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     「藤の花房」 その四

 

                           佐 藤 悟 郎

     

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 まだ暑さが残る初秋だった。藤中の坂を誠治が下りていた。料亭「藤中」の二階から、藤代が覗いているのが見えた。藤代は、手を振ると姿を消した。誠治が裏木戸に差し掛かった頃、木戸が開いて藤代が出てきた。
「寄っていってください。お話がしたいの。」
誠治は、誘われるがまま、藤代の部屋に入った。窓から藤中の坂を見た。木漏れ日が優しく差し込んでいた。藤代を見返すと、深い黒目勝ちの目で、じっと誠治を見つめていた。藤代は、それから恥ずかしそうに目を伏せた。暫くして藤代は立ち上がった。誠治は、淡い裾模様を見つめていた。背に回り、藤代は窓際へ寄っていった。
「こちらを向いて。」
藤代の声に促され、誠治は横向きに座を変え、肩越しに藤代を見つめた。それでいて、藤代は外を見ているらしく、背を見せていた。藤代は、窓に腰を下ろすと誠治を見返した。それは憂鬱な光の中に、溶け入った美しい姿だった。
「色々話をしたいのよ。帰らないで。」
「いいですよ。」
誠治は、暗くなってきた部屋に目を忍ばせた。ほのかに匂う香りに、離れがたい気持ちになっていた。それを払い除けるように、藤代の声が流れた。
「誠治さん。私、高等女学校に通っていたの。一人前に、教養を身に付けたいと思って。悩み事があって、今、休学中なの。」
誠治には、急な話だった。
「教養を身につけること、心次第と思います。」
誠治は、藤代の思いを窺いながら言った。藤代は、力無く言った。
「分かるわ。勉強は、心次第でやれると言うことをね。でも。」
更に言葉を続けた。
「そうなのよ。女学校で勉強を続けたいと母の前で言ったら、料亭の子が勉強なんて必要がないと、母に叱られました。」
藤代は、言ってしまうと、恥ずかしそうに薄ら笑いを浮かべていた。
「でも、随分、本なんか読んでいるのでしょう。」
誠治は、藤代に軽い言葉で尋ねた。
「それは、まあね。でも、本を読むだけじゃつまらない。学校へ行って学びたいし、お話をしたいし、遊びたいし。」
藤代は、納得させるように、頷きながら話した。
 その一言、一言の言葉に、藤代が自分に対する期待を求めているのを感じていた。誠治は俯いて聞いていたが、藤代は微笑んでいた。
「でもね、私がいくら頑張ってみても、料亭の子でしょう。何も知らない頃の友達も、みんな離れてしまって、勉強したいと言っても、母に叱られるの。」
藤代は、誠治の前にきちんと座った。誠治が、藤代の顔を見ると、言葉の軽快さと違って、沈んだ様子が窺えた。
「誠治さん、お友達になってくださるわね。」
誠治は、期待をしていたが、華やかな藤代の世界と、母と祖父母との四人の慎ましい暮らしを考えると、かけ離れた世界という問題が頭に浮かんだ。
「私の家は、厳しい家です。中々来ることができないかも知れません。」
「そんなこと、何でもありませんわ。友達になってくださいね。」
誠治は、快く頷いて見せた。藤代は、非常に喜んだ。行灯を引き寄せ、暗くなった部屋は、赤く浮かんだ。誠治は、藤代に静かな思いを持ち続けていた。そして、これから激しい中まで落ちても良いと思った。

 しかし、藤代は賢い代わりに、世の風潮に染まるのも早かった。知らず知らずの内に、料亭の世界に溶け込み、今迄の孤独や寂しさが消えていった。誠治に対しても、気薄になっていった。単なる、一人のお客様と思うようになっていったのである。誠治は、忘れていた過去を思い出した。自分と娘が、幼い頃の友達であること、その思い出は楽しい世界だったことを思い出した。

 盆が過ぎると間もなく秋祭りである。西野家では、連日、踊りの稽古で多くの男女で賑わっていた。西野家は、この町の富豪で、多くの山と土地を持っていた。白砂や白玉が敷かれた庭があり、広い池に庭の木々や庭石の影を落としていた。池の水は澄み、流れが絶えることがなかった。築山には四阿があり、見渡すほどに庭が広かった。四阿から見ると、池に架かった太鼓橋のふもとの木々の間に、戸が開け放たれている広間が透けて見える。今日も、その広間で芸姑達が輪を描いて踊っていた。祭りのための流し踊りや座敷踊りだった。
 昼下がりの休憩の折、踊り疲れた芸姑達は、庭を巡っていた。彩りの姿が、池に映し出された。藤代も、何か沈みがちな目で、庭に屈み込んでいた。藤代は、誠治のことを思っていた。如何に一人のお客であろうと、いかにも薄らいだ気持ちでいることに、未練が残っていた。この頃では、客の間で名が売れているのだった。娘は、昔の思いがあったにせよ、誰でも、いつか捨てなければならないと同様に、自分も捨てるときだと思っていた。今の生活から、誠治を部屋に招き入れたときとは、異なっていると思った。過去と現在が、誠治という人間によって、線を引かれていると思った。錦鯉の戯れと、忍び寄る足音を聞いた。

 藤代が、池の端で少し考え込んでいると
「お藤さん、お客さんよ。」
横やりに芸妓に言われ、そちらの方を見た。その芸妓に連れられて、微笑んでいる誠治の姿があった。芸妓は、一礼すると去っていった。
「どうしたの。」
「藤代さん、お祭りの踊りの稽古であれば、ここにいると思って。」
藤代は、何かおかしくてたまらなかった。悪い虫が着いたものだとしか思っていなかった。
「まだ、稽古は終わらないんでしょう。」
誠治が問い掛けると、藤代は眉をひそめた。
「何しに来たのよ。帰ってくださらない。」
誠治は、藤代から思いがけない言葉をかけられ、俯いてしまった。それが、この頃の藤代の寂しさが、侮りに変わったためだと気付いた。
「藤代さんの踊りの稽古を見に来たのが悪かったのかな。」
幼い日の語り合いの言葉の中に、藤代が
「いつでもいいの、私が踊るのを見てね。」
と何回も言ったことだった。誠治は、藤代が幼馴染みと言うことに気付いていないと思った。誠治は、そんなことを言う訳にもいかず、苦笑するばかりだった。
侮りに近い藤代の態度に、誠治は少し苛立ちを感じた。
「そう、藤代さん、ここに来て悪かったの。」
誠治は、繰り返すように言った。
「中学生が、芸姑風情なんかに興味を持っては、いけませんわ。」
誠治は、藤代の投げやりな言葉を聞いた。
「藤代さんは、芸妓じゃないでしょう。私は、藤代さんの踊る姿が見たかったのです。」
即座に藤代は答えた。
「私は、お座敷にも出ているのよ。芸姑と同じよ。そうじゃなくって。」
誠治は、藤代が惨めになったと思った。
「友達じゃないか。」
誠治は、藤代の心に尋ねたかったのだった。心の交わりのある、そして許し合える友達なのかを聞きたかったのだった。
「もう、違うのよ。」
娘のそう言う返事は、幼き日の思い出、そして初夏の頃の思い出を、全て無に帰してしまった。
「じゃ、今は、藤代さんは何なの。」
誠治は、呆れるように尋ねた。
「座敷来れば、誠治さんは、お客さんよ。」
誠治は、その言葉を聞くと俯き、寂しさを感じた。
「私は、中学生だし、そんなことできやしない。じゃ、お別れだね。」
藤代は、落ち着いて頷いた。藤代は、別れることは、平気だと思った。その時、誠治が右手を差し延べた。顔は、明るく微笑んでいた。
「お別れだから、握手して別れよう。」
その言葉と微笑みに引かれて、藤代は誠治の手を握った。藤代は、一瞬強く手を握られたかと思うと、スーと誠治の手は離れた。誠治は、丁寧にお辞儀をして微笑みを見せていた。
「さようなら。」
藤代は、誠治のその行動の中に、突然清らかな懐かしさを感じた。自分の知らない、美しさが見えたのだった。堪らなく、懐かしい気持ちになったのだった。

 誠治は、手を振って藤代に背を向け屋敷の奥の方に向かって歩いた。丁度、西野家の息子栄吉が姿を見せた。誠治は、栄吉の顔を見ると一礼した。
「西野先輩、これからお邪魔しようと思っていたんです。高等学校は休みなんですか。私、父が亡くなって、塚原に越してきました。」
誠治は、そう言うと栄吉の方に歩み寄った。
「篠田じゃないか。お前が塚原に来たことは聞いている。優秀だってな。噂は聞いているぞ。」
栄吉は、誠治の肩に手を載せた。栄吉は、少し離れている藤代に声を掛けた。
「藤代さん、踊りの練習、まだあるのだろう。誠治を借りていくよ。」
栄吉は、藤代に軽く言うと、誠治を連れて奥の方へと歩いて行った。藤代は、栄吉が新潟の高等学校に行っていることを知っていた。誠治が、栄吉と親しい仲であること、誠治を篠田と呼んでいたことに意外さを感じた。

 

 

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