「英俊と紅蘭」 第一話
佐 藤 悟 郎
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昔、あるところに「陵」という国があった。陵の国は、東が海で、西は肥沃な平野を隔てて山地となり、更に西は人が超えることができないほど高い山脈となっていた。陵の国は、北に丘の地、南に略の地、東に惣の地、西に哀の地と、四つの地に分かれておりました。陵の国を治める皇帝は、丘の地におり、略、惣、哀の三つの地に太守を置き、陵の国を治めておりました。陵の都は、丘の国にある京丘でした。
哀の地の山奥の寂しい小道を、少年が旅をしていました。少年は、林の茂みの中で腰を下ろし、絵を描き始めました。水に墨を溶かし、山道の木々の様子を見事に描いておりました。少年は、絵を描き終わると、また歩き出しました。夜の月に照らされ、少年はなおも歩きました。木々の間を廻り、枯木を拾うと岩陰で火を炊き、体を温めながら憩いに就きました。
朝になって、山の頂の方から少女が、道を下って来るのに気付きました。少年は、丁度朝食の支度をしておりました。少女は、疲れた様子で火の側へ来ました。朝の煙の中に、少女の姿が白く美しく浮かんでおりました。
「お早う。どうかしましたか。こんなに朝早く。」
「はい、一人ですから、夜は眠るのが怖くて、歩き続けてきました。」
少年は、向かいに座り心地の良さそうな石を置いて、少女に座るように勧めました。そして朝食を少女の目の前に出しました。
少年は、にこやかに食事をする少女を見て、筆を執りました。
「私を、お描きになるの。」
少年は何も言わず、描き始めておりました。光豊かな黒髪が、耳朶の直ぐ後ろに束ねておりました。澄んだ瞳は、はっきりと滑らかに浮かんでおりました。鼻と唇はあどけなく見えました。衣服は、キの人のように薄絹を幾枚も重ねておりました。
少女は、姿勢を余り動かさないように、食事をしておりました。立派に描き終わると、少年も食事を取り始めました。少女の絵は、草の上に置いてありました。少女は、そっと覗き込んで微笑みました。
「とてもお上手です。本当に。」
「絵を描くことが好きなのです。心に適うものを見ると、ひとりでに筆を執ってしまうのです。」
少女は、少年が見事に自分を描いたので、褒めそやしました。少年は、恥ずかしそうに言いました。
「お名前は。」
「紅蘭と言います。」
「私は、英俊と言います。紅蘭さんは、これからどこに。」
紅蘭は、英俊と一緒に旅をしたいと思いました。
「英俊さんこそ、どこに行くの。」
と、尋ね返しました。英俊は、胸を張って言いました。
「キへ、絵を習いに行きます。」
「都へ行くの。私も都へ行くの。連れて行ってください。」
英俊は少し躊躇いました。自分は絵が好きで、いつでもどこでも、気に入ったところに留まる癖がありました。それで英俊は、紅蘭に都に着くのが早くないかも知れないと言いました。
「私も、そんなに急ぎません。だから連れて行ってください。」
英俊は、一人では心細いので、快く受け入れました。
紅蘭は、疲れたと言って、英俊の夜具を枕に眠りに入りました。英俊は、眠っている紅蘭を飽きることもなく描き続けました。暖かな日差しが、木々の葉の間から差し込み、山道や草花を照らし、淡い彩りを添えていました。
二人が一緒に旅立って数日が経った夕暮れの時でした。英俊が、山渓の美しさに誘われて、谷間の細道や林の中を巡っているうちに、とうとう道に迷ってしまいました。二人は、途方に暮れながらも頂きに向かって歩いていきました。頂に着くと、山間に陽が落ちるのが余りにも見事でした。英俊は、迷ったことも忘れ筆を執って、絵を描きました。紅蘭も、それに趣を添えるように、にこやかに歌を歌いました。遠い谷間に夕霧が立ち昇り、夕陽を浴びて紫紺に輝いておりました。紅蘭の歌声は、静かで澄み切った山間に響き渡りました。
陽が落ちて暗くなると、二人はさすがに困りました。絵も描けないし、疲れも出てきました。その上、山の夜は寒かったので、眠ってしまうことはできませんでした。とにかく木を集め、火を炊きました。空には半月が照り、地上に光を投げていました。
「紅蘭さんには、済まないことをしたね。」
英俊が謝ると、紅蘭は微笑んで首を振って見せました。英俊は、紅蘭のために柔らかい草を集めて火の側で床を作りました。床は露で濡れていたので、乾くのを待っておりました。
どこからともなく一人の白髪の老人が現れ、二人の前に立ちました。老人は、暫くの間黙って二人を見つめ、そして腰を屈めて尋ねました。
「どうしたのじゃ。見れば年の端もいかぬ二人、この山奥で。」
「道に迷ってしまったのです。」
老人は、露で濡れた草を集め、火の中に投げ入れて火を消しました。
「それは、さぞ困っただろう。わしに付いてくるがよい。わしの庵に泊めてやろう。」
そう言うと、老人は歩き出しました。
英俊と紅蘭は、老人の後に付いていきました。時折老人は振り返り
「この坂道は危ないから、気を付けるのだぞ。」
と言いました。二人は寄り添って、足下に注意をしました。遥か谷の下の方に灯りが見えました。老人の庵でした。
老人の庵に入ると、早速老人は、英俊と紅蘭に暖かい乳を勧めました。老人は、向かいに座っている紅蘭をじっと見つめておりました。二人は、暖かい乳を飲み干すと、老人を見つめました。
「お爺さんは、どうしてこんな山奥に住んでいるのですか。」
と英俊が尋ねました。白髪の老人は黙って、紅蘭の顔を見ておりました。それから急に顔を綻ばせて、二人の名前を尋ねました。
「英俊君と紅蘭さんかね。お爺さんは、キが嫌いで山奥に来たのだよ。それで二人はどこから来たのかね。」
と言いました。二人は、顔を見合わせました。英俊が先に言いました。
「深山の雲江のほとり、葉邨から陵のキ、京丘に絵を習いに行く途中です。」
次は、紅蘭が言いました。
「私は、深山の山の中から来ました。英俊さんと一緒に、都へ行きます。」
紅蘭が言うのを聞いて、老人は笑いました。
「そうかい、深山の山の中からね。女の子が、ここまでよく来られたものだ。紅蘭さんは、何のために都へ行くのかね。」
紅蘭は、老人にそう尋ねられて困りました。
「はい、都に行って踊りを習いたいのです。」
と紅蘭は答えました。老人は、頷きながら
「そうかい、紅蘭さんは踊り子になりたいのか。しっかりやりなさい。」
と言いました。英俊は、目を見張って言いました。
「紅蘭さんなら、きっと踊り姿が美しいよ。きっとね。」
紅蘭は、少し恥ずかしそうに俯きました。
翌朝、紅蘭が目を覚ましますと、もう英俊は起きていて、縁に出て筆を執っておりました。庭の柳が風に戯れ、清々しい朝でした。老人は、庭を掃いておりました。
朝の食事を済ませ、英俊と紅蘭が旅立つ間際に、老人は二人の前に二つの布袋を出しました。そして静かに言いました。
「この布袋の中には、それぞれに笛が入っている。赤い布袋は紅蘭さんに、青い布袋は英俊君にあげよう。キまでは、まだまだ遠い。困ったときや、閑なとき、この笛を吹くが良かろう。ただで上げる訳にはいかない。英俊君は、今朝描いた絵と交換しよう。さて、紅蘭さんは、何と交換してくれますか。」
紅蘭は、考えました。笛の心得がありましたので、
「何も差し上げるものはございません。ただ、私は少し笛の心得がありますから、私が習った曲と交換いたしましょう。」
老人は、ひどく悦びました。紅蘭は、赤い布袋を手にしますと、庭に向かって縁に座り笛を取り出しました。笛に唇を合わせ、横に笛をかざして吹き始めました。紅蘭は、手にした笛が立派な笛だと分かりました。
紅蘭の笛の音が絶えても、余りの美しさに英俊と老人は笛の余韻に酔っておりました。聞いたこともない優雅な曲で、耳から暫く離れなかったのです。紅蘭も、笛の音がとても良いので、我知らずに酔っていたのです。しばらく経って英俊は、突然筆を執りました。紅蘭が吹いた曲の余韻を絵に描き上げたのです。天の国を思い、その景色を描いたものでした。英俊は、その絵を朝描いた絵に添えて老人に手渡しました。
老人は、庵の玄関から見晴らしの良いところまで出て、右手を上げて人差し指を指して言いました。
「こちらの道は、山奥に向かって道がなくなってしまう。都へ行くには、街道に出なければならない。街道に出るには、この谷を渡り、向こうの山の中腹の道を下っていかなければならない。」
老人は、二人に街道への道を教えた。山の細道を並んで去っていく二人の姿をいつまでも見送っておりました。英俊と紅蘭は、老人に教えてもらったとおり、谷底の川まで降りました。そして川伝いに少し歩き、中腹に上がる小道を見つけて歩いていきました。
谷川には川の幸、山には入れば山の幸、それを糧にして旅を続けました。それは楽しいものでした。川の浅瀬に足を入れ、水を撥ね上げて遊びました。山の太い木の幹に身を隠し、まごついている相手を驚かせたりもしました。互いに影を追いながら、分かれ道を急いで怖くなって引き返えし、峠に差しかかると夕陽を見たりしました。渓谷を見下ろして、背中合わせに尻をついて、英俊は筆を運び、紅蘭は笛を吹きました。夜には夜の豊かな語らい、朝には清らかな目覚め、昼には草木や小鳥との出会いがありました。
二人は、ようやく街道に出ました。旅する人は、足早に通り過ぎていきました。夕暮れ近くになって、山が開け、遠くに平野を望むことができました。道の遠くに、村が見えました。英俊と紅蘭は、村外れで一夜を明かすことに決め、蓄えていた木の実を食べて、都への思いを語り合いました。そんなところに、突然十人ほどの獣の毛皮で身を包んだ怪しい者に、二人は囲まれたのです。
「見れば子供ではないか。どうしたのだ。」
左目を布で覆った頭らしき者が、問いかけました。
「都、京丘へ行くところです。」
と英俊が答えると、片目の男は、
「それは大変だな。まだまだ遠いぞ。」
と言いながら、紅蘭に目を移したのです。また目を戻し、英俊の持っている絵を取り上げました。
「これはお前が書いたのか。中々上手い。売り物になるぞ。」
そう言って、全ての絵を手下らしき者に渡しました。英俊は、立ち上がって言ったのです。
「返してください。」
そう言って、絵を取り戻そうとしたところ、片目の男に遮られました。そして紅蘭の脇に押し倒されたのです。
「お前達二人、高く売れそうだ。見たとおり、俺たちは盗賊だ。言うことを聞かなければ、手荒くするぞ。」
そう言うと、片目の男は手下に二人を連れて行くように合図をしたのです。英俊と紅蘭は、盗賊に囲まれて歩きました。盗賊が通ると、村の家々の戸は素早く音を立てて閉められていくのです。
英俊と紅蘭は、大きな寺の門を見ると、示し合わせたように一目散に寺に向かって走り出しました。二人の盗賊が、後を追いました。
「追うな、引き返せ。龍慧寺だぞ。引き返せ。」
片目の男が叫んだのですが、二人の盗賊は英俊と紅蘭を追い続けたのです。英俊と紅蘭が山門をくぐり抜けました。追うように二人の盗賊が、山門を通り抜けようとしたときでした。棒を持った僧に顔面と足を叩かれ、二人の盗賊はその場で倒れ込んでしまったのです。
「骨は折れてはおらぬ。立ち去れ。」
二人の盗賊は、起き上がると駆けるように逃げていきました。
英俊と紅蘭は、長い石段を登り切り、後ろを振り返りました。盗賊が追ってこないのを見て、少し安心しました。再び、寺の境内に向くと、そこには老師と老師の脇に五人の僧が立っているのが分かりました。
「こんな夜に、未だ年もいかぬ二人が、どうしたのだ。」
脇に立っている僧が、物静かに尋ねました。英俊は、今にも泣きそうな声で答えました。
「都、京丘に行く途中だったのです。盗賊に襲われました。私達を売るのだと言っていました。大切な、私の絵も奪われてしまいました。」
「そうか、それは可哀想なこと。今夜は寺で泊まるがよい。これからのことは、明日にでも話を聞くことにしよう。ただ、女人は長く寺に置いてはおけぬ。」
と、その僧が言いました。ただ老師は、紅蘭を見つめていました。脇に立っていた一人の僧に、英俊と紅蘭が連れられ、近くの僧坊に向かっていきました。英俊の後に歩く紅蘭が、老師の前を通るときでした。老師は、紅蘭に向かって両手を合わせ、拝むように深く頭を下げるのでした。残っていた僧は、不思議そうに老師を見つめたのです。
「英俊と紅蘭」
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