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     「藤の花房」 その三

 

                         佐 藤 悟 郎

      

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 そのことがあってから、誠治は藤中の坂を通るのが気恥ずかしく、幾日も通るのを見合わせていた。木々の葉の緑も濃く、強い日差しが蒸し暑さを誘う日が続いた。盆も過ぎた、ある日の夕方、誠治は勇気を持って藤中の坂を下りた。坂は明るく、白い石段が目に染みるほどだった。木陰に快い風が流れていた。坂を下り、その途中から誠治は料亭の二階を覗いた。開け放たれた窓には、誰の姿もなかった。期待外れの思いで、下町の道に向かって歩き出した。その時、誠治の耳に坂の下の通りの方から、大勢の女の声が聞こえてきた。下町の本通りを、芸姑衆が通り過ぎていった。その中に藤代の姿を見付けると、誠治は立ち止まった。藤代は、ちらっと誠治の方を見て通り過ぎて行った。
 誠治は、腹立たしかった。足を強く踏み、空を見上げながらゆっくりと下りて行った。三段ほど下りたと思う頃、藤代が息を切らせて坂道の上り口で一礼して、誠治に向かって駆けてきた。誠治は、狼狽して、俯いてしまった。誠治の耳に、藤代が駆け上ってくる弾んだ足音が聞こえた。
「早くいらっしゃって。」
誠治が顔を上げると、坂の途中にある料亭の裏木戸で、藤代が身を屈めて待っていた。誠治は、返事もせず、ゆっくりと下りた。裏木戸のところで、二人は肩が触れそうになった。
「お上がりになってください。」
藤代は、誠治の背後から声をかけた。誠治は立ち止まったが、返事をしなかった。藤代は、大方、誠治が恥ずかしいと思っていると察し、誠治に近寄って覗き込むようにして顔を見つめた。誠治の戸惑っている顔を見つめ、軽い微笑を浮かべた。
「さあ、早くいらっしゃい。遠慮は無用です。」
そう言いながら、藤代は誠治の袖を引っ張った。
「学校の帰りなんで。」
誠治は、小さな声で言い訳がましく言ったが、直ぐ伏目となった。
「分かったわ。ほんの一寸よ。傘も提灯もお返ししなくちゃ。」
誠治は、藤代に言われるままに薄暗い料亭に入った。勝手口から二階へと上る階段は、狭く暗かった。二階の娘の部屋は、それでも明るく感ずる部屋だった。

 誠治は、娘の部屋に入ると、窓から藤中の坂を眺めた。木の枝の葉の陰に、藤中の坂が見え隠れし、緑と、木々の幹の暗さと道の白さが鮮やかに見えた。
「さあ、どうぞ、お敷きになってください。」
藤代は、誠治に座布団を勧めた。誠治は、自分の薄汚れた足袋を見つめた。
「どうぞ、お楽にしてください。私、今着替えをしますので、ちょっと待ってください。」
誠治は、座布団に座りながら、藤代の後姿を見送った。藤代は、屏風の上に髪の毛を見せながら、着替えを始めた。部屋の衝立や、屏風にも、淡白な鮮やかな衣装が数枚垂れ下がっていた。昔、母が着替えをしている時の衣擦れと同じ音を聞いていた。
「お藤さん、帰ってきましたか。」
突然、廊下の障子の外から女の声が聞こえた。誠治は、襟元を正し、緊張した。
「は〜い。」
藤代の明るい返事がすると、障子戸が開き、年配の女が姿を見せた。その年配の女は、誠治の姿を見て、驚いた様子だった。
「お邪魔しております。」
誠治の丁寧な礼を少し見つめ、そして軽い会釈を返すと、直ぐに屏風の方へ近寄った。
「この子は馬鹿だよ。お客さんのいる部屋で着替えなんかするものじゃありませんよ。」
藤代には、母の忠告なぞ耳に入っていなかった。
「お母さん、手伝って。」
そう言う娘は、あどけなかった。藤代の母の姿も屏風に隠れ、衣擦れの音、帯を締める音が聞こえた。
「お前も一人前だよ。男のお客さんを連れてくるなんて。」
母は、明るい声で冗談交じりに言った。
「あら、男のお客さんだって。」
藤代は、嬉しそうな声で答えた。
「そうじゃないか、立派なもんだよ。はい、終わりよ。」
母は、藤代の肩を一回軽く叩いた。母の冷やかしのためだろう、少し上気した藤代が屏風の陰から出てきた。

 藤代の母は、誠治の横手前に座った。
「藤代、お客さんの前に座りなさい。」
藤代は、座って誠治の顔を見つめ、微笑むと二人とも俯いてしまった。
「藤代、お客さんを紹介してください。」
母は、藤代に催促するように言った。二人は、お互いの膝元ばかり見つめ、顔を上げようとしなかった。
「二人とも、いい加減にしてよ。さあ、顔を上げて。」
二人は、紅潮している顔を上げた。藤代の母は、クスクス笑っていた。
「名前を忘れたのかい。まあいいでしょう。この娘は、吾妻藤代といいます。」
母は、藤代を紹介した。娘は、両手を突いてお辞儀をしながら、
「ここの娘の、吾妻藤代と言います。」
と言った。誠治は、はにかみながら一回お辞儀を返し、娘を正面から見つめて言った。
「関口誠治と言います。」
息詰まりそうな二人は、こことばかり互いに礼を交わし、顔を上げようとはしなかった。藤代の母は、納得したように大きく頷いた。
「さあ、二人とも、顔を上げて、恥ずかしがることもないじゃないか。」
そう言って、母は微笑みを浮かべて立ち上がった。障子を開けて、まだ俯いたままの二人に向かって言った。
「いい加減にしなさいよ。いじらしいね。そうそう、藤代、お客さんに親切にするんだよ。いいかい、ご馳走してやりなさい。」
俯いて母の言葉を聞いていた藤代は、
「はい。」
と突拍子な声を出して、頭を更に低くした。

 母が出ていくと、二人はそのままでいたが、いつの間にか顔を合わせた。思いの外、何の恥ずかしさもなかった。二人には、おかしさと嬉しさが顔に溢れていた。
 誠治は、少しためらった。自分がここに来たのは、傘と提灯を受け取りに来ただけである。藤代のあどけない姿と、いつも見せていた寂しい姿が交錯し、計り知れない娘に近寄りがたかった。
「私、帰ります。」
藤代を見返し、精一杯言ったつもりだった。藤代は、ただ軽く微笑み、何回となく首を横に振っていた。思い立ったように、藤代は部屋から出ていった。新しく装った薄水色のぼかし模様と緋色の帯留めが、誠治の目を洗った。藤代が出ていった後も、清々しい娘の姿を思い浮かべていた。屏風に掛かっている衣装を見つめた。白色に淡い色、今にも消えそうな色が、裾に多く見えた。暫くして、藤代が戻ってきた。後から女中が付き添って、薬缶を置いていった。
 夏のそよぎさえ聞こえそうな、静かなこの部屋に、お茶を注ぐ音が流れた。
「どうぞ。」
藤代は、袂を払って手を差し延べ、静かに茶碗を置いた。誠治は、温かいお茶を幾度も口に運んだ。そして、茶碗を弄び、幾度もなく埒の明かない目を交わした。日も暮れて、差す明かりも乏しくなってきた。
 その日、夕食を共にし、誠治は帰って行った。帰るとき、藤代は木戸まで送ってくれた。
「これを返しても、また来てくださいね。」
そう言って、提灯と傘を誠治に手渡した。誠治の心に、心温まる思いが流れた。それは、恋にも似た気持ちだった。藤代には、心の奥に秘めた、純情さがあった。藤代は、頭も良いし、世間のたしなみも身に付けていた。それだけに花柳界に入りやすい身だった。他人が、そのままにしておかなかったのだった。

 藤代の踊りの師匠の家は、下町の歓楽街の外れにあった。藤代は、師匠の家まで行く通りにある、静かな門構えの屋敷を見つめていた。篠田文次郎という表札が出ている。以前住んでいた人も篠田姓で、幼い頃世話になった家だった。一つ年上の男の子がいて、「マコ」と呼んでいた。その男の子は、家族で新潟へ引っ越し、その後に住んでいるのは、親戚の人らしかった。通る度に、門から見える庭と木々に懐かしさを感じていた。
「マコは、大人になっただろうな。会いたいけれど、私、分かるかしら。」
藤代は、知らずの内に心豊かになり、俯いて含み笑いを浮かべるのだった。
 料亭「藤中」の娘、吾妻藤代は十六歳になった。高等女学校を中途で休学し、料亭の座敷に顔を見せるようになった。幼い頃から、芸妓に接し、踊りを習っていた。もう名取りとなっていたが、時々は師匠の家を訪ね、稽古場で師匠から稽古をつけてもらっていた。
 師匠の家までの行き帰りの途中には、古めかしい、こぢんまりとした屋敷の前を通る。表札は、「篠田」と書かれていた。通る度に藤代は、門から前庭を見詰める。
「マコ、どうしているだろう。元気かな。顔も忘れるくらい朧になった。もう会っても、顔は分からないだろうな。」
そう呟きながら、歩くのが常だった。

 

 

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