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「サフランの花」 (その六)

 

                              佐 藤 悟 郎

 

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 やがて、冬が訪れ、小学校は冬休みとなった。年末には、彼も養父母の元に帰る予定だった。小学校の宿直室は寒かった。三度の食事を規則正しくして過ごし、部屋には炬燵と火鉢を置いて暖かくしていた。日中は、主に読書をしていた。年の瀬も迫る頃、彼は風邪をひいてしまい寝込んでしまった。
 頭が朦朧として熱が出てきた。一晩眠れば治ると思い眠った。翌朝、布団一面に汗で汚してしまった。朝なのに明るくならず、風がヒューヒューと鳴っていた。
「きっと、この風の後には多くの雪が降るだろう。」
彼は、そう思いながら眠り、昼過ぎに目を覚ました。彼は、全身の力が抜けているのに気付いた。床から這い出し、火鉢に火を熾した。下着を取り替えて、汗で濡れた下着を水洗いした。廊下の洗面所は、冷たい風が吹き抜け、まるで外と同じだった。窓の隙間からは細かい雪が入り、廊下に白い筋を作っていた。中庭を見ると、一面白くなっており、池だけが寒々とした姿を見せていた。
 彼は、宿直室に戻り、水洗いをした下着を干し、その下に新聞紙を敷いた。寝巻きをまとって、火鉢に両手を当て、お湯が沸くのをじっと待っていた。お湯が沸くと、砂糖湯を作り飲んだ。飲み終えると、余っているご飯を粥にして食べた。そして生乾きの布団に入り、横になった。そんな日が続き、彼の体は衰えていった。大晦日が過ぎたことは、うすうす感じていた。元日の朝、目を覚ましたが、もう腹に入れるものは何もなかった。部屋には火の気もなく、ただ風の鳴る音と隙間風が顔に当たるのを感じた。
「今の時代で、何故こんなことが起こるんだろうか。」
そう彼は思ったが、事実から逃れる方法を見つけることができなかった。

 正月の元日の昼近くになって、ようやく天候も落ち着き穏やかになった。古澤の娘は、部屋で寛いでいた。近くの人が年始に来た際、学校の様子を手短に話していた。
「学校の用務員から聞いたんだが、学校に寝泊りしている先生、菊地先生と思うが、様子がおかしい。どうも病気らしい。」
古澤の旦那は、それらしい話を娘にすると、娘は一瞬戸惑いを見せた。彼は、養父母のところで年を越す予定で、学校にいることを信ずることができなかった。とにかく女中を連れて、家を出て小学校に向かった。
 冷たい風が吹き抜ける小学校の校舎に入り、渡り廊下を急ぎ、宿直室に入った。そこには若い医師が看護婦を伴い、寝床の脇で屈み込んで彼の様子をみていた。若い医師は着いたばかりのようだった。
「早く火を熾せ。部屋を暖めろ。それにお湯を用意しなさい。」
若い医師は、周囲の人に当り散らすように言った。そして彼の頬を叩いた。
「しっかりしろ。どうしたんだ。目を覚ませ。」
若い医師は、幾度ともなく言ったが、彼は反応を示さなかった。

 古澤の娘は、彼の顔を見て一瞬死んでいると思った。恐怖のため、全身の力が抜けて茫然とした。娘は、泣きながら彼の枕元に座り、彼の肩を掴んで揺すった。
「先生、先生、しっかりして。目を覚まして。」
彼は、無表情のまま、身動きすらしなかった。娘は、彼の顔を真上から見詰めた。そして訳もなく涙が溢れ、その涙は彼の顔に落ちていった。朧に写る彼の目が開くのを、幻だと思った。涙がポツポツと落ちていった。しばらく彼の目は開いて閉じた。そして彼の呼吸は大きく波打った。
「よし、その調子だ。大丈夫だよ。しっかりしろ。」
と若い医師は言った。娘はその声で我に帰り、波打つ呼吸を確かめ微笑んだ。
 部屋も暖まり、彼の体温も上がってきた。古澤の娘は、彼の手を握りその温もりを感じた。夕方近くになって、若い医師は
「もう大丈夫です。後はよろしくお願いします。」
と言って、帰って行った。

 重湯を彼の夕食にし、娘が匙で彼の口に運んでいた。娘はその夜、女中と共に小学校の宿直室で過ごした。
 翌日の午前中に、彼の養母が駆けつけた。養母は、彼から話を聞くと、丁寧に古澤の娘に礼を述べた。二日間、彼は養母の世話を受け、ある程度元気を取り戻してから、養父母の元へと帰った。その二日の間、娘は食べ物などを持って訪れていた。養母は優しく娘に話しかけた。
「この土地には、とても美しいサフランの花が咲いていると言うんですよ。それだけの理由でこの土地に来たの。若いって素晴らしいですね。」
娘は、養母の言葉を深く心に刻んでいた。彼がこの土地に来たのは、古澤の家に咲くサフランの花に誘われてのことだったと思った。

 彼は、暫く休暇を取って、学校を休んでいた。二月に入って小学校に戻り、程なくして辞職願を提出した。校長は、慰留もせず辞職願を受け取った。
「君には、君にとって重要な道があるはずだ。この学校の教師になった経緯を調べさせてもらった。辞めていくのが、ごく当然だと思う。」
校長は、彼の瞳を覗きながらそう言った。
 彼は、少ない荷物をまとめ、運送会社に電話をして荷物を手渡した。教務室で先生方に短く挨拶をして、居合わせた先生方の見送りを受けて学校を出た。
「下駄履き先生か。」
高下駄の音をさせながら、一人で微笑を浮かべた。古澤の屋敷の長い塀の前を通った。
「世話になったが、未練がましい。あの美しいサフランの花は、他人の物だった。幸せを祈るだけだ。」
そう思いながら、古澤の屋敷の前を通り過ぎた。通り過ぎると彼は、一段と心が軽くなっていくのを感じた。

 彼が小学校を立ち去って、間もなく古澤の娘は、ピアノを生徒に教えるために小学校を訪れた。宿直室を尋ね、物がなくなっているのを不審に思った。直ぐ、向きを変えて校長室へと向かった。校長室に入ると、娘は少し取り乱して
「菊地先生に何かあったのですか。どこにおりますの。」
と、問いかけた。校長は辞職願を娘に見せた。
「君も知っているでしょう。他にやることのある人だ。」
娘は、辞職願を手に取って見詰めた。少し考え、急に校長室から飛び出した。
「私を諦めようとしている。私の心も聞かずに。別れようとしている。」
古澤の娘は、駅に向かって急いだ。彼の養母の言っていた美しいサフランの花とは、自分のことを言っているのだと確信したからだった。
「私は、貴方を愛します。ずっと以前から愛していました。」
娘は、そう小さく呟くと、家のこと長谷川家のことなどすべてが小さくなっていくのを感じた。そしてあのサフランの畑で、サフランの花を持って歩いてくる彼の姿が、大きく浮かんでくるのだった。

 

 

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