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「サフランの花」 (その三)

 

                             佐 藤 悟 郎

 

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 夏の夕方の涼風は気持ちがよい。そんな思いで彼は、古澤の家に向かっていた。夏祭りの花火大会があるということで、招きを受けたのだった。古澤の家を訪れると、大勢の雇い人で込み合っていた。彼は、その雇い人と一緒に信濃川に向かった。古澤の家族と一緒だと思っていたのが、当てが外れ少しがっかりしていた。川舟に乗り、大きな川舟にいる古澤家とあの酒造会社の長谷川家の家族を見上げながら、雇い人と一緒に杯を酌み交わしていた。慰めと言えば、古澤家の女中が一緒で、彼を親しくもてなしてくれたことだった。
 彼は、余り酒を飲まなかった。花火が終わると、皆と一緒に古澤の屋敷に戻った。彼が帰ろうとすると、古澤家の女中が、もう少し皆と飲んでみたらと誘い、彼はそこに留まった。古澤の家の人と長谷川の家の人は、奥に入ったまま姿を見せなかった。
「先生は、今日、余りお酒をお飲みにならないわ。」
女中は、心配気に言った。
「今日は、余り飲まないよ。でも、何かをやってやろう。天に届くようにね。」
彼は、そう言うと隅にあった太鼓を叩いた。詩吟も詠じた。騒然とした中で、聞いていたのは女中だけだった。
「先生、私は先生が好きよ。許婚がいなかったら、先生のところに潜り込みたいくらい。」
女中は、笑顔を見せながら彼に言った。

 長谷川の家の人を見送ると、古澤の旦那はお開きにすると言った。散らかった席の中で、古澤の雇い人は、陽気に引き上げていく。古澤の家の人は、門前で明るい声を張り上げ、雇い人を送り出していた。彼も帰らなければならないと思った。そんな時、女中は片隅の壁に掛けられている横笛を持ち出し、彼の前に差し出した。
「先生、横笛の曲ってあるのでしょう。聞かせてくださらない。」
女中は、横目を走らせ、笑顔で彼に頼んだ。
「何でも言う人だな。そうだな、今日のお礼だ、吹いてあげよう。余りぱっとしたものではないけど。」
彼は、正座をして中庭に向かい笛を構えた。彼が吹き始めると、細くて澄んだ音が中庭に吸い込まれていった。女中は、彼の後ろにきちんと座っていた。
「賑やかだったよ。今年は、皆にいい具合に酔っていただいたよ。」
そう言って、古澤の旦那夫婦が部屋に入ってきた。彼の静かで厳かの姿を見ると、夫婦は話を止め、縁に腰掛けて笛の音を聞いていた。その笛の音に誘われるように、古澤の娘も庭の椅子に腰を下ろした。寂しい曲が、長く思うほど続き終わった。彼は、皆にお礼を述べ、帰ろうとした。娘は、怪訝そうに言った。
「先生、何と言う曲なの。聴いたことがあるわ。お爺様が良く吹いていたわ。」
彼は、軽く笑って何も言わなかった。
「本当よ。お爺様も、先生のように庭に向かって座り、笛を吹くのが好きだったのよ。そして今の曲よ。」
彼は、少し驚いた風に言った。
「本当に知らないのですか。今の曲は、古澤さんの先々代の人がお作りになった横笛の曲なんですよ。」
それを聴いて、その場にいた人は皆驚いた。娘は尋ねた。
「どうして、それを知っているの。」
彼は、笑って多くを語らなかった。
「大学の時に、地方の歴史の研究をやっていて、覚えたものです。」
彼は、そう言うと丁寧にお辞儀をして、古澤の家から姿を消した。古澤の家の人は、彼が祖父のことや、その懐かしさが漂う音を残していったことに、親しみを感じていた。

 夏の暑い日差しが降り注いでいた。彼は、本の買出しに町へ出かけた。あれこれと本屋を回り、二冊の本を買い、涼しそうな喫茶店に入った。アイスクリームを食べながら、本を読み始めた。
「下駄履き先生。」
いきなりの声で、彼が顔を上げると古澤の娘の顔が飛び込んできた。笑顔で立っている娘の隣には、若い男性が立っており、連れらしかった。
「前に座りますわ。」
彼は軽く頷くと、古澤の娘は勢いよく座り込んだ。古澤の娘は、連れの男が中々座らないのに気付いた。
「何も遠慮することはないのよ。ここにお座りになって。」
古澤の娘は、連れの男にそう言うと、手をとって自分の横に腰掛けさせた。彼は、娘の紹介で、その若い男性が酒造会社の次男坊であることを知った。
「この人はね、私の許婚なの。弁護士さんなの。若いのに落ち着いているでしょう。」
古澤の娘は、彼をそう言って紹介した。また娘は、彼が小学校の先生であると紹介した。それを聞いてか、若い男性は、随分偉振った素振りで挨拶をした。彼は、その少しの態度を見て、人格的に劣っていると思った。

 酒造会社の家は、夏祭りの際、古澤の家に招かれていた長谷川家である。その長谷川家の次男坊は、彼に持論を説いた。法律が国家の根源である。法律に従って、人々は安全な生活をするとも言った。自分は、不正も誤りもないように人々を弁護し、安全を確実に担保する者だと言っていた。
「そうでしょう。彼の言う事、間違いないでしょう。」
娘は、そう言って長谷川の次男坊を持ち上げた。彼も、長谷川の次男坊の考えを短く讃えた。彼にとっては、法律屋などと話をする気は更々なかった。人間社会以前のことを考えない、無作法な輩だと思った。しばらく、次男坊の話を聞いていたが、耳にも入らず雑音のように思えた。

 頃合を見計らって、彼は立ち上がり、二人に深いお辞儀をしてそこを立ち去った。カウンターで勘定をしている時、古澤の娘が彼の側にやってきた。
「どうしたの、もっとゆっくりしていけば良いのに。」
彼は、頭を掻きながら、答えた。
「学校に帰らなくては。急用を思い出したんだ。」
古澤の娘は、心配気に
「何か、気に障ったの。」
と小声で言った。彼は少し呆れた表情を見せながら、小声で答えた。
「正直言うと、法律家は苦手でね。詰まらない話に聞こえてしまって、身の上話の方が好きなんですけど、中々してくれそうもない。それに、夕飯の支度もあるし。」
娘は、チラッと長谷川の次男坊の方に目を流した。
「貴方は、何か誤解をしているわ。」
彼は少し考えて、古澤の娘を見て微笑みながら言った。
「私は誤解をしているかもしれません。貴方は若いのに、許婚と言っている。どうして自由に物を考え、自由に羽ばたきをできないのか。そう考えると、法律のことを思っていられないのです。」
しばらく古澤の娘は、彼の瞳を見つめていた。そして静かに目を閉じて、俯いてしまった。
「百合子さん、詰まらないことを言ってご免。忘れてください。」
そう言うと、彼は俯き加減で、店を出て行った。

 

 

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