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「サフランの花」 (その二)

 

                              佐 藤 悟 郎

 

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 彼は、彼女が音楽室に訪れるたび、音楽を聴きに行った。そして、夏のある暑い日の日曜日、昼過ぎになって彼女の家を訪れた。古澤の家は、広くそれでいて戸が開け放たれていた。青い畳に風が通り、閑静な部屋は涼しかった。
 彼は、若い女中に中庭が望める部屋に案内された。女中は、簾の机帳で隣の部屋と仕切り、部屋から出て行った。黒い漆塗りの丸い机が置いてある。そこには座布団が四つ敷いてあった。女中に言われたとおり、床の間と向かい合うところに彼は座った。彼は、床の間の掛け軸を見つめた。そして中庭を見つめ、誰かが来るのを待った。
 十分程して、中庭側の廊下から彼女の父が姿を見せた。以前PTA会長をしていたという、学校によく顔を見せる六十歳位の男だった。
「やあ、待たせて済みませんでした。何か御用でもありましたか。」
彼は、その無愛想な一言で、直ぐ帰ろうと思った。
「いや、用件などありませんが、古澤さんが一度は来てはと言いますので、遊びがてらに来た訳です。それに、立派なお屋敷で、この中庭なぞ趣があります。」
彼がそう言うと、聞く風もなく
「それはそれは、少し急ぎの仕事がありますので、もう暫くの時間を頂きます。その間、私の自慢の中庭でも、部屋の中の物でも結構です。見ていてください。」
そう言うと、彼女の父はそそくさと部屋から出て行った。
 彼は思った。
…どうして来たんだろう。人の言葉、軽い言葉に載せられたのだろうか。軽んぜられることは当たり前なのかもしれないが、嫌なことだ。…
そう思うと、彼はこの家から出て行こうと思った。門前払いを喰ったようで癪に障り、言われるがまま過ごしてみようと腹を決めた。

 彼は、中庭を歩いた。静かな屋敷の、造られた自然である。巨大な岩が、数知れないほど置いてある。一つひとつ見上げた。その岩には、小さな松の木が植えてある。築山を巡り、小半時もゆっくり歩いた。東屋に腰を下ろすと、先ほど彼が座っていた部屋が見えた。その部屋には、誰の姿もなく、静まり返っていた。暫く東屋で休み、彼は部屋に戻った。
 彼は座布団に座り、再び掛け軸を見つめた。女中が来て、お茶を出した。
「ご主人は、今日は忙しいのでは。」
彼は、女中に尋ねた。女中は、お茶を出し終わると
「旦那様は、いつもお忙しいですよ。」
ぶっきらぼうに答えた。
「日曜日でも、そうなんですか。」
「そうです。夕方遅くならないと、お仕事が終わらないのです。」
そう言い終わると、女中は席を立とうとした。
「あのう、ちょっと座りませんか。」
彼は、女中にそう問いかけた。女中は振り返った。
「貴方も忙しくて、ここにおられませんか。」
女中は、素早く座り直して、彼と向かい合った。
「昼間は誰もいませんもの。忙しいことなんかないですわ。」
彼は、暇潰しにその女中と話をしようと思い、話を始めた。

 彼は話をしているうちに、女中と言っても、もう直ぐ結婚する女性だと分かった。行儀見習として、古澤の家で寝泊りをしていたが、余り居たくはないと思っていると言っていた。
「学校の先生でこの家に来られるのは、校長先生を除けば、貴方が初めてです。」
女中は、更に続けた。
「校長先生は、いつもペコペコしていて、何か用件がある時以外は来られません。他の先生が来られても、大抵は私の一存で門前払いをしますの。」
彼はその言葉を聞いて、
「どうしてですか。」
と、興味有り気に尋ねた。
「貴方もお感じのとおり、旦那様は、先生のお相手をしている暇なんかありませんの。来て頂いても、皆さんが気分を悪くするだけと思いまして、帰って頂いていたのです。」
女中は、そう答えて、少し考えてから言った。
「それに、ここの娘さんたら、若い男の人と気安くお話なさいます。旦那様は、すごくそれを気になさっております。」
彼は、それも尤もだという風に聞いていた。
「じゃ、夕方まで君と話をしていようじゃないか。」
彼がそう言うと、女中は嬉しそうに笑っていた。少し席を外すと、お茶菓子をふんだんに持ってやって来た。

 彼は、女中の様子を見て、落語や洒落で笑わせてやろうと思った。彼の考えは当たった。女中は腹を抱えて笑っていた。その笑い顔を見て、彼も笑い出す始末だった。その笑い声も、天真爛漫の声だった。
「何か、面白い話か。」
突然、古澤の旦那が現れた。女中は、笑いを抑えながら
「だって、先生ったら、私の前で一人漫才だって、やり始めるんですもの。」
古澤の旦那は、襦袢を着込み、落ち着いた姿で彼の前に腰を下ろした。
「いや、どうもお待たせしまして済みませんでした。私のことを、悪く思わないでください。」
ようやく夕方らしくなり、蝉の声も落ち着いた鳴き声となっていた。
「いえ、お忙しいようでしたら、どうぞお仕事をお続けになってください。私も、もう夕飯を作らんと。」
彼は、暇乞いをしようとした。
「おお、先生は自炊でしたね。今日位は、私の家で夕食を上がっていってください。」
女中は、彼の顔を覗くように見て、笑顔を見せて頷きを見せていた。
「どうぞ、ごゆっくりしていってください。」
綺麗にお辞儀をして、女中は部屋を出て行った。出際に、古澤の旦那は、女中に一言二言耳打ちをした。女中は大きく頷いて出ていった。

 彼は、古澤の旦那に庭や掛軸を褒め、気の付いたことを述べていた。古澤の旦那も、自慢げに色々と説明をしていた。暫くして、酒と小料理が運ばれてきた。女中が小奇麗に酌をした。古澤の旦那は、酒について話した。
「この酒はね、ほれ、学校の裏の方にある酒造会社があるでしょう。そこの酒でしてね、その会社の社長が私の友人で、持ってきてくれるんですよ。もちろん最上級のものです。口に蕩けるような酒ですよ。」
彼は、確かめるように酒を少し口にした。それは少し粘りのある、甘口の酒だった。度の強さが分からないほど、飲み口の良い酒だった。

 少しからだか熱くなり始めた頃から、彼と古澤の旦那との間で、学校の話となった。話は古澤の旦那から始まった。
「君は思わないかね。学校そのものはともかく、教務室の空気が汚れていると。」
彼は頷きながら
「私は、汚れているとは思いませんが、学校の空気は、私にとって美味しい味がしません。」
それから二人で、校長から平教員にいたるまでの悪口が始まった。
「君も先生なのに、こんなことを言っちゃ悪いのだが。」
古澤の旦那は、そう前置きをして言った。
「先生たる由縁は、その熱意と啓発にある。今の先生たるや、サラリーマン、いや、もっと悪く言うなれば、害を及ぼす倒産会社の人達である。」
そして、更に
「私は、先生というものを余り高く買ってはいない。もともと知識とは、己自身のものだ。知識を得ることをしていないならば、先生と言われても、所詮誇りを持てない屑だ。私は、今の学校の先生を、そういう屑だと思っている。」
彼は、古澤の旦那の言葉を頷いて聞いていた。彼は、反発する立場だった。
「ご主人、屑と言っても、時には正しいことを言うんです。その正しいことを聞いた人は、正しいと信ずるべきです。言っている人が気に食わないということで、正しいことまで誤っていると感ずるのは、大きな誤りです。小学校の先生は、知らない段階の子供を相手にしている。身をもって正しさを教えなければならないと思います。それはそれは、立派なお人でなければできない話です。」
彼がそう言うと、古澤の旦那は頷いた。
「そうなんだ。結局、人に物を教えようとしたら、言葉と行いが裏腹にならないようにしなければならないのだ。」
そんな風に、二人は先生の悪口を叩いていたが、気まずくなりその話を止めることにした。

 そんな時、古澤の娘が部屋に入ってきた。
「とても楽しそうですね。」
そう言って娘は、テーブルの前に座り、銚子を持ち上げた。
「お父様、顔が少し赤いみたい。久し振りに飲んで、ぶっ倒れるんじゃないかしら。」
娘が、軽く言った言葉に、旦那は剥きになって答えた。
「何を言う。これでも若い時には、一升飲んでもしゃんとして、いつも寝るときは一升瓶2本を枕にしたもんだ。」
そう言うと、娘の前に注げと言わんばかりに杯を出した。
 娘は父に注ぎ終わると、彼に銚子を伸ばした。酔った勢いもあってか、彼はじっと娘を見つめていた。肩が少しあらわになっていて、首に金のネックレスが光っていた。そして美しい女性だと思った。 

 

 

 

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