リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集




   「谷卯木の花」 【その一】

                             佐 藤 悟 郎

 

 【その一】 【その二】 【その三】 【その四】 【その五】 【その六】 【その七】

 

 

 初夏の日差しが道を歩く忠明の目に、柔らかく入っておりました。道の傍の畑中に、大きな桐の木が立ち並び、桐の大きな葉が、道を歩く忠明の日除けとなっていたのです。夕方になり、遊び疲れた忠明は、その道を歩くのが好きでした。
 忠明が住んでいたのは、信濃川の激流の高い崖の上のアパートでした。崖の上の町内は、芝生と丈の低い雑草が混ざり合っている広場があり、住居が疎らにある静かなところで、至る所に桐の木が見える畑となっておりました。
 広場で遊んで、アパートに帰るとき、その桐の立ち並ぶ道を通ってくるのです。その通りの崖の方に、広い庭を持つ薄茶色の家が、木立の幹を通して見えました。白い低い柵で、庭は囲まれていました。

 忠明は、こっそり、その庭の中に入ったことがありました。庭の花壇の花を見つめ、芝草の道を巡りました。快い気持ちで歩き、庭に面したテラスまで行ったのです。家の中は、ただ、ひっそりとしていて、物音一つ聞こえませんでした。花壇の明るい花が華やかに、忠明の目に入ってきたのです。
 そのテラスから十数メートル先は崖となり、信濃川の山間を流れる姿や、遠くの魚沼三山の姿が見えました。庭の藤棚の下にベンチがあり、忠明は、藤の小さな花房を見つめながら座りました。遠くに霞み立つ魚沼三山は、頂がまだ白く、山々が雄々しく重なり、そして連なっておりました。川は大きく左に曲がり、対岸の丘陵は広がって、集落の家々が絵本のように手に取るように見えました。
 忠明は、頬杖をして、暫く見ていたのです。ふと、後ろを振り返って驚き、立ち上がりました。忠明の後ろには、白く透き通るようなドレスを装った、美しい涼子が立っていたのです。忠明は、後ろに向きを変え、その涼子に一礼をして、庭から急ぎ走って逃げ出しました。豊かな黒髪、大きな黒い瞳、輝き微笑んでいる優しい顔、そして、柔らかな純白の衣装、それらを全て目の中に焼き付けて走って行ったのです。

 その涼子と再び会ったのは、やはり遊び疲れて、その桐の立ち並ぶ道を歩いているときでした。髪を長く垂れ、瞳は子供っぽく微笑んでいたのです。小脇にショパンの楽譜集を携えて、涼子の方から、忠明に向かって一礼をしたのです。忠明も恥らいながら、軽く首を落とし、一礼をして涼子を見ました。涼子は、肩を竦めてクスクス笑いました。首を左に傾けて、明るく頷くように会釈をして走り去っていったのです。忠明は、涼子の後ろ姿を見送りながら、快い気分となったのです。

 その後、同じ中学校の校舎の中で、会うことがありました。涼子は忠明より一学年上の人で、音楽教師の娘でした。何故か、学校で会うと、お互いに恥じらい、軽く会釈をして通り過ぎるのです。
 忠明は、時々、その涼子の家の庭に忍び込み、ベンチに座って、遠くの景色を見ておりました。夕方、涼しくなる頃、涼子のピアノを弾く音を聞いておりました。時々は、涼子が忠明の後ろに来て、忠明を見つめ、忠明と同じ風景に目を投げていたことも知っておりました。

 梅雨になろうとする頃、忠明は涼子の家に行きました。涼子が、庭から遠くの越後三山を見つめていました。時々顔を伏せて、両手で顔を覆っていました。肩を揺する姿を見て、泣いているのだろうと思いました。川の崖の方には、頑丈な鉄柵が巡らされ、柵を越えたところには谷卯木の美しい花が咲いているのが見えました。
 涼子は崖の方に向かって歩き、柵の手前で立ち止まりました。次の瞬間、涼子は意を決したかのように、柵を乗り越えようと柵に手と足をかけたのです。忠明は、涼子に何があったのか分かりませんでしたが、とにかく危険な状態だと思ったのです。
 忠明は、庭を駆け抜け、まさに柵から飛び降りようとする涼子に声をかけました。
「涼子さん、危ないですよ。」
忠明の呼びかけに、涼子は振り向いたのです。涙に濡れたその瞳は、悲しみの底に沈んでいるようでした。忠明が手を伸ばすと、涼子は柵を越えるのを止めて、庭に下りました。

 忠明に向かって立ち、俯いて首を振るばかりでした。
「谷卯木の花が欲しいのですね。忠明が取ってきて上げましょう。」
忠明は柵を越え、崖の下の信濃川の激流を見つめながら、谷卯木の花を三本手折りました。
「きっと涼子さんは、崖から飛び降りようとしたんだ。間違いなく、そうなんだ。」
忠明は、そう思いながらも、できるだけ明るく振る舞いました。

 忠明が谷卯木の花を手に持って、柵を越えて庭に戻ったのですが、涼子は俯いておりました。目の前に谷卯木を押し出すと、涼子は顔を上げました。濡れた瞳で、強張った顔を見せ、何か言いたそうに唇を震わせておりました。忠明は、ゆっくり頷きを見せて涼子の瞳を覗きました。
「私、花なんか要らないのです。」
涼子は、ようやく小さな声で言ったのです。
「いいえ、貴女は、この花を取りに行こうとしたのです。」
忠明は、涼子の瞳を見つめたまま、言い聞かせるように言いました。暫く無言のまま、見つめ合っていました。そして涼子の瞳が穏やかに変わっていくのを見ました。

 涼子は、夕方になってピアノの練習をしていると、玄関の扉の開け閉めの音が聞こえました。音楽教師の母洋子が、学校から帰ってきたと思いましたが、ピアノの練習を続けました。以前、手を休めて母を迎えに出て、母に叱られた時があったのです。それからは手を休めることなく、練習を続けることにしたのです。

 母は、ピアノのある広間に来ました。
「そうです、基礎の練習が大事よ。」
そう言って、台所に向かいました。
「この花、どうしたの。まさか貴女が取ってきたのじゃないのでしょうね。」
涼子は手を休め、椅子を回して母を見ました。母は、眉を寄せて疑うように涼子を見つめました。
「崖渕に咲いている花よ。柵を越えて取ってきたのでしょう。」
「違うわ、忠明君が来て、取ってきてくれたの。」
「そう、忠明君って、高野忠明君のこと。」
「そうよ。時々庭に来るのよ。」
涼子が言うと、母は少し安心した様子を見せ、台所へと向かったのです。

 涼子は、夕食が整うと、練習を切り上げた。母と向かい合っての、二人だけの食事をしました。食事の後に、紅茶を飲むのが習慣でした。
「お母さん、忠明君のこと、嫌ではないの。」
涼子は、母に言いました。母は、少し微笑みながら言ったのです。
「忠明君、嫌じゃないよ。勉強もできる優しい子だからね。音楽、とても好きな子よ。」
母は、顔を左に向けて、大きめの白い花瓶の谷卯木の花を見ました。
「お母さん、その花、忠明君が飾ってくれたの。白い花瓶を選んで。」
「ピンクの花、お母さんは好きだよ。忠明君と、何を話したの。」
涼子は、俯いて少し考えていました。
「忠明君、私にショパンを弾いて欲しいと言ったの。私は、からかうつもりで、ピアノなんか嫌いなの。だから弾かないわ。そう言ったの。」
母は、少し驚いた顔をして涼子を見ました。
「そう、残念だったね。」
母は、嘘でも涼子がピアノを嫌いだと言ったのに、心を痛めました。

 涼子が将来ピアニストになることを、母は期待していたのでした。
「私がピアノを嫌いだと言ったら、忠明君、自分がピアノを弾きたいから、そう言ってピアノに向かって腰掛けたの。」
涼子は、母が頷いて聞いているのを見て、話を続けました。
「バイエルがあれば、と言うので渡したの。そうしたら、百番から順次百六番まで弾いていったわ。三回程繰り返して弾いたの。最初はぎこちなかったの。でも最後になると、ぎこちなさもなくなって上手に弾けるようになったのよ。」
「椅子から立ち上がると、ピアノの上に置いてあった楽譜を手にして、暫く見つめていたの。黙って腰掛け、楽譜を前にして弾き始めたわ。ショパンの幻想即興曲の楽譜なの。本当にぎこちなかったわ。」
「私、言ってやったの。下手だわ、と言ったの。そう言ったら、忠明君、下手なことは分かっている。でも、少しでも上手く弾けるように、今、練習しているんです。と答えたの。」
そこまで言うと、暫く俯きました。

 涼子は、真剣な眼差しを母に向け、熱ぽく話を続けました。
「忠明君に言ったの。自宅にピアノあるの。先生に習っているのと聞いたの。そう言ったら、忠明君は首を横に振ったわ。そしてね、音の出ないピアノがあると言ったの。よく聞いてみたら、木の板に、鍵盤と同じ大きさに鍵盤を書いて、鍵盤と鍵盤の間に彫りを入れたのがあると言ったの。私少しおかしくなって、クスクス笑ってしまったわ。」
「黒鍵を段ボールで張り、小さな声を出して板を叩いていると言ったわ。学校で使っているリコーダやハーモニカを吹いて、声が狂わないようにしていると言っていた。」
「そしてね、今ピアノを弾いて、本当のピアノの感触が、溜まらなく有り難いと言っていたの。そして、二回目を繰り返し弾き始めたの。最初の時よりね、素晴らしく滑らかに弾いていたわ。私が、上手なのね、と言ったんだけど、手を休めず三回目に挑戦したの。時々笑顔を私に見せていたわ。鍵盤を見なくても、忠明君はピアノを弾けるのよ。」
「忠明君、帰ると言って、そこのテラスで立って私に言ったの。また来ます。ピアノが空いていたら、ピアノを私に弾かせてください。そう言って、手を振って、笑顔で帰って行ったの。忠明君が帰ると、私は無性にピアノが弾きたくなったわ。忠明君が残したバイエル、幻想即興曲を何度も弾いたの。弾いている内に、私、涙が流れてきたの。楽譜も見えなかったけれど、私の手は勝手に鍵盤の上で踊っていたの。ピアノを弾ける喜びに溢れていると思ったわ。」
そこまで話をすると、俯いて泣き始めたのです。母は、心配そうに涼子を見つめていました。

 突然、涼子は立ち上がると、母の側まで行きました。涼子の目からは、大粒の涙が流れていました。母は、驚いたように見つめました。
「お母さん、ご免なさい。本当は、私、崖から飛び降りようとしたの。毎日のピアノの練習が辛くて、崖から飛び降りようとしたの。でもね、忠明君が止めてくれたの。谷卯木の花が欲しいのでしょう、私が取ってきて上げる、と言って谷卯木の花を手折ってくれたの。忠明君の言ったこと、ピアノに向かっている姿を見ていると、私、我が儘だったと思ったの。本当にピアノが好きだったのかしら、好きだったから辛かったのだと思ったわ。」
そう言うと、涼子は縋るように母の胸に顔を埋めました。
「お母さん、ご免なさい。これから一生懸命、練習するわ。いつまでも、お母さんの娘でいるわ。」
涼子は、母の胸に顔を埋めて泣きました。母は、優しく涼子を抱き締めました。


【その一】 【その二】 【その三】 【その四】 【その五】 【その六】 【その七】