さんに言うから。」
お幸の言葉に三太の心は揺いだ。店に帰りたかったのです。
「でも…。」
お幸は、三太が故郷に帰りたくないと思いました。躊躇する言葉に、お幸は微笑んで三太を見つめました。
「大丈夫だ。さあ、店に帰ろう。」
三太とお幸は、連れだって駅を出て行きました。駅員は切符を片手にして、二人の姿を唖然として見送りました。

 家に着くと、三太とお幸は居間に入りました。
「お幸、何処へ行っていたの。おや、三太どうして戻って来たんだ。」
お幸は、三太の腕を引き摺るようにして、父の前に並んで座ったのです。
「お父さん、三太を置いてあげて。」
主人は、静かにお幸の姿を見つめていました。
「でもな、お幸よく考えてみろ、三太は遠い国の人だ。いつかは店から出ていく人なんだ。この家に未練が残らないように出ていってもらうのが良いんだ。三太なら、何処へ行っても立派にやっていけるよ。」
主人はお幸を諭すように言いました。
「お父さんも、お母さんも、三太が出て行っても構わないでしょう。でも、お幸はどうなるの。そうでしょう。お幸は困るの。お幸は困るのよ。」
お幸は、涙を浮かべた目を父に向けて言ったのです。

 日頃、おとなしく内気な娘だけに、娘の激しい言葉を聞くと、主人と母は顔を見合わせ、戸惑いを顔に現した。
「お嬢様、そんなことを言ってはいけません。有り難いと思ってはいます。でも、ご主人様が言われるように、年を取ればいずれは出ていくことになりましょう。」
 三太がお幸の後ろから声を掛けました。お幸は急に三太に向かって座り直し、三太の顔を見つめたのです。三太は、お幸の瞳が潤んでいるのを認めると俯いてしまいました。
「三太、お幸は三太のことが好きです。お幸は三太のお嫁になりたいと思っています。三太はお幸のことが嫌いか。お嫁にすることが嫌か。」
お幸のはっきりした言葉だったのです。三太は返す言葉がありませんでした。顔を上げてお幸の顔を見ると、頬に涙が流れているのが分かったのです。
「お幸は三太と一緒じゃなければ嫌だ。三太のいないところなんていたくもない。」
そう言うと、お幸は部屋から飛び出し、庭へ下りていったのです。主人と母は三太を見つめ、ただ黙って頷いているばかりでした。
 三太が庭に下りると、お幸は松の幹に顔を埋め泣きじゃくっていたのです。
「お嬢様、そんなに泣かないで。」
優しい三太の声を聞くと、お幸は三太の胸に飛び込み、泣いていました。三太は、静かにお幸の背に手を回して、抱き包んだのです。そしてお幸は泣き止み、そっと三太の背中に両手を回しました。二人の寄り添う影に、南国には珍しく、小雪が降ってきたのです。

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