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     「藤の花房」 その五

 

                         佐 藤 悟 郎

     

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 祭りも近くなった晴れた日、誠治の母妙が、料亭「藤中」の前を通りかかると、料亭の女将千代と娘藤代が通りに出てくるところだった。誠治の母がお辞儀をすると、女将は慌ててお辞儀をした。誠治の母は、藤代を見ると、笑顔を見せた。
「藤代さんでしょう。随分、大きくなって。とても綺麗よ。」
誠治の母は、目を細めて藤代に声をかけた。藤代は、恥ずかしそうに俯いてしまった。
「お千代さんも、お元気で何よりです。文治が急に亡くなり、春先にこちらに戻ってきました。よろしくお願いします。」
誠治の母の言葉は丁寧で、爽やかな響きがあった。藤代と母の千代は、丁寧にお辞儀をして見送った。
「お母さん、とても良い感じの人ですね。どなたですか。」
「篠田様の奥様よ。貴女の友達の、誠治君のお母様よ。とても良い人よ。」
藤代は、そう言われると姿が見えなくなるまで、誠治の母を見詰めていた。
「私、お目にかかったことあるの。私を知っているようだったわ。」
藤代の母は、驚いたように娘を見つめた。
「お前忘れたの。マコのお母さん、そう言って遊んでもらったでしょう。」
藤代は、唖然として母を見つめた。
「マコって、誠治君は、マコなの。」
藤代の声は、少し震えていた。急に悲しくなり、涙が溢れてきた。
「そうだよ。お前知らなかったの。お前、涙が出ているよ。泣いているのか。」
藤代は、頭を振ると、両手で顔を覆った。母から逃げるように、家の中へ駆け込んでいった。

 藤代は、自分が誠治を知り、そして別れようとした中に、自分の悲しさがあったと思った。自分の知らない間に、陥ろうとした世界に、ふと清い世界が甦ったのだ。しかし、なんとしても、自分が済まないと思った。
 物心が付いたとき、もう既に友達だった。その中で、誠治と親しく遊んだ。思い出は、喜びだった。
 幼い頃から芸をやらされていた娘は、確かに誠治に
「いつでもいいから、踊りを見に来てね。」
と言ったのは、隠し切れない事実だった。いや、そればかりでなかった。
「マコちゃんが来ないなら、行くの、嫌よ。」
ただ、「マコ」という言葉を張り上げ、他に、誰の名前も覚えようとしなかった娘だった。ままごとをやるときも、藤代と誠治は、
「あんた」
「お前」
の仲だった。広い木々の中で逃げっこをすると、捕まえるのも見付けるのも、いつもいずれかで、庭に響く声は、今も消えがたい美しい思い出だった。
 藤代が、苛められて悲しんでいるのを見ると、相手が男であれ女であれ、必ず仕返しに行く誠治だった。そして、勝っても負けても、両手に下駄をぶら下げて、泥だらけになった姿で、藤代に笑ってみせるのだった。慰めるように、軽い頷きを見せるのも、誠治の癖だった。
 誠治が、他の土地に行くことになったとき、藤代も行くと言って、母を随分困らせたのだった。泣いた挙げ句、当ても知らず家を飛び出したのだった。母が見付けたのは、もう明け方近くになって、信濃川の渡し船の船着き場で泣いているときだった。子供ながらにも、母も近寄りがたいよそよそしい姿だった。

 誠治と別れた幾日の間は、めそめそすることが多かった。別れた代わりに、藤代はその思い出を大切にしようと努めた。幾年経っても、もう会えないものと思っていたし、ましてや幼い頃のこと、「マコ」とばかり呼んで、名も知らなかったのだった。年盛りに近付くに従って、この世界に染まり始めた。そして、つい夏の頃、その世界に陥ろうとした。自分の世界に入り切ろうとした、ついこの間の心が、音を立てて崩れていった。
 多少なりとも、足を突っ込んだ、この世界の渦の中で、清潔な心で過ごした。何も分からない気質を持って生きてきた。幼い頃の思い出が一番美しく、また、憧れでもあった。そして、自分の正しい姿を、そこに見出そうとしていた。そんな思い出に、また、考えに陥るのだった。一つの言葉であるにせよ、冷ややかな言葉を浴びせたことに、忍びがたい情けなさを感ずるのだった。
 藤代の落とす涙には、自分を取り戻したことに、この上もない喜びの涙だったのだろう。自分が、光栄ある時代のことに、再び心を戻すことができた嬉しさは、これからの藤代に、大切だったに違いない。

 自分が迷い込んだとき、自分を思い出すのが、藤代にとって涙が出るほど、深く感じ入ったのだろう。祭りまでの日々に、何かしら誠治のことを真剣に考え始め、取り止めもない懐かしさ、初夏の日ばかりのことではないように思えた。藤代は、部屋の窓際に凭れ、じっと坂道を見つめた。一瞬、手を強く握られたときの自分の胸の高鳴りも、澄んだ瞳の光にも、別れたことが自分の罪のように思われた。誠治の清らかさに、ふと、今の自分を振り、これからのことを考えた。
「マコから離れることはできない。謝ってみよう。許してくれるまで、謝ろう。」
藤代は、誠治に寄り添うことで、これからの人生が切り拓かれると思った。

 料亭「藤中」では、料亭の脇に「阿房宮」と言う寿司店を構えていた。そこには、藤代の兄、和助が寿司職人二人を使って、店の切り盛りをしていた。
 祭りの前日、誠治は、祖父母と母に従って、寿司店「阿房宮」に入った。店を覗いた女将は、誠治の母と目が合った。女将は、下駄を履いて店に下りて、誠治のいる席まで来た。丁寧にお辞儀をして、
「関口様、よういらっしゃいました。」
と言って、和助を紹介した。
「その節は、大変お世話になりました。誠治君も、大きくなったね。」
女将は、座敷の仕事があるといって姿を消した。間もなくして、神妙な顔をして、藤代が姿を見せた。
「誠治さん、ご免なさい。勘弁して頂戴。藤代、マコだと知らなかったの。どうしても、勘弁して欲しい。」
誠治は、藤代の顔を見ると、俯いた。
「誠治、どうしたの。何かあったの。」
誠治の母が尋ねた。誠治は、首を横に振って見せた。
「藤代さん、上がって座りなさい。」
誠治の母は、誠治の隣の席を指差して言った。藤代は、誠治の祖父母と母にお辞儀をすると、誠治の隣に座った。
「マコ、勘弁してくれる。」
藤代は、誠治の顔を覗き込むように言った。誠治は、顔を藤代に向けると、笑って頷いた。
「大事なことなんだから。言葉で、はっきり言って下さい。」
誠治に向かって座り直して、返事を待っていた。

 丁度そんな時、少し酔った小肥りのお客が、声を掛けてきた。
「関口先輩ではないですか。ご令嬢の妙さんも一緒ですな。」
その小肥りの男は、塚原高等女学校の目崎先生だった。
「まあ、目崎先生ですね。お久しぶりです。懐かしいですわ。」
誠治の母は、懐かしそうに言葉を返した。藤代は、急に黙り込んで俯いた。
「藤代じゃないか。少し話がある。」
そう言って目崎先生は、藤代が同席しているのを見ると、強引に席に上がり込もうとした。
「先生、ここはお客様の席です。私に話があるのであれば、私が先生の席へ行きます。」
藤代は、誠治達にお辞儀をすると、立ち上がり、目崎先生の後についていった。

 

 

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