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「サフランの花」 (その一)

 

                              佐 藤 悟 郎

 

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 彼は、学校の教員として勤めて間がなかったが、教員としての生活に嫌気が差していた。教員の中で過ごしていたが、教員としての自覚に無感覚の者が多い。そんな様を見ると、実に嫌な気分になるのだった。
 彼は、小学校の宿直室で寝泊りをしていた。夜の食事のことを考えながら、そっと教務室を出てグラウンドに出た。いつもは高学年の生徒が野球をしているのに、その日は誰もいなかった。鉄棒が長い影を引き摺り、ひっそりとしていた。
 彼は、サンダルに履き替えてグラウンドを歩き回っていた。広いグラウンドの中途まで行くと、新しい校舎の離れにある音楽室の電気が点いていて、ピアノの音が聞こえていた。
「さっきの娘さんかな。」
彼は、足音を立てないように、静かに音楽室の方へと歩いて行った。音楽室は、PTAの有力な人が寄贈した建物で、小学校の校舎と思えない程美しく立派な物だった。天井が高く、大きな窓に白いレースのカーテンが垂れていた。
 窓からレースを透して、音楽室の中が見える。六年生の女の子だろうか、三人がピアノの脇の椅子に腰掛けていた。彼は、物音がしないように、静かに音楽室に入った。それでも生徒が気付き、口に指を当て、静かにという合図をした。彼は、軽く頷いて微笑んだ。一番後ろの席に座り、演奏を聞いていた。教務室での穢れた思いが、嘘のように心から消えていった。
 ピアノを弾いているのは、彼と同じ位の年の若い女性だった。音を聞き分けているのか、目は多少虚ろ気で、時折大きな澄んだ瞳をはっきりと開き、ピアノを弾いていた。豊で長い黒髪を後ろに束ね、その白いドレスは清楚だった。

 若い女性のピアノが終わると、横に座っている生徒から拍手があった。微笑んで応え、その瞳は彼に向けられた。
「どちらの方ですの。」
ごく自然な問いかけだった。
「この春に、この学校に勤めるようになった、菊地です。よろしくお願いします。」
彼がそう答えると、生徒たちは口々に笑っていた。
「春に新しく来た先生なの。下駄履き先生と言うのよ。」
生徒の一人が若い女性に言った。彼は、それを聞いて苦笑した。人種の違う子供たちだと思った。若い女性は、子供たちの言い様を聞いて笑っていた。
「下駄履き先生、こちらへ、前においでにならないですか。」
彼は、小生意気な女だと思いながら、前の方に行き生徒の後ろの席に腰を下ろした。彼女は、生徒の一人にピアノを弾くように言いつけ、彼の隣に腰を下ろした。
「私は、学校の前の古澤の娘、百合子です。よろしくお願いします。」
彼女は、小声で彼に言った。
「毎日、こんな風に教えているんですか。」
彼は、彼女に尋ねた。
「いいえ、毎日ではありませんわ。週に一回、私の都合の良い時に来るのです。」
彼女は、軽やかに答えた。そして更に言葉を続けた。
「私も、この小学校を卒業しました。その頃もピアノを弾いていました。ピアノが好きで、学校へも通いました。今でもよく家で弾いているのです。学校やPTAの方々から、私に生徒達へ教えてくださいと頼まれ、こうして教えるようになったのです。」
少し高めで落ち着き払った、自信に溢れた彼女の言葉を、彼は小気味良く受け止めていた。
「貴方もピアノをお弾きになるの。」
彼は、軽く首を横に振った。
「ピアノは弾けません。でも聞くのが好きです。」
彼は、素直に答えた。
「じゃ、また後から、私で良かったら弾いて上げますわ。」
そう言って、彼女は席を立った。ピアノの横に行き、生徒達のピアノの指導に当たっていた。

 彼女は、生徒達を送り出すと、黙ってピアノの前に座ってピアノを弾き始めた。ベートヴェンやショパンの聞き慣れた曲だった。時折、彼女は彼に目を流し、微笑みながら弾き続けていた。彼は、彼女の瞳を覗き、黙って聞いていた。
 彼女は小曲を数編弾き終わると、ピアノの蓋を静かに閉め立ち上がった。
「どうも有り難うございました。こうして聞いていると心が休まりますし、とても楽しく思いました。」
彼は、娘に礼を述べた。
「いいえ、私で良かったら、今度また来てみてください。きっとまたお聞かせできると思います。」
二人は、音楽室を出た。彼は、サンダルをぶら下げて新校舎の廊下を彼女と並んで歩いた。暗くなった体育館を横切り、教務室へ二人は入った。

 教務室には校長と教頭が、時間も遅いのにまだ残っていた。彼は、その部屋の雰囲気に馴染めなかった。自分の机の上の整理をするため席に着いた。
 彼女は、校長と何か話をしている。そして時々二人は、彼を見つめていた。彼は、自分のことが話題になっていると思った。ふと彼は、校長と教頭がやたらに彼女に向かって頭を下げているのに気付いた。彼女は帰り際に、彼の側に寄って
「また、今度も音楽室に来てください。」
そう言って、軽く会釈をした。彼も立ち上がり
「楽しみにしています。お休みなさい。」
そう返事をした。
「お休みなさい。」
彼女の澄んだ声が聞こえた。
 彼女が教務室から出て行くと、校長が彼の側へやって来た。
「君も中々やり手だな。古澤家の娘さんが、感じの良い人だと君のことを言っていたぞ。良いことだ、私も君にあやかりたいよ。」
校長は、少し卑しい笑顔見せながら言った。彼は、一瞬思った。ピアノを弾きながら投げかけていた、あの美しい瞳には棘があると。毒に塗られた棘だろうか、でもそんな思いも直ぐ掻き消えてしまった。

 

 

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