「山よりの便り」 その四

                           佐 藤 悟 郎

 

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十月二十八日(木)

 最近の数日は、文化祭の準備で忙しかった。忙しいといっても、文化祭には先生方の作品も出すということで、写生大会でのデッサンに基づく絵だけでなく、少なくとも二枚の絵ということから忙しかったのだ。
 私は、誰も理解できないような絵を描こうと思った。その絵というのは、満月の夜、月の光でできた自分の影を片膝をつき、拳を振り上げて叩きつけようとする場面の絵なのだ。
「先生、その絵、何なの。」
二年の女生徒の雪江が言うのだ。
「私も分からないが、こうなってしまった。」
と私が答えた。すると雪江は、
「暗い絵ですね。先生らしくないわ。」
と言うのだ。半分描いて、その絵は諦めた。校舎の絵にすり替えようと思った。男子は工作、女子は編み物や袋物、手鞠などを作っていた。
 そうそう雪江という女生徒は、可愛い顔した均整のとれた女生徒なのだ。特に歯が白く、歯並びも良いのだ。聞くところによれば、東京の大手の歯磨き会社主催のコンクールで良い成績を収めたということだった。山の子としては珍しく、立ち居振る舞いに気を配るようになったということだ。東京に出ることに憧れているらしい。物になるかどうか分からないが、思い切り羽ばたくのがよいと思っている。


十月三十日(土)

 私の授業には、二年と三年の男子と接することがない。余り私が若くて、女生徒に接しているので、何となしに、二年と三年の男子と話し合うのは、気恥ずかしい気持ちだ。でも、おいおいと交わるようになるだろう。
 三年女子の家庭科は、大人びた静かさだ。本当は私よりも、人として大人かもしれないな。殊に労働は、一家の支えになるほどにもしなければならないのだろうし、それだけに、ませていても仕方のないことだと思うよ。でも、やはり授業は勉強だから、授業終わり近くなって言ってやった。
「君達は、家に帰れば、家族的に、もう大人だ。だから、苦しい仕事もしなければならないと思うのだ。町で育った私よりも、もっと、もっと大人なのだと思う。でも、学校に一歩、足を踏み入れたら、何もかも忘れて欲しい。家で働くほかに、君達には、学校生活という違った世界があるのだ。君達の家の、家庭状態は知らないけれど、父母に育て上げられ、家庭の労働でも育て上げられた心の他に、別に中学生なりの勉強をしているという世界があるのだ。日本中の人が汲み取る心というものを、勝ち取って欲しい。そのためには、学校にいる間だけでも、家のことは忘れてしまいなさい。勉強して、自分の心というものを、良く見つめてください。私も、家庭科の受け持ちにしか過ぎないけれど、そういう風にやっていくつもりです。誰でも、大人ぽくなる前に、子供ぽい時代を送らなければならないと思います。そして、君等は、まだまだ、子供の時代のはずです。」
そう言ったよ。分かったのか、分からなかったのか知らないけれど、静かに聞いてくれたから、嬉しかった。何か、今日の三年生は、憂鬱に思えた。
 でも一年生は違ったな。国語のテストをやると言ったら、張り切って指を鳴らしたり、鉛筆を構えたりしていたよ。テストは一応集めて、詩と作文を返してやった。珍しそうに、私の書いた講評を読みあって、少し騒がしくなったが、そのままにしておいた。今までが静か過ぎる。だから、もっと騒がしい時間にしてやろうと思った。そして、こう言ってやった。
「君達の詩や作文は、下手くそだね。」
そう言って、知らん顔して、俺はそっぽを向いたのだ。そしたら、そのうちに
「思い出なんて、ありゃしない。」
と言う声が聞こえたものだから、私は、自分の思うことについて話してやったよ。
「君達は、大方日記をつけていないだろう。思い出なんて、きっかけがなければ思い出せるものじゃない。豊子、この間、君の帰る途中、あの坂道で君にあっただろう。いや、豊子だけでじゃない。もっと多くの人と会ったはずだ。私は、恥ずかしかったことを覚えているよ。私は、その日のことを日記に書いてあるよ。だけど、君達は忘れようとしている。仕事についてだってそうだろう。父さんや母さん、兄や姉と一緒に行ったことがあるだろう。行ったけれど、何をやったか、どこへ行ったのか、それがはっきりしないのだろう。そうであったら、どうして日記をつけないんだ。思い出が、全然はっきりしないと言うことは、君達が、前にどういう心を持って行動したか、はっきりしないことだ。悪い心を持って行動したなら、これからしないようにするために、良い心だったら持ち続けるように、反省できる材料にもなるのだよ。自分の思い出を振り返って、今、自分が良い子なのだろうか、悪い子なのだろうか、判断できるようになるように、積み重ねていくのだよ。思い出を大切にすることは、とにかく大切なことだ。」
俺も、思い出ということについて、はっきりした観念がなかったから、少し軽率な宿題を出したのかも知れないと思うよ。
 君は、俺と同じ小学校だったから、知っているかな、有沢先生を。尤も、我々暴れん坊には縁の薄い、物静かな先生だったから、忘れたかもしれないな。その有沢先生が、小学校の教頭をやっている。俺も、初めは気付かなかったのだが、中学校一年の担任の新保先生に、放課後聞いてようやく思い出したのだ。話すことも余りないから、小学校時代のことは余り口に出さなかったが、ただ、俺とお前が、悪たれ小僧だったことだけは、覚えていたらしいよ。いつも、校長の前にいると、笑顔を見せてニヤニヤする。小学校の頃は、静かな偉い先生だと思っていたのだが、どうも同じ立場になって見つめると、嫌らしい感じがするよ。
 一年の書き取りの採点は、さっき終わった。満点が三人いたよ。男女の級長の豊子と年春、それに、君子という子だ。平均点は、五十点満点の三十点だから、まあまあと言うところだ。
 君子という子だが、第二校舎の側の第一校舎への上り坂の入口に家がある。俺の部屋からよく見える家なのだ。まるまる太った女の子、でっかいドングリ目玉をして、短いお下げの子だ。今週中には、平均点を四十点に上げてみせる。書き方もさせなくては。字が乱雑すぎる。これから風呂に入って、池谷集落でも散歩してこようと思う。でっかい月が出て、山の端が際立ち、薄すらと木立の並みや道が見えるからだ。
 追伸
 山明かりの届かぬ、谷底に静かさを見つめ、巡る池谷集落の道を歩いた。道に沿う、老いた杉が道に陰を落とし、見上げれば聳えるが如く空に姿を宿していた。静かな山の中の集落の家々に、赤い灯が点々と、散りぢりに広がっていた。見上げる山の上にも、谷の深いところにも、淡い光が見られた。道沿いの軒から、時折、人の声がサッと流れてくる。流れた後の静けさは、実に寂しいけれど、赤く暖かそうな灯を見ると、この集落の人々の家を訪れたい気持ちになる。私の足音は、ただカランコロンと響いているだけだった。生徒も誰も見えない集落の道だった。生徒のいない私は、本当に寂しい教師なんだ。若い教師、経験のない教師が、どうして集落の人の家を訪ねることができようか。集落の人々が許すまい。集落の外れまで歩いた。そして月の夜の中の秋草に誘われて、高台に登った。私は、体が冷えるまで集落を見下ろしていた。山の秋風は冷たく、薄の長い葉も白い房も、目の前で揺れていた。
 下に、灯の暖かそうに光るのを見て、堪らないほど苦しい感傷に襲われた。私が頑張ったところで、集落から生徒を取り上げられまい。生徒は、やはり集落に育て上げられてしまうのか。集落の家を一軒一軒訪ね回り、話し合いたい。親も生徒も兄妹も、全てを集めて、話し合いたい。


十月三十一日(日)

 今日は、陽射しが暖かい日曜日だ。文化祭に出すもう一枚の絵を描きに、第一校舎に出かけた。図板に画用紙を載せて、グランドの外れで校舎のデッサンを始めた。暫くすると、池谷に住む一年生の年春がやってきて、私の隣に腰を下ろして絵を描き始めたのだ。
「写生大会での絵はどうした。」
私は年春に尋ねた。
「余り出来が良くなかったから。」
と年春は答えた。山の紅葉を旨く書こうと思って、あの色この色と塗り重ねていったら、全体が黒ずんでしまい、絵にならなくなったと言うのだ。
 私は、校舎のデッサンしたが、周囲に適当な木々もなく、前は広々としたグランドがあるだけだった。私は右に向きを変えて、近くに見える山の林の風景を校舎の左右に書き込み、校舎の手前に草むらと木の幹を描き加えた。
「先生は、面白いことをするんですね。それでは写生にはならないでしよう。」
年春は、私のデッサンを覗き込んで、私の顔を見ながら言うのだ。
「年春、良いんだよ。殺風景なんだから、何かを加えても良いのだ。その方が絵らしくなるだろう。」
そう私が答えると、年春は
「そんなもんかな。それで良いのかな。」
そう言いながら、自分の絵に鉛筆を走らせた。
「文化祭では、地域の人が見ればおかしいと思うかもしれない。でも、知らない人が見た場合、どう思うかな。やはり絵は写真と違うと思うよ。」
私は、そんな屁理屈を言った。私は、構図や色使いだって、自由にすれば良いと思っている。
 私は、年春がデッサンが終わったので、二人で校舎の中に入った。宿直の新保先生に挨拶をして、年春と一緒に二階の図工室に行くと、そこには十人程の生徒がいて、絵の仕上げや工作に励んでいた。
 音楽室の方から、ピアノ伴奏で歌っているのが聞こえた。
「あれは早苗の声だぜ。一人で歌うんだ。一人で歌うのはもう一人、三年生の級長の波子だ。」
本立ての工作をしている高男が物知り顔で言った。皆、一生懸命に文化祭の作品の制作に励んでいる姿を見ると、生徒の真面目さを感じた。


十一月三日(水)文化の日

 今日は文化の日、祭日で当直だ。教務室にいるが、明後日が文化祭だろう。音楽の宮本先生は、生徒たちが多く来て忙しそうだった。昼になって宮本先生は教務室に戻ってきた。
「煩くしてご免なさいね。」
そう言って、自分の机の椅子に座り、弁当を食べていた。大変と言えば、宮本先生なのだ。文化祭では、小学生と中学生の音楽を受け持たなくてはならないのだ。中学生の音楽は、産休中の根津先生が担当なのだが、いないので宮本先生が一人で受け持っているのだ。
 文化祭では演劇はしないことから、少しは楽なのかもしれない。午前中は小・中学生の合唱、午後からは独唱、それに集まった人と共に歌う流行歌二〜三曲ということだ。全ての曲の伴奏を根津先生が行う。流行歌については、他の先生が歌詞をガリ版刷りして用意してある。時間があれば、宮本先生がピアノの演奏をするとのことである。本当に、大変だと思うよ。
 明日の午後からは、文化祭の各会場作りだ。詳しいことは分からないが、忙しいのは間違いないだろう。大方、分校主任が音頭をとって、采配を振るうのだろうと思う。


十一月六日(土)

 昨日の文化祭は、うまくいったよ。午前十時から始まって、午後三時半までだった。各集落から人が多く来てくれた。一階は、来訪者の休憩室と待合室とし、室内体育室に莚を敷いた。
 二階は作品の展示会場、小学校の部は二室、中学校の部も二室使った。昼になると生徒と親が一緒になって食事をしていた。集落の人が、学校の炊事場で作ったお汁粉を皆に配っていた。先生方には、取り寄せの弁当が届いた。
 展示は、小学生は習字と絵、中学生は絵と手芸、工作物である。そうそう中学一年生は、私が教えている習字の展示もあった。作品の出来栄えはともかく、生徒全員の作品が並べられ、入選などの表示もしなかった。親たちは、我が子の作品をしげしげと見つめている姿が印象的だった。
 私が一生懸命に働いた訳ではないが、とにかく疲れたので筆を置くことにする。


十一月十日(水)

 私が文化祭に出品した二枚の絵を、小学生の千代が欲しいと言ったからくれてやった。
 私が放課後廊下を歩いているときだった。
「西脇先生、頼みがある。」
と背後から呼び止められたのだ。振り返ってみると千代だった。千代に先生呼ばわりされるのは初めてだった。千代は少し緊張して頭を下げるのだ。
「千代、私に頼みがあるのか。何だ。」
私は、ぶっきらぼうに言った。千代は近寄ってきて、小さな声で
「文化祭で西脇先生が出した絵、くれないか。」
と、少しぎこちなく言うのだ。
「あんな絵が欲しいのか。どうするんだ。」
と私が言い返すと
「家で飾るんだ。絵が、とても上手だった。だから飾るんだ。」
千代は真面目な顔で、そう言った。私は千代を教務室に連れて行って、写生大会でデッサンして仕上げた絵を、机の下から取り出した。
「じゃ、これを上げよう。」
と言って手渡した。ところが千代は
「もう一枚あっただろう。それも欲しいんだ。いいだろう、芳夫、いや西脇先生。ちょうだい。」
と言うのだ。私は、言ってやった。
「校舎の絵は、本当の写生ではない。池谷の年春にも、校舎の風景とは違うと言われたんだ。」
そう言って断ったのだ。すると千代は
「校舎は間違いないし、木や草があった方がいいよ。あんな学校にしたいんだ。だから、ちょうだい。」
と言っている。私は、二枚も欲しいと言っていること、話し方がいつもの千代らしくないことから、少し疑念を抱いた。
「千代、二枚も要らないだろう。私の絵は、下手くそな絵なんだ。二枚も要る理由があるのか。どっちの絵がいいのか、言ってみろ。」
そう私が言うと、千代は俯いて考えているようだった。
「芳夫、正直に言うよ。私は校舎の絵が欲しい。それに…。」
少し言葉を詰まらせてから言った。
「近所の中学校三年生の則子に頼まれたんだ。先生の描いた、山の風景の絵が欲しいとな。だから、ちょうだい。」
私は、千代が絵を二枚欲しがる真意が分かると、もう一枚の絵を渡した。
「西脇先生ありがとう。則子姉ちゃん、きっと喜ぶわ。」
と言って、二枚の絵を一緒にして筒状に巻くと、ピョコンとお辞儀をして向きを変えて教務室から出ようとした。何か思いついたのか、私の前に戻ってきた。
「芳夫、断っておくけど、則子姉ちゃんに西脇先生と言え、と言われたんだ。則子姉ちゃんのこと、誰にも喋っちゃ駄目だぞ。約束だからな。」
私は、やっと千代らしくなったと安心したんだ。私は右手親指と人差し指で円をつくって見せ、
「千代、分かったよ。誰にも言わないから。約束したよ。」
と言ってやった。千代は笑顔を見せ、くるっと向きを変えると、スキップを踏みながら教務室から出て行った。
 机に向かって、日誌を書きながら、ふと思った。千代の言ったこと、全て嘘かも知れない。あちこちで噂となって流れるかも知れない。
「それでもいいじゃないか。悪いことをした訳でもない。」
そう呟いて、日記を書き続けたのだ。


十一月十九日(金)

 今週は数日間晴天に恵まれたことから、今日、午後から中学生全員で柴刈りに出かけた。これは集落から要望があったことからすることにしたものだ。中学生は、どこの家でも立派な働き手とみられており、集落の要望を無視できないことなのだ。君も知っているだろうが、柴刈りは焚き木で、冬場には欠かすことができないものなのだ。女性教師の関川先生を学校に残し、男性教師は私を含めて四人が引率をしていったんだ。分校主任は総括、一年生は担任の新保先生、二年生は私、三年生は担任の加藤先生だった。
 柴刈りの場所は、杉の木が比較的多い、私が始めて散歩した山の峰付近一帯だった。集落から大人の人も大勢出ていて、各学年ごとにそれぞれ分かれて柴刈りをやったのだ。生徒も大人も、それは真剣に作業をしていたよ。生徒たちの幾人かに背負子を配り、集められる柴は、その背負子に入れるのだ。背負子がいっぱいになると、それをリヤカーまで行って投げるように放り込む。それを集落の大人たちが、リヤカーに整えていく。リヤカーがいっぱいになるとどこかに運び出す。そして空になったリヤカーを曳いて戻ってくる。生徒たちは森の中を隈無く歩き回る。大人たちは、鉈で小枝を切り落としている。
 途中で休憩を取って、二時間ほどして終わったのだ。集落の人は満足そうな素振りだった。終わって山から戻る途中私は二年の喜子に声をかけられた。
「集められた柴は、闘牛場に集められているの。」
そう言って、喜子と二人で闘牛場に行ってみた。そこでは集落の人たちが集まっていて、柴を三つに分け高く積んでいたのが見えた。
「あれ、三つの集落に分けているの。そして集落の全部の家に届けるの。今年は良い柴がとれて良かったね。」
喜子は、そう言った。それから意外なことを口にしたのだ。
「先生の住所を知ったの。同じところに住んでいる片桐悟という人、知っていますか。」
と言うのだ。
「同じ名前の人は知っている。二年下の人だ。お父さんは小学校の校長先生をしている人だよ。」
そう私が答えると、喜子は笑顔を見せて言うのだ。
「悟君と私は従兄なの。お母さんが私の父の姉なの。」
私はこれを聞いて、世間は広いようで狭いと思った。私の素性を知られるのは仕方がないと思ったが、学校での噂が飛んでいくのは馬鹿にならないと思ったのだ。行動には余程気を付けなければならないと思った。
 夜には集落の人から酒が届けられた。漬物も添えてあったので、学校で先生方が宿直室に集まって、愉快に嗜んだ。


十一月二十日(土)

 土曜日の夕方になった。宿舎は私一人で、他の先生方は村から離れ、自宅へ帰ってしまった。宿舎の水屋に賄いのおばさんが来ていた。私は魔法瓶を持って、お湯をもらうため階段を下りていった。そんな時、玄関の戸が開くと焚き木を背負った若い娘が入ってきたのだ。手拭いを姉さんかぶりにしていて、ちらっと私を見て一礼するんだ。私も少し緊張して頭を下げたのだ。
「おや、お前が来たのか。」
賄いのお染おばさんが、少し驚いたように言った。
「父ちゃん、まだ家に戻らんけの。もう一束持ってくるから。」
娘は、そう言いながら焚き木を背から下ろして、お染おばさんの前に置いて、宿舎から出て行ったのだ。
 私は、階段から下りて水屋に行くと、
「先生、夕飯にしますか。お酒飲むんでしよう。」
そう言って、私の魔法瓶を受け取った。私は、台所の隣の畳敷きの部屋に入り、裸電球をつけて長四角の座卓の前に腰を下ろし胡座をかいた。この部屋は食堂を兼ねた六畳敷きの部屋で、部屋の隅に置いてある一升瓶の酒を、手を伸ばして取り出した。お染おばさんは、取り敢えず山羊の肉を炒めたものと漬物を出してくれた。茶碗に酒を注ぎ一口飲んだころ、娘が来たようだった。
 暫くして部屋の障子戸が開くと、お染おばさんと娘が入ってきた。お染おばさんは娘に向かって、
「ご苦労さん。ジュースでも飲んでいけ。先生に挨拶するんだぞ。」
と言った。そして娘は、私の正面に座った。頭から手拭いを取ると、笑顔でぴょこんとお辞儀をする。よく見れば、三年の幸子ではないか。娘と思っていたが、その実は少女だった。ただ年頃の娘と思えば、そうも思える女の子だった。


 

「山よりの便り」

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