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     「藤の花房」 その六

 

                         佐 藤 悟 郎

   

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 藤代は、店の片隅の部屋で、座り机を中にして、目崎先生と向かい合って座った。俯いている藤代に向かって、目崎先生は単刀直入に話した。
「学校を休学して、随分と日が過ぎた。学校に戻らないのか。」
藤代は、俯いたまま返事をしなかった。
「さっき会った、関口先輩の前、藤代の隣に座っていたのは、篠田誠治君じゃないのか。」
誠治の名前を聞いて、藤代は顔を上げた。
「そうです。今は、篠田じゃなくて、関口の姓となっています。」
それだけ答えると、再び藤代は俯いた。
「そうか、知り合いなのか。誠治君は、女学校の生徒の間でも評判になっている。」
藤代は、何故、誠治の話をするのか、理解できなかった。
「誠治君の父を、私は知っている。とても立派な方だった。篠田家と言えば、塚原の町では名家でな、女学校でも評判な人だった。関口先輩の娘の妙さんは、人の噂を尻目に、誠治君の父に向かっていった。その人に相応しい、良妻賢母になるためにな。」
「例えばの話だ。藤代さんが、誠治君を慕っていたとしよう。誠治君は、どのような女性を望むだろうか。」
「本当は、誠治君のためではない、一人の女性として、輝く女性になりたいと思わないか。いや、目指すべきだ。君ならできる。だから言うのだ。」
藤代は、誠治等が食事を終わり、店から出て行くのを見つめた。目崎先生の言葉が、煩わしく耳に入ってくる。でも、考えなければならない問題でもあった。そして急いで結論を出さなければならないと思った。
「先生、私の我が儘で休学したのです。女学校に戻ることできますか。私は諦めているのです。誠治さんは、私にとって、本当に大切な人です。」
目崎先生は、即座に答えた。
「君の休学は、病気療養と言うことになっている。まだ間に合う。祭りが終わったら、何気なく学校に来るんだ。他の生徒の戯れ言なんか、気にすることはない。」
藤代の目標は定まった。高等女学校に復学したいと思った。

 祭りの日になり、踊り手は西野家に集まった。藤代は、早めに出かけ、住まいの方に出向いた。高等女学校に通う、西野家の娘雪乃に会うためだった。
「私、明日から女学校に戻ります。また、馬鹿にされるかも知れないけど、もう挫けないわ。雪乃さんを頼りにするので、よろしくお願いします。」
藤代は、深々と頭を下げた。
「そんなに改まって言うことじゃない。今までどおり、仲良くしましょう。」
雪乃は、快く答えた。そして藤代を部屋に招き、集合時間まで話し合った。休んでいる間の出来事、勉強の進み具合、注意する人などの話だった。

 祭りの夕方は、涼しく通りは賑やかだった。その中を芸姑達は踊り流した。一際目立った衣装を纏い、髪を整えた姿の芸姑達の集団は、鮮やかだった。娘の柔らかな体は、手と体と足と、全てが目の動く一点に纏まっていた。時折、それすら崩れ、虚ろな眼差しとなった。人混みの中で、一人ひとりが自分ばかり見つめていると思われた。何故か、ただ人生にのんびり生きてきて、思い出そうともせず、求めようともしない人々の前で踊っているのが、嫌だと藤代は思った。逃げ出したい衝動に駆られながら踊っていたのだった。人影の中に、誠治の頷きながら見ている姿を見付けたとき、体が崩れそうになった。軽い頷きの中に、懐かしい癖を見付けたのだった。

 踊りが終わり、西野家にいるのも束の間、宴から抜け出そうと思った。誠治から、はっきりした答えを聞かなければ、不安を拭い去ることができなかった。玄関口で、藤代は栄吉に呼び止められた。
「藤代さん。どうしたのだ。宴会は、まだ始まったばかりだろう。」
栄吉の問い掛けに、藤代は答えた。
「町を歩いてみたいの。」
落ち着きのない藤代の態度に、栄吉は少し心配となった。
「俺も、一緒に行くよ。」
栄吉が言ったが、藤代は首を横に振った。藤代は、駆けていた。
 藤代は無言のまま、急いでいた。踊っているとき、誠治の姿を見付けた場所で立ち止まって、辺りを見回したが、人の流れがあるだけで、求める人の姿はなかった。藤代は、急に肩を落とした。
「あのとき、飛び出せば良かったのに。」
何か、静かな、落ち着きのない声が落ちた。藤代は顔を上げた。毎年来る、露店の古本屋だった。アセチレンの臭う露店の古本屋の前で、赤い火に照らされて本を立ち読みしている誠治の姿を見つけた。

 藤代は、頷きを見せ、顔を上げようとしなかった。なおも、ゆっくりとした歩みで近付いていった。
「坊ちゃま、その本、安くしておきますぜ。買いませんか。」
「どれくらいです。」
「うん、この本はね、東京の大学の人から買ったのだが、安くして、七十銭にしておきましょう。」
「駄目だね、五十銭しか持っていないんだ。」
その言葉の遣り取りを聞いて、藤代は急に走り寄った。そして、店先で屈み込んで言った。
「残りの二十銭、私が払いますわ。」
一目散にやってのけた娘の心を強く感じた。本を持っていた店主は、誠治に本を渡した。
 二人で無言のまま、暫く歩いたが、心はそれぞれバラバラだった。
「これ、藤代さんの物だ。返すよ。」
藤代は、誠治の前で項垂れていた。本を、目の前に突き付けられたとき、耐え切れない気がした。
「あのこと、許してくださいませんの。私から、謝るわ。」
誠治は、俯いてから顔を上げて、藤代の顔を見た。
「この間のこと、何とも思っていないよ。本当だよ。でも、二十銭のことは、別の話だよ。」
藤代は、大きく息をすると微笑んだ。
「本当、勘弁してくれて、嬉しい。」
そして、本を誠治に押し戻すようにして、口を丸めて藤代は言った。
「二十銭は、貸したのよ。都合の良い時に返してもらえれば良いの。」
それを聞いて、誠治も頭を掻きながら、笑顔を浮かべた。
「そうか、じゃあ借りるよ。人が見ている、帰ろうか。」
誠治がそう言うと、藤代は笑顔で頷いた。
「人が見ていても、私は構わないわ。マコと一緒なんだもん。」
二人は、連れ添って、本町から下町に通ずる小路を歩いて行った。藤代は、心に恐れるものが何一つなくなったと感じた。

 

 

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