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   「谷卯木の花」【その

                             佐 藤 悟 郎

 

【その一】  【その二】  【その三】  【その四】

 


 その日の夜になって涼子は、母である宮崎先生に電話で話したのです。話を聞いた宮崎先生は、
「素晴らしいことだわ。是非行くべきよ。来週の約束の日に行くわよ。私からも、藤原先生にお願いするわよ。」
と嬉しそうに答えました。涼子も母の快諾の返事を聞いて嬉しく思ったのです。ただ、多額の費用が要ることを思うと、心配も横切りました。

 約束の土曜日になって、涼子は宮崎先生と共に桐葉女子学園の藤原先生の部屋に訪れました。部屋からはピアノの音が聞こえました。涼子は藤原先生のピアノが終わるのを待とうとしておりましたが、宮崎先生はドアをノックしました。するとピアノの音は止み、
「どうぞ、お入りになって。」
軽やかな藤原先生の声が聞こえました。宮崎先生と涼子は、ドアを開けて中に入り、そしてドアを閉めて並んで立っていました。藤原先生は、二人に向かって歩きながら言いました。
「わざわざ遠くから来ていただきました。」
藤原先生は、二人に向かって軽く会釈をしたのですが、宮崎先生は深くお辞儀をしました。藤原先生は、戸惑ったような顔をして、宮崎先生を見つめました。宮崎先生は顔を上げると藤原先生に向かって、首を傾け微笑んで一度頷きを見せたのです。その様子を見て藤原先生は思わず言ったのです。
「失礼ですが、片桐さんではないですか。」
驚きの表情を藤原先生は見せたのです。
「片桐です。懐かしいですね。」
宮崎先生は落ち着いて答えました。涼子は、突然の出来事に唖然としておりました。ソファに腰を下ろして、藤原先生と宮崎先生の話を、涼子は頷きながら聞いておりました。二人は、桐葉女子学園のピアノ科の同期生だったこと、それも当時は仲の良い間柄だったことを知ったのです。

 藤原先生は、宮崎先生と涼子に、ドイツへの留学についての経緯について話しました。ドイツのピアノ奏者で指導者でもあるケンプ氏が収録のため来日しており、収録が済んだことから日本音楽コンクールを聞きたいと藤原先生に電話がありました。藤原先生がケンプ氏を迎えに行き、二人で会場に入ったのです。コンクールが終わって審査結果についてはケンプ氏は無頓着でした。順位は別として、ケンプ氏は、特に涼子の演奏に興味を示したとのことでした。

 コンクールの翌日、ケンプ氏はドイツへ帰国するため、藤原先生と共に空港に行きました。別れ際にケンプ氏は藤原先生に言いました。
「宮崎涼子を招きたい。素晴らしい素質を持っている。話してみてくれないか。」
藤原先生は、特待扱いでの要請だったのに驚いたとのことでした。
「どう、娘さんをドイツにやって勉強させては。絶好の機会だと思いますよ。」
藤原先生は宮崎先生に言いました。宮崎先生は、涼子の顔を覗き、尋ねました。
「私は構いませんが、どう、涼子、行きたいの。勉強もそうだけれど、他にも辛いことが多くあるのよ。」
涼子は、少し緊張しておりましたが、
「私、ドイツへ行って勉強したい。辛いことなんか大丈夫よ。」
と、はっきりと答えました。そこで留学の話は決まり、その時期や手続きなどは藤原先生が行うことになったのです。

 涼子のドイツ行きは、思いの外早くなったのでした。早く環境に慣れること、練習の方法や時間に合わせて生活することが主な理由でした。涼子はドイツに向かう前に、短い間でしたが家に帰ってきたのです。自分の部屋に入って、そう多くなかったのですがアルバムや楽譜などを集め、箱の中に入れるとドイツへ送るレッテルを貼ったのです。

 忠明は、学校の授業が終わると宮崎先生の家に向かいました。庭の付近まで来ると、ピアノ曲が流れてくるのが聞こえました。忠明は、それが涼子が奏でているのだと分かりました。
「美しい音色だ。間もなくドイツに行くのか。」
そう思うと、玄関から入ると涼子の邪魔になると思いました。音がしないように庭に入り、ベンチに腰を下ろして流れてくるピアノ曲を聴いておりました。長い演奏は淀みなく続きました。夕方になって宮崎先生が帰ってくると、演奏は間もなく終わりとなりました。宮崎先生は涼子を見て、そっと庭の方を指差しました。
「あら、忠明君だわ。あんなところで聴いていたなんて。」
テラスへの戸に近寄った涼子に、忠明は頭を下げました。涼子は戸を開けると手招きをしました。
「忠明君、中に入って。忠明君のピアノ聴きたいわ。」
忠明は笑って見せました。忠明は、玄関に回って家に入り、ピアノのある広間はいると、忠明は
「涼子さん、ドイツ行きおめでとう。いよいよ世界に羽ばたくのですね。心から応援しております。」
と、明るく、弾んだ声で言いました。涼子は微笑みながら
「ありがとう。精一杯頑張るから。」
そう言って、更に
「ショパンのエチュードを弾いてくれる。」
と言ったのです。涼子は、忠明がどれだけ上達したのか知りたかったのです。忠明は、頷くとピアノの前に腰を下ろしました。譜面台には、ベートーベンの譜面置いてありました。先ほど、涼子が弾いていた曲でした。忠明は、目を閉じて鍵盤に両手を置きました。そして弾き始めたのです。十二のエチュードを弾き終わりました。宮崎先生と涼子の拍手の音が、忠明の耳に入りました。
「忠明君素晴らしいわ。涼子、胸の中に残して置くわ。」
涼子は、忠明の成長を驚いて聴いていたのです。ただ後にいくに従って、激しい音が続くのを感じました。それは板をピアノ代わりにしていた癖が抜け切れていないのだと思ったのです。
「でも、後になると、音が荒くなってくるのです。悪い癖というのは、なかなか抜けないのですね。」
そう言う忠明の言葉に、自分自身を知っているのだなと涼子は思いました。難しいことであると思いましたが、いずれ克服できると思いました。その時に、忠明が素晴らしいピアニストになると思ったのです。広間のテーブルに三人で腰掛け、クッキーを食べながらコーヒーを飲み始めました。
「私、明日東京に戻り、一週間後の水曜日に日本を発ちます。お母さんと忠明君に手紙を書くわ。でも、落ち着いてからよ。そんな余裕、当分ないと思うけど。」
涼子は、溢れんばかりの笑顔を見せて言ったのです。

 翌日、高校の授業が終わり、忠明は宮崎先生の家でピアノの練習をしておりました。涼子は東京に向かった後で、忠明は少し寂しく思いました。そして一週間が過ぎ、涼子はドイツへと向かったのです。宮崎先生は、その日、東京へ赴き見送りをしたのでした。

 暫くは宮崎先生は気が抜けた様子でした。忠明は、相変わらず熱心にピアノを弾き続けていました。涼子からはドイツに着いたという便りがありました。宮崎先生は、涼子のことを心配しておりましたが、忠明が高校三年生になり夏を過ぎた頃になると、忠明の将来についても考えずにおられなくなったのです。
「確かに優れたピアノの才能がある。でも家が貧しく、ピアノを続けるのは無理だろう。」
そう宮崎先生は思っていたのです。大学に行き学費すら工面することすらできないだろう。宮崎先生は援助をしたいとも思いましたが、涼子への費用で精一杯だったのです。忠明に将来のことについて聞くこともできませんでした。

 忠明は、夏休みが終わると担任の山崎先生に個人面接ということで相談室に呼ばれました。高校卒業を控え、三年生全員から卒業後の進路相談を聞くのです。忠明も、山崎先生から卒業後の進路について尋ねられました。
「私はピアノが好きです。卒業したら東京芸術大学へ行って勉強をしたいと思っております。」
忠明は、そう答えたのです。山崎先生は、不思議そうな表情を見せて忠明を見つめたのです。
「君がピアノをやっているという話など聞いたことがない。まあ趣味でやっているのだろうが、ピアノ、いや音楽というものは、そんなに甘い世界ではない。君ほどの学力があれば、地元の国立大学に入れるだろう。他の道を選んで、ピアノは趣味で続ければ良いのではないか。」
そう山崎先生は言ったのですが、忠明は首を横に振りました。
「確かに、そういう道もあるでしょう。私の家が貧しいことも先生は知っていると思います。家には、できるだけ面倒をかけずに、私の道を進みたいのです。」
そう答える忠明についての面接は持ち越しとしたのです。山崎先生は忠明との面接が終わると、教務室に戻りました。そして白川先生という若い音楽の先生のところに行きました。
「私の組の生徒が、東京芸大のピアノ科に進学したいと言っているのです。名前は、高野忠明という生徒なのですが、先生は知っておりますか。」
山崎先生は白川先生に尋ねたのです。白川先生は、天井を見上げて少し考えている様子でした。顔を下ろすと、山崎先生を見ました。
「高野君、そんな生徒なんか聞いたこともありません。大方、趣味でやっているのでしょう。趣味でやっている人が、そういう妄想的に思う人って、案外多いのです。」
そんな風に白川先生は、山崎先生に答えたのです。
「白川先生、高野が本物かどうか、調べていただけませんでしょうか。」
山崎先生が頼むと、白川先生は頷いて
「分かりました。進路指導のためなのでしょう。早めにやります。」
と返事をしたのです。

 それから二日後、山崎先生から忠明に、放課後に教務質の白川先生のところへ行くように言われました。放課後になって忠明は教務室に行き、白川先生の脇に立ち、一礼した後、名前を告げました。白川先生は、
「高野君、初めまして。音楽担当の白川です。高野君、ピアノが好きだって山崎先生から聞いたのです。私、高野君のピアノを聞きたいの。これから一緒に音楽室に行ってくれる。」
忠明は、落ち着いた目を白川先生に向けました。
「進路指導の関係ですね。よろしくお願いします。」
と、忠明は答えました。白川先生の後に従い、音楽室に向かいました。その途中、白川先生は、忠明に言ったのです。
「趣味でピアノを弾くことと、芸大に行くことは別問題よ。私は、東京の私立の音楽大学でピアノを習ったのよ。ピアノは、とっても奥が深いわ。それに多くの人がピアノに憧れているの。まるで激しい競争よ。」
忠明は、頷きながら白川先生の話を聞いておりました。音楽室に入ると、忠明と同級生の堂本静枝という女生徒がピアノを弾いておりました。ショパンの「幻想即興曲」でした。堂本静枝は、開業医の娘で、学業にも優れておりました。弾き終わるまで、白川先生と忠明は、教室の椅子に腰を下ろしておりました。
「堂本さん、次は高野さんに弾いてもらいます。一緒に聞きましょう。譜面は、そのままにしておいて。」
白川先生が堂本に言うと、堂本は頷いて、ピアノの前から音楽室の椅子に腰掛けました。
「高野君、ピアノをやるの。素敵だわ。聴かせて。」
そう言って、堂本は忠明を送り出しました。忠明はピアノの前に腰を下ろすと、両手で鍵盤を撫でました。
「今、堂本さんが弾いていた曲を弾いてね。誰でも、よく弾く曲よ。」
白川先生は、忠明の左横に立って言いました。そう言って譜面の最初のページにしたのです。白川先生はページめくりをするために立っていました。忠明が弾き始めると、白川先生の目の色が少し変わりました。
「この生徒は、楽譜を見ていない。暗譜している。」
そして一瞬、優れたピアノ弾きではないかと思ったのです。そんな考えに取り憑かれているうちに、忠明の演奏が終わりました。堂本の拍手する音が白川先生の耳に入ったのです。ピアノに向かって手を休めている忠明を、我に返った白川先生が見つめました。
「高野君、とっても素晴らしいわ。ショパンのエチュードを聴きたいわ。お願いできる。」
と白川先生は言いました。そのエチュードで弾き手の実力が分かると思ったのです。白川先生は、堂本の隣りの椅子に腰を下ろしました。間もなく忠明はショパンのエチュードを弾き始めたのです。激しい指使い、寸部の誤りもなく、十二のエチュードを弾きあげたのです。白川先生は、俯いて聴いていましたが、身震いさえ感じたのです。堂本は、唖然として声さえ出ませんでした。
「白川先生、私のピアノ、よろしかったでしょうか。」
黙っている二人に向かって忠明は言いました。その声で、白川先生は忠明を見つめ、立ち上がりました。
「高野君、ご免なさい。この教室に来る時、偉そうに私が言ったこと、謝ります。ただただ、素晴らしい演奏でした。」
そう言って、忠明に向かって深く頭を下げました。顔を上げて、白川先生は忠明に尋ねました。
「何処でピアノを弾いていたの。」
忠明は、少し考えましたが、
「宮崎先生の家です。私の家にはピアノがありませんから。」
忠明は、素直に答えました。
「宮崎先生?。そんな音楽教室、何処にあるの。」
忠明は俯き、返答に困ったのです。堂本が言いました。
「宮崎先生って、中学校の音楽の先生でしょう。宮崎先生が留守の時でも、ピアノの音が聞こえるという噂を聞いたことがあるわ。」
堂本が言ったことに、忠明は頷きました。白川先生は、中学校の宮崎先生のことは知っていました。高校時代は、東京の桐葉女子学園でピアノを専攻していた人で、ピアノでドイツの音楽家ケンプ氏の招きで留学した宮崎涼子の母であることを知っていたのです。白川先生は、無言で眩しそうに忠明を見つめました。忠明は、二人に向かって深く頭を下げると、音楽教室から出て行きました。


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