「山よりの便り」 その三

                        佐 藤 悟 郎

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十月八日(金)

 今日の午後は良い天気で、午後の国語時間、簡単な漢字のテストをして答案用紙を集めた。余り爽やかで教室にいるのも勿体ないと思い、生徒を連れて近くの山にある闘牛場跡に行った。昔は、盛んに闘牛をしていたと聞いているが、今は闘牛をする窪地も、草が生えている。だだ草も浅く、周りの林の中も良く草が刈られている。村の人が手入れをしているのだろう。
「自由時間だ。ただし、闘牛場から離れるな。」
そう言ったところ、男女を問わず、生徒は林の丈の低い木に登ると、奇声を上げて揺すって遊び始めた。
 私が笑って見ていると四人ほどの男子生徒が、木陰で腰を下ろしている私の前に集まった。それぞれバラバラに座っていたが、何か話をしたそうだった。
「お前達は、木登りをしないのか。」
と私が尋ねると、正行が言った。
「あんなの馬鹿らしいよ。」
そう言って、私に仕事のことについて尋ねるのだ。警察官、消防署員、バスの運転手など様々だった。どうしたらなれるのか、余りよく知らなかった。警察官などは、公務員としての採用試験を受けて合格すればなれる。バスの運転手は、大型の運転免許証を取らなければなれない。初歩的なことしか言えなかった。
「高校に行かなければなれないのか。」
「試験なんか嫌だな。」
と口々に言っていた。
 女子生徒の数人が、大きな木の下で何やら拾っている。私は、前にいる生徒に尋ねた。
「何を拾っているのだ。」
康行が、大きな木を指差し
「栃の実を拾ってるのだ。あそこの高い木、栃の木なんです。」
康行の話を継ぐように、年春が言う。
「もう時期が遅いから、虫の食っていないものを選んで拾っているのだろう。」
そのうちに、木に登って遊んでいた女子生徒も、私の前に集まって、話に加わった。房枝は
「バスの車掌になりたいな。」
と言った。他の女子生徒から、床屋、看護婦など、色々な仕事が飛び出した。その中には、遠い地の紡績工場の話しはなかった。
 高校進学、就職が大きな問題となっていると思った。いずれにしても、有効な交通手段がないことが、地域の閉塞感を煽っていると思った。


十月九日(土)

 先日、一年生の国語の時間に宿題を出した。「思い出について」という題で作文するように言ったのだ。昨日、全員が作文を提出をしてくれた。ワラ半紙、帳面の切れ端、チラシの裏面など様々な紙で書いてあった。内容は、仕事の辛いことがほとんどだった。中学校一年生というのは、家庭では働き手なのだと思った。
 それに作文を書いてきた用紙が、てんでバラバラだった。私は、てっきり原稿用紙に書いてくるものと思っていたが、そうではなかった。これからは枡目の用紙、ワラ半紙であるけれど、多くガリ刷りをして、それを持たせてやることにした。
 考えてみると、確かに中学生は、男子は学生服、女子はセーラ服で、体操着もきちんとしているが、肝心な文房具となるともう少しなのだ。私が思うに、やはりどこの家も貧しいのだ。農地だって広くはないし、冬になれば男たちは出稼ぎに出て行くという。
 冬になって、手掘りのトンネルの出入り口が埋まってしまえば、陸の孤島となってしまうのだろう。中学校を卒業すれば、都会に就職するのが当たり前で、子供達もそれを承知しているようだ。勿論、子供達を遠く離れた高校にやることは無理なのだろう。
 江戸時代の寺子屋での勉強で、読み、書き、算盤というのがあった。社会に出れば、この三点はやはり必要である。授業は、この三点に重点を置いてやるのがよいと思う。例えば、読む力が付けば社会に出て色々な本を読むことができる。本を読めば、知識も思考力も備わってくる。授業中は読ませ、その意味や考え方については私が説明する。そうして読むだけにすれば、そう抵抗を感じないはずである。
 今、手掘りトンネルの脇に、隧道と言っている立派なトンネル工事が進行中であるが、私が見た限りでは作業員の姿も見えず、工事をしているとは思われない。手掘りのトンネルでは、自動車が通るのは無理だ。自動車でこの地域に来るには、栃尾経由か小出経由なのではないかと思われる。この新しい隧道が開けば、この地の集落の様相も一変するだろう。


十月十日(日)

 十月の中旬になろうとする当直明けの日曜日だった。天候は晴れていたので散歩に出かけた。昨日は小雨が降っていたので、山道ではぬかるみがあると思い長靴を履いて、大久保集落方面に行った。山の関係で大久保集落では、遅い稲刈りをしているところがポツポツ見えていた。忙しい中、のんびり歩く私は、余り良い気分ではなかった。集落を早く抜け出すつもりだった。
 集落から外れると、見覚えのある男が声をかけてきたのだ。よく見ると小学校六年担任の菊田先生だった。稲架にかけた梯子の上の男の人に稲を投げているところだった。すると梯子の上の男は下りてきて、私に挨拶をする。どこから来たのか、稲を背負子で背負ってくる女の子の姿が現れた。小学六年生の千代だった。私を見るなり、
「芳夫でねえか。閑なんだろう。手伝ったらどうなんだ。」
そう言って、背負子の稲を下ろしていた。下ろし終わると、私の前に来て言うのだ。
「芳夫、おれんとこの稲運びは、これで終わりだ。この先に、二年の喜子の家の田圃がある。手が足りなくて難儀している。一緒に行って手伝ってこような。芳夫、いいな。」
千代は、私に背負子を一つ持たせ、自分も背負子を背負い、私の手を引っ張って歩き出していた。
「おらとこは、あと稲架がけだけだ。菊田先生とおとうでできる。喜子のとこは、稲刈りが終わるころだ。稲を稲架まで運び、それを稲架にかけるんだ。」
更に千代は言うんだ。
「喜子の家は、おかぁが死んで、兄ちゃんも東京に働きに出て、手がないんだ。大変なんだ。」
私は、千代に手を引かれながら、喜子の家の田圃に着いた。着くと丁度稲刈りが終わり、畔で喜子と父親が休んでいるところだった。
「喜子姉ちゃん、手伝いに来た。芳夫も一緒だ。」
千代の声で喜子親子は驚いて、私の方を見ている。少し間を置いて、
「そげな格好で、汚れるがな。」
喜子が心配そうに言うと、千代は
「そんなこと構わないさ。服なんか、洗えば綺麗になるよ。」
そう言って、喜子の座っている莚に座った。ジュースを一杯飲んでから、稲を運ぶことになった。道が悪いことから担いで運ぶしかなかったのだ。
 まだ乾いていない稲は重い。運んでは降ろし、幾度も繰り返す。田圃の稲の束を見ると、限りないように思える。足腰の疲れを覚えたが投げ出す訳にもいかない。他の三人は、声も出さずに黙々と働いていた。一時間ほどすると休みを取った。丁度、その時千代の父と菊田先生が姿を見せた。
「西脇先生、大丈夫ですか。慣れていないと大変なんですよ。」
菊田先生が言うと、千代が間髪を入れず言うのだ。
「芳夫は頑張った。大丈夫だよね。芳夫。」
そう言っているのを聞いて、私は微笑むしかなかったのだ。


十月十六日(土)

 今日は土曜日の宿直で、学校の教務室で手紙を書いている。昨日の午後から中学生は茸狩りということで、中学校の先生に連れられ茸狩りに出かけた。それも小雨の降る、少し肌寒い中なのだ。何故か、私は急遽日直勤務を命じられ教務室に残ったのだ。何も雨の降る中で茸取りをしなくてもいいじゃないかと思っていたのだ。
 先生も生徒も身支度を調えて出かけたのだが、出かけて間もなく一人の集落の人が訪れた。
「皆、もう出かけましたか。」
と、私に尋ねるのだ。
「薬師岳の麓の方へ行くと言っていました。」
私が、そう答えると、その人は
「そうですか、去年と同じところですね。急用があって遅れたものですから。行ってきます。」
そう言って、その集落の人は教務室から出て行ったのだ。
「ああ、やはり集落の人に頼んであったのだな。」
と思った。先生方や生徒だけでは、毒茸かどうか選り分けはできないと思っていたが、少し安心した。
 午後四時近くになって、先生や生徒全員が戻ってきた。先生や生徒が採った茸は、それぞれ持ち帰ることになっていた。
 今日の午前中になって、集落の人が大きな箱を持って小学校の校長室に入り、暫くして帰って行った。その後、先生方を一人ずつ校長室に呼んだのだ。校長室から出てくる先生方は、新聞紙の包みを大事そうに持っていたのだ。最後に、私が呼ばれた。
「村の人が、茸を持ってきてくれた。西脇先生にもやりたいのだが。」
中村校長は、少し困惑した顔で言うのだ。私が、
「家に帰る訳でもないので、要りません。」
と言うと、済まなそうな表情を浮かべていた。
 午後になると先生方は、一斉に校舎から出て行った。茸狩りの日を変えなかった理由が分かった気がする。


十月十九日(火)

 そうそう、今日の女子体育の時間は、頭に来たよ。一年から三年までの合同授業だから、全員の前に立って生徒が礼をするのだ。俺が、できるだけ真面目な顔をして丁寧に頭を下げると、三年生の女子が笑うから、頭に来る。尤も、深くお辞儀をしたきらいはあるが。
 体育館建築中で、屋外と言っても、第一校舎のグランドは、資材が積まれていて飛び回るには不適当だから、第二校舎のグランドで、男子の隣でやったのだ。男子も笑っていたが、男子を教えている教師までが、腹を抱え、奇妙な声で笑っている。それも止んで、ラジオ体操を、私の掛け声でしたのだ。クラブで鍛えた俺の声はよく響いて、初めの内は良かったのだ。だが、前後の屈伸運動になって、急にクスクスと笑い声が聞こえる。俺は、女の子が苦手だから、見まいとして一生懸命に、模範を見せるつもりでやっていたのだ。一年生は、まだいいのだ。二年生や三年生の肉の付いた生徒は、体も良く動かないのだな。体操もしないで、私の体をボーとして見てる。そして笑っている。私が屈伸する度に、腹が出るのだ。そして、臍が見えるというのだ。そればかりじゃないらしい。女だと思って、いい気になって。別に、可笑しいことはあるまいな。私は、男だもん。そうだろう。
 例の通り、隣の男子体育の教師が、けったいな声を出して笑っている。この教師は、よっぽど奇妙な音を出すのが得意らしいのだ。それで私は頭に来て、三年生と二年生の級長を呼んで前に立たせてやらせたよ。雪江と、三年生の級長は波子と言っていたな。私がジロジロ見ているのを恥ずかしがって、手と足を振っているような体操をしたから、三回もさせたよ。それから、もう一度私が前に出てしたんだ。前よりはクスクス笑う声が少なくなったから、まあ我慢してグランドをいやという程走らせてやったよ。
 私も、少し疲れるくらい走らせたんだ。やっと私の気が収まったから、十分くらい休憩をしたんだ。そしたら、てんでバラバラになって、草原に行って遊んでいるのだ。遊びの時間だな、本当に。一年から三年までの級長を呼んで、何をやるかについて聞いた。バレーコートは男子が使っているし、このまま遊んでいたいと言うのだ。
 それでも、雪江は真面目な顔をして、ドッジボールがやりたいと言うから、そうすることにしたのだ。そして、線を引けと皆に言ったら、「ヤダー」と口々に言いうんだ。ただ、雪江だけが、小枝を持って線を引いていたのだが、まだるこしくていけない。一年生に言い付けて、グランドの外の丸太を持ってこさせ、私がそれを引き摺って、曲がりくねった線を描いてやったよ。私も仲間に入ってやっていたのだが、これじゃいけないと思った。体育がドッジボールのようなことで、晴天の下で終わるのは。そしたら、いきなり私の後ろ頭に「ドス」と球が当たったんだ。味方の者まで歓声を上げて、手を叩いて、その球を拾おうともしないんだ。
 いつの間に仲間入りしていたのか、男子の体育教師までが、また、あの甲高い奇妙な声を上げて笑っているんだ。様見やがれ、と言ったように、俺の方に指を差したり、腹を抱えて笑っている。外に出て、直ぐ球を回して貰って、その先生に向かって投げたのだ。そしたら「イヒヒヒ」、人間の声じゃないな。笑いながら取るのだ。頭に来る先生だったよ。仕方ないから、次に球が回ってきたら、動きの鈍い女生徒に当てようと思ったんだ。だから、三年生の、あの最前列で嬉しげな顔を見せていた女生徒が鈍いように思えたから、狙いを定めて力一杯投げたんだ。そくたら嬉しそうな顔して、胸に抱えるように受け止めるのだ。他の子に球を渡した後に、私に振り向いて優美な黒目がちな目を投げかけてきたのに驚き、私は空を仰いだよ。結局、そのまま外に出て、ゲームを終わりにしたよ。
 もう一時間体育があるものだから、休憩してから組み替えをやって、またやったよ。分校主任も仲間に入ってさ。他の先生も、授業がないもんだから、仲間入りで、これが授業かと思う程、遊びっぽい時間になってしまったから、分校主任に
「ドッジボールばかりやっていちゃー。」
と言ってやったのだが、
「駄目さ、変わったことをやっても、山の子はできやしないよ。この方が楽しくていいだろう。それに生徒も先生も纏まりがつくから、いいや。」
と言うのだ。自分達の遊びと間違えているんだ。でも、生徒とドッジボールをやることは、楽しいことだったな。先生方が、女子のドッジボールに集まったものだから、男子の手の空いている者達が、恨めしそうに女子の方を見ていたのに、何か奇妙な声を立てる体育教師に腹が立ったよ。精一杯運動をしたと言うよりは、大勢で遊んだことに、快い思いを浮かべたけれど、授業形態がないのには、不安と腹立たしさで、頭に来たよ。


十月二十一日(木)

 前の金曜日は、秋晴れの清々しい日だった。お前は仕事で忙しかっただろうが、分校では午前中から近くの山に登って、頂上を拠点として写生大会だった。十一月の初めに文化祭があるから、それに展示する絵を描くのが目的だった。
 私は、一番後ろから山に登っていったのだ。生徒たちは、弁当やら写生道具を持って、ガヤガヤと煩く喋りながら登っていく。山頂は、公園になっているらしく広々としていたのだ。山頂に着くと各学年の点呼を級長にやらせ、全員揃っているのを確かめて、分校主任が注意事項を言って、それぞれグループを作って写生を始めたのだ。
 分校主任は、山頂から余り離れたところに行くな、好きなグループで一緒のところで写生するように、一人で行動するなと注意をしたのだ。私は生徒が事故に遭わないように見回りをする役目だったので手ぶらで行ったのだ。
 グループの位置を確かめ、その人数を数えて回った。三回くらい回って歩くと、グループと人数、名前を把握することができた。そう遠くへ行っていないことが分かり、写生の邪魔にならない山頂近くの岩に腰掛けていたのだ。分校主任や学年担当教師は、それぞれグループに紛れ込んで絵を描いている。私は、絵を描かなくてもいいから、生徒をよく見張ってくれと言われていたのだ。手持ち無沙汰も甚だしかったよ。
 山頂からは、遠くの山並みに柏崎の米山が見え、山間から開けた平野と信濃川が見えた。左右の山は、ゆったりと下りV字をなしていた。山は紅葉が始まっており、美しく輝いている。私は目を閉じて、その風景を頭に叩き込んだ。目を開けては閉じ、何回も繰り返した。
 暫くして、また一巡した。生徒たちの動きはなく、絵を描いている。私が中学校の頃、信濃川で写生大会があったのを思いだした。何事もなく午前中は終わった。分校主任の大きな声で昼食となった。宿舎のおばさんが作ってくれた握り飯を持って、一年生の高男のいるグループのところに行ったのだ。
 そのグループの絵を見ると、少し乱雑な絵だった。
「一緒に昼飯にするか。」
そのグループの生徒は、おにぎりにかじり付きながら頷きを見せていた。昼食が終わると、
「先生、少し下へ行って、あけびを食べてこないか。いいだろう。」
と高男が言うのだ。高男は、登ってくる途中であけびが多くあるところを見たのだ。私も一緒に少し山を下った。高男のグループといっても三人だった。高男が指差した藪に入っていった。するとあけびが多く実っていた。
「先生、少しだけ開いているのがいい。持ち帰っては、あけびも駄目になる。ここで食べていく。」
高男は、そんな理屈を言って食べ始めた。私も四個口にした。甘くておいしいかったのだ。食べている間に、女生徒の声がするのに気付いた。二年生の雪江、早苗、喜子の三羽烏だった。
「高男、西脇先生をだしにして、自分たちだけで食べるなんて。」
三羽ガラスも食べごろの実を取って食べていた。
 午後からは、絵の具で色付けをしている生徒が多かった。私も高男から紙を一枚もらい、風景を鉛筆で描いた。


十月二十五日(月)

 昨夜は、宿直だったよ。先生方は、五時を過ぎると特別用事がないと、そそくさと校舎を出て行くのだ。ただ小学校の先生が残ってピアノを弾いていた。ベートベンの「悲愴」という曲だ。君も知っているだろう、第三楽章の最初の激しいメロディ、それを幾度となく繰り返し練習していたのだ。
 そうそう、用務員のおじさんも残っていた。炊事場の清掃をやって、宿直室に寝床を敷いてくれた。私の夕食のためにポットに湯を沸かし、湯たんぽに湯を入れて寝床に入れてくれた。私に挨拶をして帰っていった。
 私が一時間ほど本を読んでいた。ピアノの音も止み、ピアノを弾いていた先生、宮本先生という女性教師なのだが、教務室に入って自分の机の上を整理して帰って行った。帰り際に、私は聞いた。
「宮本先生は、どこかで下宿をしているのですか。」
そうしたら素直に答えてくれた。
「ええ、池谷集落の区長さんのところで世話になっているの。でも、土曜には家庭の都合で毎週帰っているわ。」
更に、冬には雪が深くて帰ることができないとも言っていた。
「来年の春には、二年満期を迎えるので、自宅近くの小学校に転勤の希望を出しているの。」
そう言って丁寧にお辞儀をして教務室から出て行った。
 教員住宅には、以前は女性教師も住んでいたという。何か問題が起きて、男性教員だけになったことは聞いていた。推察はつくが、知っても意味がないので詮索しないことにしている。
 早々と校舎を出て行った先生たち、炬燵に盤を乗せて卓を作り、四人で囲んで始める。煙草をふかして部屋中煙だらけにし、コップ酒を飲みながら、夜更けまで愚痴をこぼしながら、ジャラジャラ遊んでいるのだ。メンバーは大体決まっている。小学校校長、中学校の分校主任、赴任一年目の新保先生、二年目になる加藤先生である。
 二年を過ぎて、希望すれば異動で希望地に転勤となるようである。勉強している姿など、つい見たことがない。勉強しなくても教師はやっていけるのだろう。
 ただ、菊田先生という小学校六年生の男性教師は違っているように思うのだ。体格もしっかりしていて、いつも小学生に囲まれ、にこやかに話し合っている様子なのだ。どこに住んでいるのか分からないが、絵の好きな先生のようだ。卓球をしたり、ボール遊びをしたり、優しそうに見える。時たま、土曜日の午後や日曜になっても学校に姿を見せ、小学生がいると遊び相手になっている。長く、この地で先生をやっているとのことだ。教務室では、物静かに本に親しんでいる。そんな先生に他の先生方は声をかけようともしない。小学校の校長ですら余り声をかけようとしないのだ。真面目に見える先生なのだが、先生方には煙たがられている。変人扱いされているのだろう。何か、いわくのある人なのだろうか。でも生徒に慕われているのは確かであろう。それで良いのだと思い、余計な詮索はしないつもりだ。

 

 

 



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