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     「藤の花房」 その二

 

                         佐 藤 悟 郎

    

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  夏の暑い盛りが過ぎて、お盆を迎え、この町では盆踊りが地域ごとに行われる。下町の歓楽街でも、町内の大きな寺の境内で毎日のように盆踊りが行われていた。料亭「藤中」の娘藤代は、賑やかな盆踊りが好きだった。その日も、若い女中を連れて店の玄関で下駄を履いていた。
「お母さん、行ってまいります。」
玄関まで送りに出た母に、藤代は軽く会釈をした。母は、店の玄関を出て空を見上げた。
「雨が降りそうだね。降ったらすぐ戻るんだよ。」
微笑んで言う母の顔を見て、藤代は頷き、澄んだ声で二つ返事をした。宵時にもなっており、芸姑達が二人、三人と店にやって来る。
「今晩は、お邪魔します。」
芸姑達は、藤代やその母に一礼して言葉をかけていく。藤代の母は、前庭を娘と一緒に歩き、料亭の門まで送った。通りすがりの馴染みの人も多く、娘の母に声を掛けて通り過ぎていく。

 藤代は、女中を一人連れてお寺に向かった。下町の通りには、多くの料理屋や泊所、置屋などが軒を並べていた。お盆の頃、下町界隈は客足も多く、店先の提灯が明るい光を見せていた。道に沿って少し歩き、左に折れると山王橋があった。その橋を渡ると、道は日吉神社に向かって真っ直ぐに伸びていた。丘にある日吉神社の手前右に、大きな寺があった。お寺の最初にある黒い門を通り境内に入ってみると、真ん中に白い敷石が山門まで続いており、雪洞の仄かな明かりで、山門が浮かんで見えた。山門までの道の両側には、杉の大木が高く聳え、大木の先は空に消えていた。娘の耳に、太鼓や囃子の音が間近に聞こえた。娘は、笑みを浮かべると、嬉しそうに小走りで先を急いだ。

 山門を通ると、参道に沿って大木が続いている。右手の大木の間から、広場が明かりで浮き上がって見えた。広場の中央に、櫓が組まれ、多くの人が櫓の周りをてんでばらばらに踊っていた。大方、酔い痴れて、勝手に踊っているのだろう。参道の左には池があった。池の真ん中には、弁天様の社があり細い道で通じ、雪洞の明かりが池の水面に揺れていた。
 藤代は、はやる気持ち抑え、先ず弁天様に願をかけた。それが済むと、女中を連れて、小走りに広場へ駆けて行った。遊女と客、町の人が入り混じっての戯れの踊りだった。藤代は、女中の目を巻いて、人込みの中へと入った。藤代は、自分なりの仕草で踊り、時折、女中が自分を探している姿に目をやり、舌を出して踊りに興じていた。

 千鳥足で遊女に掴まって踊っている客、客など知らぬ風体で踊っている遊女、自分勝手に歌って調子の早い踊りをやっている町の青年、藤代は首を傾けながら、多くの人の姿を見つめるのを楽しんでいた。そっと藤代に近付いてくる町の青年、娘は気付くと誰かれと構いなしに微笑みを見せた。そして、直ぐさま人込みの中に紛れ込んで隠れてしまう。青年が、次に遊女に近付いて行くのを見て、藤代は舌を出した。
「お嬢さん。」
きつい言葉と同時に、藤代は肩を軽く叩かれ、振り返った。そこには、しかめ面をした女中の姿があった。
「雨が降ってきましたよ。」
「ほんと?」
娘は、踊りの人込みの外に出た。気の早い遊女や客達は、急いでその広場から去り始めていた。藤代は、空を見上げて手を差し伸べてみた。大粒の雨が手に落ちてきた。さっと雨脚が走ると、次々と雪洞の灯は消えていった。囃子が急に止み、一斉に人の群れが、騒々しい足音を立てて町の方に急いで行った。
「直ぐ晴れるでしょう。寺へ行きましょう。」
藤代はそう言うと、女中を連れて皆と反対の方向に走った。石段を駆け上り、石垣の道をまっしぐらに走った。更に石段を駆け上がり、大きな講堂の入口の庇の下に入った。幸い講堂の入口の灯は消えていなかった。
「晴れるでしょうか。」
着くなり、女中は心配そうに言った。藤代は、頷きを見せながら、手拭で衣装を拭いていた。講堂の入口の階段を見て、その板敷きの階段で腰を下ろした。講堂の入口は、屋根が大きく突き出ていて、舞台にもなるところだった。藤代は、女中と寄り添い、じっと雨が止むのを待っていた。

 講堂の入口の明かりは、雨に映え鐘楼を見ることができた。薄っすらと、庭の飛び石や、その奥に丈の低い潅木が見える。その他に見えるものといえば、黒く聳える物が、ただ漠然と周囲を取り巻いている様子だけだった。藤代は、杉や欅の大木だろうと思った。講堂の横手は、丘の登り斜面となり墓場となっていた。藤代も女中も、墓場があることを知っていた。
 止みそうもない雨に、二人は更に寄り添った。雨は、波のように激しくなり、灯篭の灯が細々と揺れていた。
「誰か来たわ。」
女中が生き返ったように言った。提灯の明かりが、墓場の方から揺れて来るのが見えた。
「おかしいわよ。墓の中から来るなんて、細い道しかないのよ。」
藤代は、女中をからかうように言った。いつも勝気な女中であるが、そう言われると顔が青ざめた。
「幽霊かしら。それとも人魂かしら。」
二人は怖くなって、黙ってしまった。娘は耳を澄ました。
「和ちゃん、怖がりね。足音がするじゃない。」
「足のある幽霊かしら。」
藤代と女中は、近付いてくる提灯と足音が止まると、不安が横切った。
「どうしたのかしら。動かなくなった。」
「お嬢さん、きっと幽霊が、たぶらかしに来たんだよ。」
「馬鹿ね、ほらまた足音が聞こえてきたわよ。」
二人は嬉しそうに見交わした。提灯の持ち主が、近くまでやってきた。
「おや、お二人さんでしたか。」
藤代が提灯の持ち主を見返すと、いつも料亭の脇の坂を通る中学生であることが分かった。浴衣姿だったが、紛れもなく誠治だった。

 誠治は、雨宿りのために寺に駆けて来た人の足音を聞き、困っているだろうと思い、傘を持ってきた。講堂の横手の墓場の細い道を下り、講堂の明かりに薄っすらと照らされている人の姿を見た。誠治は、直ぐに料亭「藤中」の娘であることを知った。そして行くことを少し躊躇し、それでも困っているだろうと思い、講堂の入り口まで行った。
「お困りでしょう。この傘を差してお帰りなさい。小さかったかな。そうそう、この傘も持っていきなさい。」
誠治は、そう言って講堂の入口の石段を上がって雨を避け、自分が差してきた傘も差し出した。
「それじゃ貴方が濡れます。」
「いいんです。私の家は近くですから。」
「いけませんわ。和ちゃん、これを借りて店まで傘を取りに行ってちょうだい。」
女中は、誠治から提灯と傘を受け取り、雨の中を急ぎ、闇の中に消えて行った。

 灯篭の明かりで、二人の姿が浮かんだ。藤代の心は、思いもよらぬ出会いで、心が揺れ騒ぎ始めた。座を誠治に譲り、端に座り直し、怪しげに揺らめく灯篭の明かりを見つめていた。そして体が硬直していき、息苦しくなるのを感じた。空はひどく荒れ、遠くに鳴っていた雷が、風と共に一瞬境内を青白く照らした。音を立てて灯篭の灯は消えた。雨は、飛び石に、小枝に、木々の葉に、屋根に打ちつけていた。稲妻の光で、足元の石段が濡れ、雨が流れているのが見えた。暗い沈黙の後に、恐ろしい雷鳴がやって来る。その激しい光も雷鳴も、藤代にとって怖くはなかった。
 二人は、ただ静かに何かを考えていた。近くにいると、分け隔てもない昔からの友達のように感じていた。稲妻の青白い光の中で、お互いに顔を見合わせた。その光が終わらないうちに、藤代は俯いた。その娘の姿に、誠治は見とれていた。藤代は、俯いて手を弄んでいた。濡れた髪は、光に輝き、首筋の雨粒は筋となって襟元に流れ込んでいた。
「そこじゃ濡れます。さあ、こちらへ。」
誠治の問かけに、藤代は小さな澄んだ声を返し、微笑を見せた。藤代は再び俯き、隅の方から動こうとはしなかった。

 誠治は、雨音がする暗い境内の中を、人が駆けてくる微かな足音を聞き取った。
「やってきましたよ。」
二人の前に姿を見せたのは、年の体も三十位の無頼漢風の男だった。その男は、藤代の前に提灯を掲げた。
「お藤さん、大変な目に合いましたね。」
そして足元にも提灯を照らした。その淡い光の中に、裾が光っていた。
「膝元が随分濡れていますね。さ、早く行きましょう。」
男は、藤代の肩を軽く叩きながら促した。
「お前さんの傘と提灯は、こちらで預かっておきましたよ。あとから取りにおいで。」
男は、誠治に向かってそう言った。そして、ぶつぶつ小言を言っていた。娘が濡れたことに腹を立てているらしかった。藤代は、黙って立ち上がった。男は軒下まで下り、早く来るようにと提灯を振っていた。
「どうも、ご親切に有難うございました。傘と提灯は、私が持ってきます。待っていてください。」
料亭の薄明るい提灯の光の中で、藤代は深く頭を下げた。誠治も立ち上がり、一こと言った。
「いいんですよ。持ってこなくても、遅いですし。」
藤代は、誠治を見つめた。
「いいえ持ってきます。待っていてください。」
藤代は、どうしても持ってくると言い張って立ち去った。誠治は、その場で待っていたが、娘が来る様子はなかった。誠治は、心が豊かに大きく広がっていくのを感じた。

 

 

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