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「サフランの花」 (その五)

 

                              佐 藤 悟 郎

 

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 学芸会の日から、古澤の娘は考え込むようになった。彼の奏でる音楽の響きが耳から離れることがなかった。長谷川の次男坊の誘いも、気が進まなくなり断った。一人で部屋に入り、ピアノの練習を続けていた。
「私のピアノは、お嬢様のピアノ。少しも上手くないんだわ。」
そう思うと、何度か手を休め、俯いた。
「でも練習をしなくては、追い付いていけない。」
古澤の娘は、そう思うと激しく練習を始めました。時には、荒々しく音を立てた。朝早くから、夜遅くまでピアノと向かい合っていた。
 そんな日が続いたことから、父や母も異常さに気付いた。小学校のピアノ指導にも行かず、ひたすら家でピアノを弾き続けている娘だった。
「どうしたんだ。気違いのようにピアノを弾いて。」
十一月に入ったある日の夕方、娘の父は尋ねた。娘は、それまでと違って戸惑いと、厳しい眼差しで答えた。
「私のピアノって、少しも上手くはないことに気付いたのです。もっと練習をして、何かを掴まなければならないんです。」
今にも泣きそうな真剣な眼差しを、父は見逃した。
「そんなにのめり込まなくたっていいんだよ。嗜みとして身に付けておけばいいんだ。お前には、この家を継いでもらわなくてはならないんだ。無理をすることは、少しもないんだよ。」
父がそう言うと、娘は父を見つめ、涙を流した。
「お父様、そんなことを言わないで。私は、お嬢様である前に、憧れや希望をもった人間になりたいの。」
娘は、そう言うとピアノの前から立ち上がり、駆けて部屋から飛び出した。父は理解もできず、ただ呆然と見送った。

 古澤の娘は、泣きながら玄関を出た。広い庭を通り、背戸を開けた。屋敷の裏には、広いサフランの畑があった。悲しいことがあると、娘はいつもその畑に出た。幼い頃からの癖だった。そして、そこには慰めてくれる人がいたのだった。一度だけだったが、その思い出が娘をサフランの畑に誘うのだった。
 夕陽が傾き始めていた。ひっそりとした畑にサフランが咲き誇っていた。娘は、目に指を当てて、涙を拭きながら畑を歩いた。歩いていると、広い畑の中ほどに一人の若い男性が、しゃがみ込んでいるのに気が付いた。スーと、彼女の目から涙が引いていった。服装から雇い人でないことは分かった。それにも増して、幼い頃の光景に似ていた。娘は近寄って行って、それが彼だと分かった。
「加納さん。加納さんでしょう。」
娘は、彼に向かってそう問いかけた。彼は、娘の方に目を投げた。娘は近付いてくる。娘は、更に問いかける。
「貴方は、加納さんなんでしょう。」
彼は、一瞬目を反らして花を見つめると、花を摘んだ。摘んだ花を胸の前にして、立ち上がり娘の方へと近付いて行った。娘は立ち止まった。花を持って彼が近付いてくるのを見つめた。彼は、その花束を娘の胸の前に差し出した。娘は、両手で彼の手を包んだ。そして目を閉じてサフランの花の香りを感じていた。
「やっぱり、あの時の修さんだ。嬉しいわ。」
閉じた娘の瞼から、熱い涙が流れていた。そして二人の影は、永遠の絵のように美しく地上に立っていた。

 古澤の娘は、彼と並んで夕暮れの畑中の道を歩いた。西の方角に、太陽は赤々と傾き始めていた。川の堤に向かって歩き、川の堤に上がると淀みが見えた。堤の桜の葉は、黄色く色付いていた。
「あの頃も、どうしてなのか二人で黙って歩いていたね。」
彼は、娘に問いかけた。娘は、彼の顔を覗くように言った。
「あの時は、何か母に叱られて、居場所がなくなった。そんな気がするの。」
彼は、娘を見返し、頷いた。
「何か、悲しそうだった。花を上げたら、急に明るくなった。あの頃が本当に懐かしい。流れるままの転々とした人生だった。それだけに思い出があり、少しこの学校の先生をしてみようかと思い、先生になった。」
彼は、この地の小学校を去ってからのことを少し娘に話した。
「父の仕事で、この土地も幾らもいなかった。転校して間もなく、父が死んでしまい、母の手で育てられた。その母も、死んでしまった。」
彼は、努めて感情を抑えて話していた。
「私は、母方の親戚の家に引き取られ、菊地の姓を名乗るようになり、菊地の家が芸術家であったことから、芸術大学へ進んだのです。そして、ある大学の講師をしておりました。」
そして彼は、俯いて黙って歩き続けた。娘は、また彼の顔を覗いた。
「それからどうなさったの。どうしてこの学校に来たの。」
彼は顔を上げて、娘を見つめ微笑んだ。
「私には、暖かい思い出というものがないと気が付いたんです。その時、何故かサフランの花が思い出として、強く目に浮かんだのです。少しの間でもよい、サフランのあるこの地で過ごしてみよう。そして先生となって来たのです。」
太陽は、地平線遥か彼方に沈みかけていた。
 娘は、それ以上尋ねる訳にはいかなかった。この辺の土地で、サフランを栽培しているのは、古澤の家だけだった。広いサフランの畑は、古澤の家で造る飲み物のために古くからあったのだった。彼が、サフランを求めてこの土地に来たことを、理解しなければならないと思った。人目を憚ることなく、二人は並んで川の堤から通りに入った。そして、小学校の門の前で別れた。

 古澤の娘は、また小学校の生徒へのピアノの指導を始めた。彼も、時々音楽室を訪れた。娘の演奏を聞き、感想を素直に述べていた。娘は、彼の感想を大切にして、家でその感想を参考としてピアノの練習に励んだ。

 

 

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