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「藤の花房」 その六 佐 藤 悟 郎 ( その一 その二 その三 その四 その五 その六 その七 ) 藤代は、店の片隅の部屋で、座り机を中にして、目崎先生と向かい合って座った。俯いている藤代に向かって、目崎先生は単刀直入に話した。 「学校を休学して、随分と日が過ぎた。学校に戻らないのか。」 藤代は、俯いたまま返事をしなかった。 「さっき会った、関口先輩の前、藤代の隣に座っていたのは、篠田誠治君じゃないのか。」 誠治の名前を聞いて、藤代は顔を上げた。 「そうです。今は、篠田じゃなくて、関口の姓となっています。」 それだけ答えると、再び藤代は俯いた。 「そうか、知り合いなのか。誠治君は、女学校の生徒の間でも評判になっている。」 藤代は、何故、誠治の話をするのか、理解できなかった。 「誠治君の父を、私は知っている。とても立派な方だった。篠田家と言えば、塚原の町では名家でな、女学校でも評判な人だった。関口先輩の娘の妙さんは、人の噂を尻目に、誠治君の父に向かっていった。その人に相応しい、良妻賢母になるためにな。」 「例えばの話だ。藤代さんが、誠治君を慕っていたとしよう。誠治君は、どのような女性を望むだろうか。」 「本当は、誠治君のためではない、一人の女性として、輝く女性になりたいと思わないか。いや、目指すべきだ。君ならできる。だから言うのだ。」 藤代は、誠治等が食事を終わり、店から出て行くのを見つめた。目崎先生の言葉が、煩わしく耳に入ってくる。でも、考えなければならない問題でもあった。そして急いで結論を出さなければならないと思った。 「先生、私の我が儘で休学したのです。女学校に戻ることできますか。私は諦めているのです。誠治さんは、私にとって、本当に大切な人です。」 目崎先生は、即座に答えた。 「君の休学は、病気療養と言うことになっている。まだ間に合う。祭りが終わったら、何気なく学校に来るんだ。他の生徒の戯れ言なんか、気にすることはない。」 藤代の目標は定まった。高等女学校に復学したいと思った。
祭りの日になり、踊り手は西野家に集まった。藤代は、早めに出かけ、住まいの方に出向いた。高等女学校に通う、西野家の娘雪乃に会うためだった。 「私、明日から女学校に戻ります。また、馬鹿にされるかも知れないけど、もう挫けないわ。雪乃さんを頼りにするので、よろしくお願いします。」 藤代は、深々と頭を下げた。 「そんなに改まって言うことじゃない。今までどおり、仲良くしましょう。」 雪乃は、快く答えた。そして藤代を部屋に招き、集合時間まで話し合った。休んでいる間の出来事、勉強の進み具合、注意する人などの話だった。
祭りの夕方は、涼しく通りは賑やかだった。その中を芸姑達は踊り流した。一際目立った衣装を纏い、髪を整えた姿の芸姑達の集団は、鮮やかだった。娘の柔らかな体は、手と体と足と、全てが目の動く一点に纏まっていた。時折、それすら崩れ、虚ろな眼差しとなった。人混みの中で、一人ひとりが自分ばかり見つめていると思われた。何故か、ただ人生にのんびり生きてきて、思い出そうともせず、求めようともしない人々の前で踊っているのが、嫌だと藤代は思った。逃げ出したい衝動に駆られながら踊っていたのだった。人影の中に、誠治の頷きながら見ている姿を見付けたとき、体が崩れそうになった。軽い頷きの中に、懐かしい癖を見付けたのだった。
踊りが終わり、西野家にいるのも束の間、宴から抜け出そうと思った。誠治から、はっきりした答えを聞かなければ、不安を拭い去ることができなかった。玄関口で、藤代は栄吉に呼び止められた。 「藤代さん。どうしたのだ。宴会は、まだ始まったばかりだろう。」 栄吉の問い掛けに、藤代は答えた。 「町を歩いてみたいの。」 落ち着きのない藤代の態度に、栄吉は少し心配となった。 「俺も、一緒に行くよ。」 栄吉が言ったが、藤代は首を横に振った。藤代は、駆けていた。 藤代は無言のまま、急いでいた。踊っているとき、誠治の姿を見付けた場所で立ち止まって、辺りを見回したが、人の流れがあるだけで、求める人の姿はなかった。藤代は、急に肩を落とした。 「あのとき、飛び出せば良かったのに。」 何か、静かな、落ち着きのない声が落ちた。藤代は顔を上げた。毎年来る、露店の古本屋だった。アセチレンの臭う露店の古本屋の前で、赤い火に照らされて本を立ち読みしている誠治の姿を見つけた。
藤代は、頷きを見せ、顔を上げようとしなかった。なおも、ゆっくりとした歩みで近付いていった。 「坊ちゃま、その本、安くしておきますぜ。買いませんか。」 「どれくらいです。」 「うん、この本はね、東京の大学の人から買ったのだが、安くして、七十銭にしておきましょう。」 「駄目だね、五十銭しか持っていないんだ。」 その言葉の遣り取りを聞いて、藤代は急に走り寄った。そして、店先で屈み込んで言った。 「残りの二十銭、私が払いますわ。」 一目散にやってのけた娘の心を強く感じた。本を持っていた店主は、誠治に本を渡した。 二人で無言のまま、暫く歩いたが、心はそれぞれバラバラだった。 「これ、藤代さんの物だ。返すよ。」 藤代は、誠治の前で項垂れていた。本を、目の前に突き付けられたとき、耐え切れない気がした。 「あのこと、許してくださいませんの。私から、謝るわ。」 誠治は、俯いてから顔を上げて、藤代の顔を見た。 「この間のこと、何とも思っていないよ。本当だよ。でも、二十銭のことは、別の話だよ。」 藤代は、大きく息をすると微笑んだ。 「本当、勘弁してくれて、嬉しい。」 そして、本を誠治に押し戻すようにして、口を丸めて藤代は言った。 「二十銭は、貸したのよ。都合の良い時に返してもらえれば良いの。」 それを聞いて、誠治も頭を掻きながら、笑顔を浮かべた。 「そうか、じゃあ借りるよ。人が見ている、帰ろうか。」 誠治がそう言うと、藤代は笑顔で頷いた。 「人が見ていても、私は構わないわ。マコと一緒なんだもん。」 二人は、連れ添って、本町から下町に通ずる小路を歩いて行った。藤代は、心に恐れるものが何一つなくなったと感じた。
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