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「谷卯木の花」【その六】
佐 藤 悟 郎
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忠明は、東京芸術大学に進みました。兄の孝平は、町の文化会館竣工のピアノコンクールで忠明の演奏を聴いていたのです。忠明の大学への進学について賛成をしたのです。僅かであるが学費などの仕送りもすると言ってくれました。堂本の母も、娘静子を通して支援の申し出をしたとのことでしたが、忠明は丁寧に断りました。静子自身は、東京の女子医大に入りましたが、ピアノも弾き続けていました。東京にある父のマンションにピアノを入れて、そこから大学に通ったのです。
忠明は、大学近くの大学生が多く入居している安アパートを借りて生活を始めました。大学では、藤原先生から指導を受けることになったのです。忠明のピアノに対する情熱は変わるところがありませんでした。藤原先生の指導は厳しく行われましたが、指導以外では優しく忠明に接しておりました。忠明は、夕方になってアパートに戻ると、簡単な夕食を作って食べ、夜は文学小説や詩集などを読んでおりました。
学生たちのコンサートも幾度か催され、一般の人も聴きに訪れていました。忠明は、そんなコンサートにも積極的に参加し演奏をしていたのです。作曲を学ぶ学生や声楽の学生とも交際することが多くなり、学生が作曲したピアノ曲を演奏したり、声楽の学生の伴奏なども進んでしておりました。時には、学生コンサートに堂本の母や娘静子が姿を見せることがあり、コンサート終了後に喫茶店やレストランで時を過ごすこともありました。上級生との交わり、卒業した先輩との交わりも大切にして避けることはなかったのです。
藤原先生は、練習が長く続くと、忠明の悪い癖が出てくるのを認めていました。そんな時、忠明は自ら 「また、悪い癖が出てしまった。」
そう言って、弾き改めて更に違う曲へと進みました。何年か後には改善されるものと藤原先生は確信していたのですが、進級あるいは卒業する時の成績が心配だったのです。特にピアニストとして世に出るには、日本音楽コンクールである程度の成績を収めなければならないと思っていました。それらしきことは忠明にも伝えていたのです。忠明は、
「私に、現在それだけの実力があるかどうか分かりません。私はピアノは勿論でありますが、全ての音楽が好きです。音楽を広く修得したいと思っております。」
そんな答えを幾度か受け取ると、藤原先生は忠明に失望すら抱いたのです。
「ピアノ弾きが、満足に弾けない癖に、音楽全体を論じている。なんと軽薄なことか。」
と藤原先生は思ったのです。忠明に対する熱が冷め、厳しい指導もしなくなりました。ただ聴くだけになったのです。ただ忠明の貧しい生活には心を配っておりました。昼食を用意して一緒に食べる、あるいは食堂や大学の近くの店で食事をすることが多かったのです。着ているものが清潔であることは、毎日の服装で分かっておりました。三年生になると、忠明の指導は男性の伏見教授に代わったのです。
忠明が三年生となって秋を迎えました。伏見教授の厳しい指導で、練習も激しくなってきたのです。長い期間、忠明から離れていた藤原先生が、伏見教授に忠明について尋ねたのです。
「高野は、彼の音楽を求めていますね。それも順調に身に付いているように見えます。」
藤原先生は頷きを見せました。そして長い時間の練習の場合、ピアノの音が割れるようなことがないか尋ねました。
「多少は強い音がする時もありますが、気になる程ではないですよ。」
と伏見教授は答えたのです。藤原先生は、家に帰ると思いました。敢えて忠明の指導から離れたことが間違っていたのか気がかりだったのです。忠明が口癖のように言っていた言葉
「私は音楽が好きなのです。勿論、ピアノは大好きです。」
そう言いながらバイオリン、ビオラ、トランペット、ハープなど多くの楽器に耳を傾けている姿が見られました。
「悪い癖も放置したまま、満足でないピアニストが、何ということをしているのだ。他の音楽、楽器を聴く余裕などないはずで、もっと激しい練習をしなければ物にならないのに。」
そう思うと、多少腹が立って指導を止めてしまったことを思いました。ベートーベンやモーツアルトを思いました。一体何者だったのかと思ったのです。
「ピアノに優れている天才なのだ。ピアノだけではない。他の楽器を駆使した音楽も作曲している。」 「もしや高野も、それを目指しているのではないか。」
そんなことを藤原先生は思いました。ピアノの技術的なことは、年月を経れば克服できる、相当な努力が必要であるが確実にできることであると思ったのです。今すぐに克服しようと思って無理な練習をすれば、指や腕が動かなくなるリスクがあり、忠明はそれを知っていたのではないかと思ったのです。
藤原先生は、それから数日後の午後になって伏見教授と一緒に忠明の練習を聴いておりました。確かに伏見教授が言ったように、練習する曲の中に、曲に対する抒情的な理解が溶け込んでおり、悪い癖も気にならない状態となっておりました。藤原先生は、
「やはり、この子は何かを持っている。何よりも自分を知っている。」
そう思うと共に、過ぎ去った若かった頃の自分を思ったのです。無理に無理を重ね、そして病を患ってしまった。世に出るには、それ以外の方法しかないと思っていたこと、その考えは今でも誤りがなかったと思いました。しかし人間には、それぞれの能力があり、その能力に従って伸長していくものだと思ったのです。
「高野は、もしかしたら私以上の能力、優れた思いを持っているのではないか。」 と思いました。
「私は、音楽という広い世界の中で生きたいのです。」
そう言っていた忠明の声が思い浮かんだのです。夜遅くまでピアノの練習をしている忠明の姿を思い、更に抒情溢れる音を追求する態度は、自分には余りなかったと思いました。譜面だけを正確に弾けば良い、それが作曲家の意志であり、作曲家に近い理想的な曲なのだと思い込んでいたのです。それは作曲家の音楽であり、その域を超えないものなのです。ただ、作曲家の真意というものは、誰も知ることができないと思いました。藤原先生は、そう思うと忠明は、単にピアニストだけではなく、作曲も望んでいると思いました。
忠明が四年生になると、それが現実となったのです。ピアノ伴奏による歌曲を作曲し、作曲仲間の手によって伴奏が編曲されて先輩歌手によって発表されたのです。流行歌のごとく人々に歌われました。忠明にも少しの収入となりました。藤原先生は、
「高野は、自分の道を切り開いていく人である。」 と宮崎先生に語ったことが間違いなかったことを思いました。
忠明は、大学を卒業した後、しばらくの間藤原先生の家に通ったのです。それはピアノの練習をするためでした。まだ、自分の演奏が十分でないことを知っていたからでした。
「何故、コンクールに出ないの。納得がいくまでピアノを弾きたいのね。私のピアノ、自由に使って良いのよ。」
藤原先生は、そう言って家の鍵を手渡しました。 「お手伝いさんがいない時でも入って良いのよ。お手伝いさんには言っておくから。」
そう付け加えました。忠明にとっては、それは大変有り難いことでした。それと同時に生活のための収入の道を捜さなければならないと思ったのです。音楽会やサークルでは決まった収入とならなかったことから、藤原先生の紹介で音楽教室の講師となったのです。週に三回の半日の指導で、生活の糧となる収入がありました。その音楽教室は、都内十数カ所があり、経営者は大学の先輩でした。
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