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     「藤の花房」 その七

 

                         佐 藤 悟 郎

     

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 藤代は、高等女学校に病気療養明けとして復学した。数日が過ぎた午後、教室の後ろ壁に掲げてある「良妻賢母」と書かれた額を見つめた。しっかりとした書体で、書の意味することが凛と伝わってきた。書いた書家の名前は、関口江水となっていた。その額を見つめる藤代の後ろから、誰かが声を掛けた。
「誠治君のお母様の書かれたたものよ。見ていると心が引き締まるわ。」
藤代が振り返ってみると、雪乃が目を細めて見上げている姿が見えた。そう言えば、幼い頃、誠治の母が筆を持っているのを覗いたことがあった。
「おばちゃん、何しているの。」
と声を掛けると、手を休めて
「字を書く練習をしているのよ。藤代ちゃんも書いてみる。」
と答え、優しそうな微笑みを浮かべたのを思い出した。
「今でも書いているのかしら。」
藤代が雪乃に問い掛けると、雪乃は
「藤代さん、知らないの。誠治さんのお母さんは、近郷に知れた書道家なのよ。最近では、教えを請う人もいるそうよ。」
と答えた。藤代は、俯いて暫く考えていた。

 それから数日後、藤代は誠治の家を訪れた。黒塗りの板塀を巡らした、静かな門構えの家だった。門を潜り、玄関を開けた。藤代が声を掛けると、奥の方から返事が返ってきた。誠治の母が姿を見せ、藤代の姿を見ると微笑んだ。
「お上がりなさい。お菓子あるわよ。」
誠治の母の言葉に頷いて、藤代は履物を脱いで上がった。庭の見える廊下を、誠治の母について歩いた。
「ここが、私の部屋よ。」
誠治の母は、そう言って障子を開けて、藤代を部屋に招き入れた。片隅の大きな火鉢に、鉄瓶が置かれていた。
「誠治は出かけているの。お相手できなくてご免なさい。」
「そんなこと、ございません。小母さんに頼みがあってきたのです。」
「あら、どんなこと。」
藤代は、改まって一礼をした。
「筆字を教えていただきたいのです。」
藤代は少し緊張した眼差しで誠治の母を見つめた。そしてまた両手をついて、深くお辞儀をした。誠治の母は、藤代の姿を微笑んで見つめた。若き日の自分の姿を見るようだった。
「そう、分かったわ。次に来る時までに筆と硯、墨、それに用紙を用意しておきます。」
誠治の母の言葉を聞いて、藤代は顔を上げた。藤代の瞳は輝き、少し上気した顔を見せた。
「今日は、藤代さんは、お客様よ。」
そう言うと誠治の母は、棚から茶道具とお菓子を取り出した。
「小母さま、私がお茶を出します。」
藤代は、急須にお茶葉を入れ、盆に載せて火鉢の側に行った。
「あら、誠治が帰ってきたようだわ。歩いてくる音がするわ。」
誠治の母の言葉に、藤代の体が一瞬強ばった。間もなくすると、
「ただいま。」
との誠治の声が聞こえた。
「お帰りなさい。」
誠治の母は、部屋の中から答えた。廊下を歩く誠治の足音が聞こえた。藤代は、誠治と一緒の屋根の下にいると思うと、何か、幸せな思いで満ちた。

 誠治は、新潟の高等学校の入学試験が終わってから熱を出し、家に戻ると寝込んでしまった。手習いに来ていた藤代は、心配でならなかった。字が乱れている。
「誠治が心配なのでしょう。お医者さんに診てもらったところ、流行風邪ということでした。二〜三日経てば、良くなると言っていたわ。」
藤代は、俯いて誠治の母の言葉を聞いていた。
「藤代さん、心配なのね。だったら様子を見てきなさい。お茶とお菓子を持って行けば良いと思います。」
藤代は、誠治の母の言葉で、心が見透かされたと思った。顔を上げて、誠治の母を見つめた。誠治の母は、微笑んで頷きを見せていた。
 藤代は、火鉢の鉄瓶の湯でお茶を入れ、手土産として持ってきた粉菓子を一緒に盆に載せると、足音を忍ばせるように誠治の部屋の障子戸の前に腰を屈めた。軽く障子を叩いたが返事はなかった。少し障子戸を開けて、中を覗き込んだ。誠治は、手拭いを額に載せて、眠っている様子だった。
 藤代は、障子戸を静かに開けて、部屋に入ると障子戸を閉めた。部屋には、大きめの火鉢があり、薬缶から程よく湯気が立ち、部屋は暖かくなっていた。枕元に乱れ盆があり、着替え用の浴衣や下着など置いてあった。着替え用の服の上にお守りがあるのに、藤代は気付いた。そのお守りには、「ふじさんへ」と書いてある。藤代は、胸元から、そっとお守りを出した。そこには「まこさんへ」と書いてあった。藤代は、胸が熱くなった。
 藤代は、誠治の顔の真上から覗き込んだ。安らかな寝顔に、愛おしさが強く感じてくるのだった。スーと顔を近付けて、軽く唇を重ねた。柔らかな心地よさが伝わってきた。唇を離して、また誠治の顔を見つめていた。少し経つと、誠治は目を覚ました。
「藤代さん。」
誠治の問いかけに、藤代は頷き、微笑みを見せた。
「大変でしたね。藤代、心配だったの。」
誠治は、額の手拭いを外すと、
「すっかり良くなった。」
と言って、上体を起こした。

 藤代は、誠治が新潟の高等学校に入学するのを送るため、朝早く起きると渡し場に向かった。舟に乗り込んでいる誠治を見付け、藤代は手を振った。誠治は立ち上がると、大きく手を振って見せた。
 藤代は高等女学校最終年となった。誠治の母のところには、毎日のように顔を出した。藤の花が咲く頃、玄関から門に向かう前庭に藤棚に白と紫の藤の花房が垂れていた。誠治の母は、藤の花房を見つめている藤代を見つめた。
「何を思ったのか、昨年こちらに越して間もなく、誠治が藤棚を職人を使って作ったの。今年は咲くかどうかと思ったのですが、綺麗に咲きましたね。」
誠治の母は、藤代にそう話しかけた。藤代は、応えるかのように
「私の家の庭にも、藤の花が咲きます。私も藤の花が好きです。」
と、微笑んだ顔を誠治の母に向けて言った。
「そうよ。藤忠の庭の藤は、美事なのよ。藤代さんの名前、誠治の父、文治が名付け親なのよ。藤は、藤棚や木にしっかりと巻きつくでしょう。だから藤は、決して離れない、という意味があるの。いつまでも誠治を頼みます。」
誠治の母は、藤代に優しく言って、丁寧にお辞儀をするのだった。そして二人は目を細めて微笑みながら、しばらく藤の花を見つめていた。

 

 

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