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      「英俊と紅蘭」 第七話

                          佐 藤 悟 郎

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 江夏皇帝は、英俊と羅清が去ってみると、将軍館での飲み食いもなく、話し相手もなくなって寂しく思いました。紅蘭を尋ねる訳にもいかず、宮殿内を時折溜息をつきながら、そぞろ歩きをしているのです。張学参は、英俊が京丘から離れると、江夏皇帝が寂しそうな姿をしているのを見ました。張学参は、江夏皇帝に言いました。
「皇帝様、何をそんなに気落ちしているのです。英俊殿、羅清殿がいなくなり、寂しい気持ちは分かります。元々、皇帝はただ一人です。その立場とは寂しいものです。皇帝たる者は、威厳を保ち、国を治めることに考えを巡らせなければなりません。」
また、ある時言いました。
「国を富ませる前に、皇帝の立場を確固たるものにしなければなりません。皇帝の財を蓄えなければなりません。京丘の都の外壁を、外敵から守るため強固にしなければなりません。」
更に、時を見ては、張学参は江夏皇帝を諭すように、次のようなことを言いました。
「民を、余り野放しにしてはなりません。勝手に物事を考え、行動することになるでしよう。時には、反乱に至ることもありましよう。ある程度の税をかけ、賦役を課することも必要です。それは、皇帝の財を富ませることにもなります。」
「民を治めるには、規律を作り、その規律に従わせる必要があります。皇帝が、民を支配していることを熟知させるのです。」
「皇帝の周囲を考えなければなりません。兄弟もなく、頼れるのは、血の結びつきのある人です。略の太守は、血も薄くなっておりますが、惣の太守は、皇帝の母の兄で、伯父に当たり、その子は従兄に当たります。何事も親しくされ、お互い頼るようにしなければなりません。」
江夏皇帝は、張学参の言葉に耳を傾け、尤もなことを言っていると思っておりました。

 ある日、妃の桂英が紅蘭のところへ出かけていくのを、学参は見ておりました。学参は、江夏皇帝に言いました。
「妃様は、紅蘭殿のところへお出かけになった様子です。私は、今までそんな姿を見て、少し変ではないかと思っておりました。妃様が出向くのではなく、紅蘭殿が、妃様の思う時に来るようにされては如何でしようか。それが、妃様の威厳ともなりましょう。楽のための部屋を造り、それを機に紅蘭殿を招くようにしたらよろしいかと思います。」
江夏皇帝は、張学参の言うことにも理があると思った。

 年月を経るに従い、哀の地が繁栄するのをみて張学参は、江夏皇帝に言いました。
「哀の太守、英俊殿は哀の地を強固にされ、繁栄をしております。皇帝は、それを喜んでおります。しかし私は、英俊殿は危険な人と感じております。」
江夏皇帝は、張学参が意外なことを言ったと思いました。張学参は、皇帝の顔色を窺いながら、更に話しを継ぎました。
 張学参は、色々なことを知っていました。陵の国の草創期に起きたことを江夏皇帝に話しました。
 その頃、国は大いに乱れておりました。初代の皇帝になった人は、優れた者を集め頭角を現し、皇帝の位に就いたのです。しかし優れた者が、いずれ皇帝の位を窺い反乱を起こしました。
 皇帝には、特に優れた数人の武将がおり、その者達が乱を鎮めたのです。皇帝は、勲功のあった優れた者にも疑いを持つようになりました。その優れた者達は、いずれ反乱を起こす怖れがあると思ったからです。
 それ程の度量がない者達であれば、安心できる。度量のない者を適切に使えば国を治めることができると考えたのです。それで優れた者達を一斉に捕縛し、手向かう者は殺害したのです。ただ最も優れていた二人を捕らえることができませんでした。危険を察知して、何れかへ逃亡したのでです。
 その後、逃亡した内の一人は、陵の国の北にある潘の国に入り、そこで勢力を得て国王を追い出し、国王の座に就いたのです。軍の力を増強し、陵の地を敵のように侵奪を始めるようになったのです。
「英俊殿のように、特に優れた者、民の心を欲しいままにする者は、特に危険であります。反乱を起こせば、これこそ鎮めるのが困難となりましょう。」
江夏皇帝は、何故、張学参が言うのか不思議に思いました。
「よもや英俊には、そのような下心があるとは思えぬ。そなたの考え過ぎではないのか。」
江夏皇帝は、張学参に諭すように言いました。張学参は、江夏皇帝の言葉を聞いて、頷きました。
「英俊殿が、そのような不埒なことを思うはずはありません。陵の国の始まりの時のことを、政の例として話したまでです。」
張学参は、そういって話しを切り上げたのです。江夏皇帝に、それ以上話すことは、江夏皇帝の機嫌を損ねると思ったからでした。

 英俊は、哀の地の太守となり、更に改革を進め豊かで強固な地に築き上げました。英俊が着任した哀の地の東隣の地は、略の地で古くから操家が治めておりました。太守は、皇帝に良く尽くしていましたが、領民や従者には厳しく、重い租税や賦役を課し、それに加え厳しい刑罰も科していたのです。領民のみならず、兵の中にも不満が募っていました。
 元々は、略の太守は凡庸な人物で、詩や楽を好み、特別な野心を抱いておりませんでした。十年ほど前に、惣の太守の進めもあって胡塞常という者を武将として召し抱えたのです。胡塞常の働きが目覚ましく、側近として使うようになったのです。もとより政に疎い略の太守は、胡塞常に政を任せるようになったのです。
 英俊は、哀の地を掌握すると、略の領民が哀の領地に移住するのに気付いたのです。最初は、略の地に送り返していましたが、送り返された人々が厳しく処罰されることを知り、敢えて送り返すこともしなくなったのです。

 略の民が、多く哀の地に移り住むのを、略の太守は不満を持っておりました。略の太守は、皇帝に書状を送りました。
「哀の太守桓英俊殿は、略の民を騙し、哀の地に移し住まわせております。最近になって、多くの略の民が哀に奪われ、略の民の地は荒れております。良き計らいをお願い申し上げます。」
江夏皇帝は、英俊がそんな理不尽なことをするはずがないと、略の太守に返答もすることなく、そのままにしておりました。

 ところが、惣の太守揚翔坡から、英俊の不穏な動きについて、書面で送られてきたのを江夏皇帝は読みました。
「哀の太守桓英俊殿は、軍を鍛えて整え、精強な軍といたしております。聞くところによりますと、その兵の数は、既に一万人を超えていると言われております。陵国の掟を超えております。」
「哀は、略の民を掠め取り、その民を非人として酷使している様子です。それはまだしも、略の武将胡塞常を手なずけ、略の太守操岳陵殿の暗殺を企んでいる様子です。まさに反乱の兆しと思われます。ところでお聞き及ぼしのことと思いますが、略の太守殿は、民に重い税を課し、自らは遊興三昧の体で、評判は悪く、恨みさえ買っているとのことです。」
「おそらく哀の太守桓英俊殿は、胡塞常に略の太守殿を殺させ、略の地を席巻して国を興すことを考えていると思われます。哀の太守桓英俊殿には、余程注意を払って然るべきと思われます。」
江夏皇帝は、惣の太守揚翔坡からの知らせに驚き、内心書状の内容に疑いを感じておりました。
 江夏皇帝の手許には、既に略の太守操岳陵からの書状が届いておりました。その略の太守からの知らせを思うと、江夏皇帝は全く無視もできないと思いました。
 江夏皇帝は、張学参を呼び寄せ、略及び惣の太守からの書状を見せて意見を求めました。張学参は、二通の書状を読み終わると、意見を言いました。
「これらが事実とすれば、重大なことになります。略の胡塞常と言えば、略の軍の大将と聞いております。略の太守殿が、厚い信頼を置いていると聞き及んでおります。先ずは、知らせを受け入れた方が良いかと思います。」
「受け入れるのは、略は遠い縁戚、惣は伯父殿になるからでございます。これから陵の国を長く治めるには、血のつながりがある者を頼ることが良いと思います。何事もなければ良いのですが、万が一ということでございます。一つの軍を惣に派遣して、様子を見たら如何でしようか。」
江夏皇帝は、張学参を退席させ、一人で考えました。張学参の言ったとおり、遜将軍の第一軍を惣の地に派遣することにしました。軍を送るに際し、江夏皇帝は遜将軍に言いました。
「哀の太守桓英俊に関し、不穏な動きがあるとの知らせが、略と惣の太守からあった。真偽の程は分からぬが、略と惣の太守を安心させるために、惣の地に赴き、暫くの間留まれ。」
遜将軍は、少し怪訝な顔を見せたのですが、直ぐに頷きを見せました。江夏皇帝の見送りを受けて、遜将軍の指揮する第一軍は京丘の宮殿を後にしました。

 張学参は、色々手を尽くし皇帝の側近の生い立ちなどを調べていました。英俊の身元は分かったのですが、紅蘭の身元を知ることができなかったのです。張学参は、新たに胡塞常についても調べなければならないと思い、密偵に調査を命じました。

 張学参は、惣の地に皇帝第一軍を派遣したことについて、営の太守高顕項に説明するため、営の地に赴きました。営の地では、高顕項と董韻が迎えました。
「哀の太守桓英俊殿に不穏な動きがある。皇帝に対して反乱の気配が見える。既に、惣の地まで遜将軍を派遣している。太守にあっては、都、京丘の守りに配意願いたい。」
高顕項は、張学参を見つめ、問いかけた。
「哀の太守を討つ理由は如何なことか。」
「略の地が、哀によって侵されているとのこと。また、略の太守の殺害が企てられているとのことである。」
「それは、誰からの知らせなのだ。」
「略及び惣の太守からの報告である。」
「哀の英俊太守からの音沙汰はないのか。」
「先ずは、略と惣の太守の懸念を晴らすための措置をしたまでです。」
「それは性急過ぎるのではないか。遜将軍を派遣したのは、そなたの助言があったからではないのか。昔から、優れた者に警戒しなければならない、と言われているからではないのか。」
「ご明察の通りであります。哀の地は短期間に豊かになり、人も集まっております。軍兵も鍛え上げられ、装備、武器なども整えられ、皇帝を凌ぐ勢力になりつつあります。これこそ、反乱の兆しがあると見受けられるのです。」
高顕項は、董韻を見つめました。董韻は首を横に二度ほど振ったのです。営の太守高顕項は答えました。
「皇帝には、承知したと伝えて欲しい。」
「では、都、京丘の守備されることを承知したと、それで良いのですね。」
高顕項は、それには答えませんでした。董韻が、代わって答えました。
「太守は、張学参殿の言ったことを聞かれたと言うことです。それ以上のことでも、それ以下のことでもございません。」
そして更に、張学参に言いました。
「事の重大性を知りながら、営の太守に予め諮らずに決めたとのこと。まさに、そなた張学参殿の意見で、皇帝が動いたことになるのでしょう。これは私からの忠告です。皇帝の意思がどうであれ、英俊殿と紅蘭様に手を出してはなりません。そんなことでもしたら、大変なことになりましょう。」
張学参は、董韻の言葉を聞いて内心驚きました。董韻は、英俊と紅蘭の重要なことを知っていると思ったからでした。
「答えは、これで全てです。」
張学参を残し、高顕項と董韻はその場から立ち去りました。

 それはある夜のことでした。英俊は、床に入って眠っていたのですが、何やら人声のざわめきで目を覚ましました。人声は、館の表の方から聞こえてきました。英俊は、床から起きると人声を頼りに、館の出入口に向かって歩いていきました。
 廊下を曲がると館の玄関が見えました。そこには既に羅清の立っている姿が目に入りました。英俊が更に玄関に近づくと、入口に数十人の武人らしき者が、跪いているのが見えたのです。英俊が、羅清の側まで行くと、羅清はことの子細を話しました。
「ここにいる武人達、先頭に跪いている者は、略の大将胡塞常と名乗っております。その者が申すには、略の兵を率いて、略の太守操岳陵殿の館を襲い殺害し、手分けをして操一族の者全てを殺害したとのこと。」
羅清は更に言葉を継ぎました。
「略の太守の振る舞いに、目に余るものがあり反乱を起こしたとのことです。皇帝に逆らう意はなく、太守の座を潜脱なども考えていないとのことです。一命を哀の太守に委ねたいと申しております。」
英俊は、羅清の口上を聞きながら、胡塞常を見つめておりました。胡塞常は、武器は携えておらず、ただ伏しておりました。英俊は、胡塞常に言いました。
「主である太守を殺害するということは、大罪である。そちの身のことは、皇帝の判断に委ねなければならない。それまでの間は、牢に入ることになる。よいな。」
胡塞常は、承知したとばかり頭を低くしました。英俊は、胡塞常と共に来た武人に向かって言いました。
「共に来た者達は、速やかに略の地に戻れ。理由はともかく、粛々と太守を始め、亡くなった者達の弔いを行うように、哀の太守の言葉だと指導者に伝えてくれ。」
英俊は、胡塞常だけを牢に入れるため林春沢に指図しました。林春沢は胡塞常を捕縛し、手の者と牢に向かっていきました。

 英俊は、直ぐに皇帝宛てに書状を認めました。
「略の地で反乱が起こり、略の太守操岳陵を始め、操一族が殺害されとのことです。この知らせは、反乱の首謀者、略の大将胡塞常が哀の館に訪れ、自ら申し立てをしたものです。胡塞常を捉えて入牢させました。胡塞常の処置を如何したら良いか伺いたい。」
英俊は、林春沢を呼び、従者五人を連れて京丘に向かい、書状を皇帝に届けるように命じました。できることなら皇帝の返答を受けるように言い添えました。
 林春沢は、五人の従者と共に馬を駆り出発をしました。翌日の夕刻に京丘の宮殿に着きました。林春沢は、江夏皇帝に会うことができませんでした。執事の張学参が応対し、書状を受け取り皇帝の元に行きました。林春沢は、暫く待っておりましたが、中々誰も現れませんでした。漸く張学参が現れました。
「林副将殿、返答を待っていたかと思うが、皇帝の返答は、よくよく熟慮しないとできないとのことだった。こちらから使いを使わせて、返答をしたいとの皇帝の意向だった。速やかに哀の地に戻られよ。」
林春沢は、門前払いのような扱いに異様さを感じました。皇帝の意向に従うほかなく、皇帝第三軍の紅蘭将軍を尋ねました。
 紅蘭は、林春沢等を喜んで迎え入れ、夕食を共にしました。林春沢は、略で起きた反乱について紅蘭に一部始終話しました。紅蘭は、遜将軍から皇帝が英俊を疑っていることを聞いておりました。
「英俊に伝えて欲しい。皇帝は英俊を疑っている。惣の太守が、陰で動いているように思われる。できたら慎重に行動をするようにと。」
夕食を済ますと、林春沢等は、先を急ぐからと言って、紅蘭の屋敷から哀の地に向かって出発をしました。

 林春沢は、哀の地に向かう途中、惣の地に布陣している遜将軍のもとにも訪れました。略の地で反乱が起き、太守が殺されたことを話しました。反乱の首謀者は、哀の太守のところに走り、捕らえられている。皇帝は、首謀者に対する処分を留保している。それらのことを話すと、林春沢は晴河を渡り哀の地に戻りました。遜将軍は何故、皇帝が反乱の首謀者の処分の回答をしなかったのか理解できませんでした。

 江夏皇帝は、略の太守が胡塞常に殺害され、これは惣の太守の知らせのとおりだったと思いました。英俊に対する疑いを、益々深めたのです。江夏皇帝は、惣の太守揚翔坡の意見を確かめた上、英俊を惣の館に招き、太守の地位を解くことに決めたのです。
 ただ、英俊が従わない場合のことも考えてみました。英俊は、優れた才覚を持っていると思ったのです。既に、略の地を掌握し、略の軍を支配下に置いていることも考えられると思ったのです。その軍の勢力は、遜将軍の軍と惣の軍を合わせた勢力に匹敵すると思いました。軍を増強しなければならないと考え、皇帝第三軍の紅蘭将軍を宮殿に呼びました。
「略の太守が、略の大将胡塞常によって殺害された。惣の太守が心配していたとおりとなっている。英俊に対する疑いが深まった。英俊が、既に略の軍を掌握しているとなれば、こちらの軍も増強しなければならない。惣に入って、遜将軍と合流願いたい。」
江夏皇帝は、そう言って紅蘭に命令したのです。更に江夏皇帝は言いました。
「惣の太守に、もう少し子細を確かめたいことがある。その上で、英俊に対する態度を決めたい。近衛兵五百を率いて、一緒に惣の地に向かうこととしたい。」
紅蘭は、皇帝に頷きを見せ、皇帝の元を退きました。それから三日後、紅蘭の率いる皇帝第三軍と、皇帝の率いる近衛兵が京丘を出発しました。

 紅蘭と江夏皇帝は、それぞれ軍を率いて惣の地に入り、遜将軍と会って会談をしました。その際、翌日に英俊と遜将軍、惣の太守揚翔坡の三人で会談することを告げたのです。その会談に、紅蘭も加わることにしました。江夏皇帝は、話が済むと近衛兵を率いて惣の太守の館に向かいました。

 翌日になって、惣の太守揚翔坡は予てより決めていた会談のため、晴河の近くの高台にある会談場所に赴きました。

 惣の太守揚翔坡は、英俊追討で派遣された皇帝第一軍と第三軍の兵を見て感じました。想像以上の精強の兵であるのに、内心驚いていたのです。

 英俊は、営の太守高顕項から、自分を追討するために軍兵を進めているとの忠告を受けていました。英俊の思いは、皇帝の判断に疑いを持っていました。惣と略の地の民は、太守の圧政で苦しんでおり、特に略の地は甚だしい状況だったと思っておりました。また略の地は、貧しくなり始めていると思ったのです。それは胡塞常が長年の側近にいたからだと思いました。胡塞常は、惣の太守揚翔坡から指示を受け、略を弱体化するように政策を進めているのだと思ったのです。皇帝が、胡塞常の処分を決めないのであれば、略に送還して胡塞常の処分を任せる他ないと思いました。

 英俊は、略の首謀者を略の地に戻し、羅清を派遣して領民の安定を図ろうと考えておりました。行動起こす前に、皇帝からの返答を待っていたのですが、その返答がないことに空しさを覚えたのです。

 遜将軍は、英俊と戦いたくはなかったのです。川を隔てた高台に陣を張り、攻撃をしようとはしませんでした。却って、英俊と話し合いたかったのです。

 遜将軍は、惣と哀の境を流れる晴河の惣側、辺の高台で会見をしたい旨、英俊に使いを出したのです。英俊は承諾し、会見場に赴きました。惣の地には、惣の兵が多数守備をしていました。川向こうには、羅清が指揮する哀の軍の旗が翻っているのが見えました。皇帝側には、遜将軍、柳紅蘭将軍、それに惣の太守揚翔坡の三人が席に着きました。英俊は、一人で席に着き、穏やかな顔と目で、三人を見渡しました。
「皇帝が何故、私を討たなければならないのか、理解できない。」
そう言う英俊の言葉に、遜将軍は答えました。
「皇帝が言うには、謀を巡らし、略の太守操岳陵殿を始め、操家を滅ぼした。それが理由である。私と紅蘭は信じておらぬ。」
「そんな馬鹿なことを、皇帝は信じておるのか。おそらく誰かが、偽りを言ったのだろう。それも相当皇帝に近い者なのだろう。」
英俊はそう言いながら、惣の太守揚翔坡を見ました。一見平然を装う揚翔坡の顔色が変わったのを英俊は見逃しませんでした。
「私の手に、胡塞常という反乱の首謀者がいる。この者は略の太守の側近だったことははっきりしている。彼が、不満を持つ兵を指揮して略の太守、その家の者達を根絶やしにしたと思われる。略の地は太守を失い、混乱している。哀の兵を羅清に指揮させ、大挙して略に派遣し、事の真相を明らかにし、混乱を鎮めるつもりである。国の安寧を図ることは、皇帝も理解すると思う。」
遜将軍と柳紅蘭将軍は、英俊の言うことを頷いて聞いていました。

 会見では、英俊が言ったように、羅清を派遣して略の混乱を鎮めた後に、また会見をする。それまでの間、皇帝側の兵は戦を仕掛けないと決まりました。羅清を派遣するのは、三日後で、反乱首謀者の胡塞常を帯同していくと、英俊は言いました。

 会談が終わり、惣の太守が館に戻った後に、英俊は遜将軍と紅蘭に言った。
「胡塞常が略の太守を殺したのは、勝手気儘な政をしたこともあったが、惣の太守の指示があったからと言っていた。惣に戻ったり、あるいは略の地に留まっていては、惣の太守に殺されてしまう。だから、私のところに命乞いにきたものだとのことだった。」
「胡塞常については、皇帝の執事張学参の使者が取り調べ済みで、近々、皇帝に報告されるだろう。惣の揚家は、江夏皇帝と深い血で結ばれている。どのように裁断されるのか、静かに見守るしかないだろう。」
そう言って、英俊は、遜将軍と別れたのです。

 紅蘭は岸辺の船まで英俊を送ると言い、二人は並んで一緒に歩きました。晴河の辺の大きな木の下に平らな岩がありました。英俊と紅蘭は、その岩に腰掛け、南方の河を隔てた哀の地を望みました。
「何故、皇帝と戦うのですか。」
「運命さ。惣と略の人々は、太守を望んではいない。」
紅蘭は英俊を優しい目で見つめました。英俊は話を続けたのです。
「私は、皇帝の怒りを買ったのかもしれない。それは皇帝の誤りです。私は、略を侵してはいない。略の太守は、虐げられてきた兵や領民に襲われ、殺されてしまったのだ。私は、略の太守が皇帝の縁戚の者であることは知っていた。しかし多くの民が飢え、そして死んでいく。城には多くの食べ物があった。略の反乱の首謀者は、私に助けを求めてきた。私は、略の首謀者の処分、略の国の政について、意見を添えて、皇帝の裁可を得るため書面を送った。」
「未だに皇帝の返答がない。略の領土は、混乱状態と聞いている。一刻も早く鎮めなければならない。新しい太守が決まるまで、取り敢えず羅清を派遣することを考えていた。惣の太守、揚家にも相談を持ちかけたが、返答がないので、仕方のない措置だった。」
紅蘭は頷きながら、目を細め英俊の話を聞いていました。
「皇帝は、私を反乱者と決めつけている。惣の領民も、貧しさに困窮している。今度は、遜将軍が率いる皇帝軍が攻めてくることを知った。私は皇帝軍と戦うかどうか、戸惑っている。」
暫く二人に言葉はなかったのです。すると紅蘭は笛を取り出しました。英俊も笛を取り出し、二人は笛を吹き始めました。二つの笛の音は、晴河の空に響き渡り、お互いの心に届いていました。曲が終わると、紅蘭は言いました。
「英俊、戦うのは止めよう。英俊、私と二人で旅に出よう。二人で山奥へ行こう。」
紅蘭は、英俊に向かって言いました。
「紅蘭の言う通りにしたい。でも、今直ぐという訳にはいかない。羅清が戻ってきたら、今後のことを言い含めなければならないことがある。」
英俊は、そう答えたのです。そして二人は、別れたのです。いずれにしても、羅清が戻るまで皇帝軍を動かさないことを、紅蘭は英俊に約束しました。

 惣の太守揚翔坡が会談等出向くと、江夏皇帝は、張学参と館の貴賓室で寛いでおりました。そんな時、張学参が使わした胡塞常に対する密偵が姿を見せました。張学参が結果の報告を求め、江夏皇帝と二人で聞いたのです。密偵は、報告を始めました。
「胡塞常について、これまで調査して判明したことを報告します。胡塞常は、惣の太守揚翔坡殿が略に派遣した武将です。その後、略の太守に重く用いられ、略の大将となったものです。」
「哀に囚われている胡塞常に会い、尋問しました。略の太守の殺害は、惣の太守の指示だと述べております。略の太守殺害後、惣の地に戻れば惣の太守に殺されると思い、敢えて哀の太守の元に走ったとのことでした。」
江夏皇帝と張学参は、その報告を聞くと驚くと共に、愕然としたのです。
 密偵を退席させると、江夏皇帝と張学参は、考え、相談をしました。張学参は、江夏皇帝に言いました。
「惣の太守揚翔坡殿は、皇帝の伯父君で、しかも妃様の父、義父になります。余り責めてはならないと思います。このような場合、惣の太守殿を諫め、哀の英俊殿の太守の座を奪うことが、上策と思います。蟠りを、長引かすことがないようにすることが、肝要と思います。」
江夏皇帝は、張学参の言葉を、頷きながら聞いていた。

 英俊を交えた四者会談を終わって、惣の太守揚翔坡は館に戻りました。間もなく、揚翔坡と息子の揚剣庸は、江夏皇帝に呼ばれたのです。
「会談の結果を聞きたい。」
江夏皇帝は、そう話を切り出しました。揚翔坡は、手短に話をしました。それを聞いていた江夏皇帝は言いました。
「そうですか。哀の軍は、羅清が率いて略に向かうのですか。略に行くには、早くても二日はかかるだろう。」
呟きにも似た、江夏皇帝の声に、揚翔坡は頷きを見せておりました。
 江夏皇帝は、本題に移りました。
「素直に尋ねたい。実は、略で反乱を起こした胡塞常について調べた密偵から知らせがあった。反乱は、伯父殿が謀ったとの報告だった。それは真のことか。」
揚翔坡は、確証得た上の江夏皇帝の尋問であることを悟り、俯き頷いた。揚剣庸は、揚翔坡を見つめた。
「伯父殿が、何故胡塞常を使って略を滅ぼしたのか。」
揚翔坡は、顔を上げることができなかった。間を置いて、江夏皇帝は言った。
「終わったことだ。何も問うつもりもない。ただ、余計な謀をしないようにしていただきたい。」
江夏皇帝は。天井を見上げ、静かに目を下ろして揚翔坡を見つめた。そして呟くように言った。
「哀の太守がいなくなれば、事は済むことだ。哀の軍が略に向かい、二日目となれば手薄となるだろう。」
江夏皇帝の言葉を聞いていた揚剣庸は、父の揚翔坡から目を離し、江夏皇帝に言った。
「皇帝の話を聞いていると、哀の太守を討ち果たしたらどうか、そのように聞こえます。不義を働いたのは、我が父揚翔坡ではないのですか。処断を受けるのは、我が父でしよう。先ずは、我が父を捕縛して、牢に入れるのが道でございましょう。」
「況してや、哀の太守との約束を破り、戦を仕掛けるなど、正しさに欠けること甚だしいと思います。武人は命を賭けて戦います。正義にも欠け、約束を破るなど、できることではないと思います。」
揚剣庸の言葉を聞いていた江夏皇帝は、揚剣庸を睨んだが、顔を和らげ横を向いて溜息をついた。
「嫌と申すなら、勝手にするが良い。そなた達は、血を分けた絆のある者達故、言ったまでだ。」
そう言うと、江夏皇帝は席を立ち、太刀を携えると張学参を従え、館を出て近衛兵のいる場所に向かいました。

 江夏皇帝は、追うよう急ぎ足で来た揚翔坡に、京丘に戻る旨伝えました。また、遜将軍、紅蘭将軍の軍も、近く引き上げることを告げました。
 揚翔坡の見送りを受け、江夏皇帝は遜将軍と紅蘭将軍に、速やかに京丘に戻るように言いました。遜将軍は、それに答えるように、
「羅清の率いる軍が戻るまで、ここに留まることとします。」
と言いました。江夏皇帝は、それを了解して、京丘に向かったのです。


 「英俊と紅蘭」
 ( 第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 第八話 )