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「サフランの花」 (その四) 佐 藤 悟 郎 ( その一 その二 その三 その四 その五 その六 ) 古澤の娘は、その後彼の言ったことを考えるようになった。部屋に入り、ピアノの蓋を開けると、ピアノの黒い蓋に彼の姿が浮かぶのだった。 「彼の名前、菊池、何だったっけ。確か、修さんだった。」 その名前を口にし、懐かしい思いを抱いた。まだ、幼い頃だった。古澤の屋敷の裏にあるサフランの花畑で、たった一人でじっと見つめていた男の子がいた。娘が近寄ると、その一つの花を摘んでくれたのを思い出した。確か、修という名の子だった。知らないうちに娘の前から姿を消していった。 「でも違うわ。彼の苗字は加納と言っていたもの。」 そう思いながら、ショパンの別れの曲を弾き出した。そして、自分の人生が終局にあるのではなく、これから羽ばたく時にあるのだと思った。洋々として広がる自分の行く先を見つめようとしていた。 夏休みが終わって、古澤の娘は小学校の音楽の指導に出かけた。彼の姿は音楽室に現れず、指導が終わって音楽室から出ると、グラウンドで生徒たちと野球をしている彼の姿が見えた。そして、娘に向かって手を振っているのを見て、古澤の娘も小さく手を振って応えた。彼を見つめているだけで楽しみを感じていた。
それから幾日も経たないある夜、小学校の宿直室で寝泊りをしている彼のところに古澤の旦那が訪れた。古澤の旦那は、突然に 「たとえ、君が何者であろうとも、私は、君を、娘の相手と考えたこともない。考えたくもない。」 と言った。そう言うと、何か落ち着かないように、辺りを見渡した。彼は、突然の言い方に、笑い出しそうになるのを堪えていた。 「何もそんなことを言いに、この夜更けに、私のところにおいでになったのですか。」 そう言いながら、古澤の旦那にお茶を勧めた。 「でも、最近、娘は、君に異常なほど興味を持っている。娘は、面白い人、素晴らしい人と口走るようになった。そんな言葉を聞いていると、私は堪えられんのだ。あの娘は、私のたった一人の子供だ。後継ぎなんだ。娘の幸せを願うのは、親の努めであるかも知れんが、でも先生に娘が取られると思うと、気が安まらんのだ。先生を前にして、こんなことを言うのは、本当に嫌なんだ。」 彼は、笑いながら古澤の旦那の話を聞いていた。話の筋が見えたので、彼は旦那の気が休まるように話した。 「私が古澤さんの娘さんと懇意になっている。そう見えるかもしれませんが、一緒になりたいと思ったことはありません。そりゃ、娘さんは、利口で気品も十分にある、美しい娘さんです。正直言って、以前は恋心も抱きました。でも、あなたの娘さんはいけない。長谷川のお坊ちゃまと言う、良い人がおります。」 彼の言葉を聞くと、古澤の旦那は顔を上げた。 「どうして長谷川のことを知っているんです。」 彼は、頷きながら笑顔で答えた。 「貴方の娘さんに紹介を受けましたよ。私の許婚と言うことでね。弁護士をされており、中々の好青年じゃありませんか。長谷川さんのことは、旦那様も認めていらっしゃるのでしょう。」 彼の言葉に、古澤の旦那は安堵した様子だった。 「そうですか。娘がそう言っておりましたか。私には一言も言ってくれないんだ。否応もないですよ。長谷川家の子供と一緒になってくれれば、願ってもないことです。目出度いことだ。実に目出度い、先生も喜んでください。」 古澤の旦那は、お茶を一口で飲み干すと、そそくさと彼の部屋を立ち去った。出て行く際に言い残していった言葉があった。 「つい最近、娘が酔って、君が好きだと言っていたものだから心配したんだ。」 彼は、その古澤の旦那の言葉が奇妙に心に響いた。今までの楽しかった思い出が終わろうとしていることを感じた。 彼は、手を伸ばせば届くかもしれないとも思った。しかし彼が手を伸ばすことはできないと思った。彼が見つけた花かもしれないが、それは彼の物ではなかったからである。更に、娘の父に言ったことは守らなければならないと思った。古澤の娘と会うことは、避けなければならないと思った。
秋も中ごろとなった。彼は、努めて古澤の娘を避けていた。小学校の秋の学芸会があった。昼過ぎから、体育館で催し物があった。ステージの前には、体育館が一杯になるほど人が集まり、各学年別の演劇や音楽が催された。毎年、古澤の娘は特別出演としてピアノ演奏をしていた。その日も、ベートヴェンの悲愴を演奏した。彼は、体育館の片隅で聞いていた。 古澤の娘は、自分の演奏が終わっても、ステージの前に残った。彼が、先生方の代表として、隠し芸をするということで残っていたのだった。彼の出番になると、場内からざわめきと共に大きな拍手が起こった。 「私は、何の取り柄もありません。先生代表として、何かをしたいと思います。さて、私の取り出したるもの、小さなバイオリンです。」 彼は、そう言うと一弾きした。 「このような音が出るものです。」 そう説明をした後、録音機を手に持ち上げて 「伴奏は、この録音機に録音してありますので、これを使います。」 と言い、録音機を下に置き、スイッチを入れるとバイオリンを弾き始めた。その演奏の姿勢といい、弾き方といい、とても素晴らしいものだった。バイオリンの音色には、曇ったところは何一つなかった。伴奏としっかりと合っており、みなが知っている曲ばかりだった。バイオリン演奏が終わると、彼は大きな声で言った。 「どうですか。私のバイオリン演奏は、見事だと思いませんか。この録音テープに吹き込まれたとおりです。もっとも、このテープの真似をするのも大変でした。」 会場から、どっと笑い声が起こった。古澤の娘も大方そんなことだろうと思った。 「では、もう二曲聞いてください。私の見様見真似をどうかご覧頂きたいと思います。よければ、拍手をお願いします。フルート演奏です。」 古澤の娘は、彼の茶番劇を下らないものだと思った。フルートが始まる頃、娘は席を立って体育館の奥の方へ歩いて行った。ステージに背を向けて歩きながら、古澤の娘は耳を疑った。背後から聞こえてくる音は、紛れもなく繊細で厚みのあるフルートの生の演奏音だった。それも素晴らしい演奏であることが分かり、振り返って立ちすくんでしまった。 彼は、アルルの女組曲のメヌエットを演奏していた。古澤の娘は、夢見る青年が、遠くを見つめながら吹いている姿は美しいと思った。続いて、ショパンの別れの曲を演奏していた。優美の中に、悲しみが溢れていた。演奏が終わると、彼は録音テープを高々と持ち上げ、ステージから退場すると、一段と大きな拍手が起こった。
古澤の娘は、彼が退場する姿を見て、ステージ裏の方に向かった。ステージ裏では、次の六年生の演劇の準備が急いで行われていた。その指導に駆けずり回っている彼の姿を、古澤の娘は陰で見つめていた。準備が終わると、彼は録音機を持って、用具室の方へ行った。 「菊地先生、そのテープレコーダーを私に貸してください。」 彼は、少し躊躇した。 「このテープは、何の値打ちもないものです。消そうと思っていたところです。」 彼は、そう言って録音機を古澤の娘に渡した。古澤の娘は、その録音機を手にして、電源を入れ巻き戻して、再生をした。幾度も巻き戻しては再生を繰り返した。そこには、バイオリンの音もなければ、フルートの音もなかった。 「貴方は、バイオリンもフルートも、とてもお上手なんですね。」 娘は、彼の前に立って見つめ、そう彼に言った。 「上手と言うほどではないですが、趣味で少しやっていました。」 娘は首を横に振りながら言った。 「趣味であれ程素晴らしい演奏はできません。私だって、少しは音楽を知っています。それに、私の家で横笛を吹いておられました。」 娘は、得体の知れない人間と向かい合っている気がした。それは、自分にとって尊い存在のように思った。 ( その一 その二 その三 その四 その五 その六 )
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