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      「英俊と紅蘭」 第二話

                          佐 藤 悟 郎

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 龍慧寺の若い僧は、英俊と紅蘭の二人を寺の境内の奥へと連れて行きました。絶壁と思われる岩壁に、幾つもの洞窟がありました。その洞窟の一つの前まで来ると、
「ここが宿だ。雨露を凌ぐことができる。」
僧は指差して言った。洞窟の入口には木製の扉があり、若い僧は扉を開き燭台の蝋を灯しました。そこには敷物があり、夜具も見えたのです。部屋の中央には、火を焚く場所があり、若い僧は火を焚いて鍋で湯を沸かしながら、泣いている英俊に言いました。
「どうして、そんなに泣くのだ。」
英俊は、泣きながら答えたのです。
「絵を全て失いました。とても辛いのです。」
若い僧は、英俊の答えを頷いて聞きました。
「大切なものを失い、たいそう残念でしょう。とにかく今夜はお休み。明日になれば、元気が戻ってくるよ。」
若い僧は、優しく英俊に言葉をかけて、洞窟から出ていきました。

 翌日になると、英俊は高い熱に襲われました。紅蘭は、岩から染み出る清水を汲み上げ、襤褸の毛皮を水に浸けました。英俊の額に載せ、しばらく顔色を見詰めていました。
「これは病だ、薬を飲ませないと悪くなる。」
そう思うと紅蘭は、洞窟から抜け出し、寺の左手にある山に入りました。薬草を探し、程よいほどに摘み重ねて戻ってきました。鍋に少し水を入れて薬草を投げ込みました。ドロドロとした液になるまで煮詰めました。椀に移し、うなされている英俊の上体を起こし、その薬を飲ませました。間もなく、英俊のうなされた声は消え去り、英俊は深い眠りに陥りました。
 夕方になって、若い僧が夕餉を運んできました。
「まだ横になっておられる。大丈夫ですか。」
若い僧は、床に寝ている英俊に声をかけました。英俊は、笑顔を見せて頷きました。若い僧は、紅蘭に話しかけました。
「朝と昼、昨日の餅で足りたでしょうか。夕餉は、温かいものを持ってきました。質素なものですが、寺の掟ですので。」
若い僧は、二人分の夕餉を炉端に置きました。紅蘭は、若い僧に尋ねました。
「この寺、龍慧寺と盗賊が言っていました。たいそう立派なお寺ですが、何をされているお寺ですか。」
若い僧は、微笑みながら答えました。
「このお寺は、古くからある寺です。寺では天の教えの学習、それに武術の鍛錬をしております。天の教えは人の善悪の見極め、武術は正義を擁護するためのものです。」
若い僧は、寺の様子を見ても構わないと言って、洞窟から出ていきました。

 次の日になると英俊の病も癒え、紅蘭と二人で龍慧寺の境内や付近を見て歩きました。龍慧寺の奥は洞窟のある岩山、左手は草木が繁る山となっていました。右手には村の家が点在し、村人の畑が広がっていました。寺の右境内には、広い畑があり高い頑強な塀があって、村の土地と接しておりました。紅蘭は、時折英俊が気落ちする姿を見ました。寺を見下ろす岩場に通りかかった時です。紅蘭は、英俊に向かって言いました。
「英俊、元気を出して。紅蘭、笛を吹くから聞いて、元気を出して。」
そう言うと英俊を岩に腰掛けさせ、紅蘭は立ったまま笛を取り出しました。
「その笛、無事だったの。紅蘭に預けた私の笛は、どうなったの。」
「勿論、無事だったわ。服の下に隠していたの。見つからなかったわ。英俊の笛、部屋に置いてあるわ。」
紅蘭は、英俊を見つめ、笑顔を見せました。紅蘭は笛を吹きました。その曲は、山奥の老人の庵で吹いた曲と同じものでした。英俊は、紅蘭を見上げ、そして村や寺を見ながら聞きました。心から、悲しみが消えていき、静かに勇気が湧いてくるのでした。

 英俊と紅蘭は、日一日と過ぎていきました。二人は、外の広場や広い道場で武術をしているのを見るのが好きでした。いつしか英俊は、武術を体得したいと思うようになりました。盗賊退治に限らず、正義の実現とは素晴らしいと思ったからです。
 ある日、英俊と紅蘭は寺で修行したいと、いつも世話をする若い僧に言いました。老師から、英俊の許可を受けることができたのですが、紅蘭には畑の仕事をするように言われたのです。英俊は、激しく武術の鍛錬を始めました。武術の他は、天の教えを受けていたのです。

 紅蘭は畑の仕事を覚えるのが早く、段取りもよく仕事をしました。時々、英俊の武術の鍛錬を見に行きました。ある日英俊は、鍛錬が終わり洞窟に向かいました。洞窟が見えるところまで行くと、紅蘭が棒を持ってゆっくり振っているのを見たのです。紅蘭の近くまで行くと、英俊は言いました。
「紅蘭、まるで舞を舞っているようだ。」
紅蘭は、英俊を見ると棒を振るのを止めました。
「そうよ、英俊、剣の舞のお稽古をしているの。都で、踊り子になるのよ。」
笑顔を見せて、英俊に答えました。翌日になると、英俊は木剣を紅蘭に持ってきたのです。
「剣の舞であれば、木剣を使った方が良い。」
そう言って、英俊は紅蘭に木剣を渡したのです。紅蘭は、二回、三回と木剣を右手で振り、笑顔で英俊にお礼を言っていました。

 紅蘭は、英俊の武術の鍛錬を見た後に、庭先で木剣を持ち舞いました。指導する僧や英俊の剣裁きを真似ているようでした。その様子を見た僧も、可笑しくもあり、和やかにもなりました。二回目の新月を迎える頃になると、英俊の鍛錬は一層厳しいものになりました。紅蘭は、相変わらず木剣を持ち、庭先で舞っておりました。そんな紅蘭の姿を、老師が初めて目にしました。優雅に踊る姿を見て、微笑みを浮かべました。
 紅蘭の舞が進むに従い、老師の目が鋭さを増しました。
「あの舞は、どこかで見たことがある。浄涛の剣、浄涛の剣裁きに似ている。そんなはずはないと思うが、浄涛の剣の奥義に似ている。」
老師は、紅蘭の動きに少しの隙もないことに気付いたのです。紅蘭は、舞い終わると老師に挨拶をして、庭先から姿を消しました。
「偶然に似ていたのかも知れぬが、何と不思議なことか。」
老師は、紅蘭が姿を消した方に向け、拝むように頭を低くしたのです。それから紅蘭は、武術の鍛錬に加わることを許されたのです。紅蘭を武術の鍛錬に加えるとき老師は、武術の指導者に言い渡しました。
「決して紅蘭に対して、戦いを挑んではならない。」
指導者達は、顔を見合わせました。老師は、理由を言いませんでした。

 英俊は、武術の激しい稽古に疲れて、夕食を取り、後片付けをした後に洞窟に戻ってくるのでした。紅蘭に簡単に声をかけると、寝床に潜り込んでしまうのです。紅蘭は、英俊が眠っているのではないと思いました。何か悩んでいると思ったのです。ある日、英俊が洞窟に戻ると、暗い中で紅蘭が木刀を持って踊っているのを見たのです。紅蘭は、いつも外で踊りをしており、部屋で踊りをしているのは珍しいことだったのです。英俊は、紅蘭の優美な踊りを見つめていました。紅蘭は、暫く踊っていましたが、踊りを止めて英俊に言いました。
「英俊、英俊も踊ってみない。」
紅蘭は、また踊り始めました。英俊は、持っていた木刀を振り上げ、紅蘭の動きに合わせて踊り始めました。
 不思議と踊り終わると、体が楽になったのです。毎日同じ踊りを繰り返していると、体が滑るように自由に動いていくのが分かりました。無理がなく、相手の動きを見つめることができたのです。
 ある日の稽古で、相手が不意に打ち込んできたことがありました。英俊は、体を少し引き下げて右に回り込んで、容易に身をかわすことができました。そして紅蘭の教えてくれた踊りに沿って、身を早く動かせば武術の奥義であることに気付いたのです。

 龍慧寺は岩山にあり、境内は高い土塀に囲われていました。境内の南東方向の高台の地には、龍慧寺所有の田畑があり、村の人が穀類や野菜を栽培していました。その高台の土地は、盗賊や戦に荒らされることもなく、水の便も良く肥沃な土地だったのです。高台は、土塁が巡らされ、龍慧寺の僧が見張っているのでした。龍慧寺に屈強な僧がいることは知れ渡っていました。

 寺に入って二年ほどすると、王羅清という青年が入門してきたのです。村が盗賊集団に襲われ、人々は殺され、家には火がかけられたとのことでした。武術を学び、それらの盗賊らと戦うとのことだったのです。羅清の目的は、はっきりしており、武術の激しい稽古に耐えていました。

 龍慧寺の武術指導者双林坊は、紅蘭と英俊が並外れて上達が早く、精神も落ち着いた優れた者と思っておりました。時が経っても、英俊の真剣さは変わらなかったのです。ただ紅蘭は、野に遊び、花を摘み、あるいは英俊の訓練をただ見つめていることが多くなったのを、双林坊は見ていたのです。
 双林坊は、紅蘭が英俊ほど訓練をしなくても、その姿勢には隙らしきものはないと感じておりました。英俊との互角稽古でも、劣るところはなかったのです。指導者双林坊は、才覚があっても努力しない紅蘭の態度を快く思っていなかったのです。
 ある時、道場で双林坊が一人で稽古をしていると、紅蘭が姿を見せたのです。英俊を捜しているらしく、いないのを確認すると道場から双林坊に背を見せて出ようとしました。その時、双林坊は、紅蘭の背中めがけて槍を投げつけたのです。槍は紅蘭目がけて、勢いよく向かっていきました。紅蘭は、背を向けたまま左に少し位置を変え、勢いよく飛んでくる槍を、素早く右手で押さえました。左に体を回しながら、飛んできた槍の勢いに、更に勢いを加えて、双林坊に向かって投げ返したのです。槍は勢いを増し、双林坊が避ける暇もなく目の前に迫ってきたのです。双林坊が観念した瞬間、槍は宙で止まり生き物のように、目の前に突き刺さったのです。
 双林坊は、唖然として紅蘭を見つめました。そして紅蘭が得体の知れない、武術に優れた者であることを知ったのです。
「紅蘭に、戦いを挑んではならない。」
老師の言葉の意味を初めて知ったのです。おそらく紅蘭は、人の世の者でないと感じたのでした。双林坊は、後退りをして紅蘭に身を正して正対すると、目の上の者に対して行うように、深く礼をしました。そのことがあった以後、双林坊は、紅蘭に教えることがないことを悟ったのでした。意のままに行動する紅蘭を、敬意を払って見つめるばかりでした。

 時々、英俊と羅清の二人は、寺の周辺や村を歩き回りました。ある日、畑で瓜を収穫している村人が賊に襲われ、これを助けました。その時、村人から、最近になって時々賊が訪れ、野の物を盗んでいき、時には村人の家を襲うこともあること聞いたのです。

 それから二人は、物陰に隠れ、盗賊を見つけては、八角棒を使い追い払うようになったのです。盗賊らは、仕返しのため大勢で村を襲ったのですが、辛うじて二人に紅蘭も加えた三人で防ぎました。盗賊の侵入を防禦するために村人は、村の周りに柵を設けました。
 盗賊は、夜陰に紛れ、村人を襲うようになったのです。英俊と羅清は、盗賊を捉えて盗賊の巣窟があるのかを問い質したのです。その盗賊に案内させて、巣窟にたどり着きました。二人は、八角棒で暴れ回り、多くの者を倒しましたが、賊の人数には限りがなかったのです。その争いの様子を見ていた盗賊の頭が、英俊に言いました。
「俺は頭の高顕項と言う者だ。手下の者には、二度と村へ行かないようにしよう。どうだ、俺は近い将来、兵を挙げて都へ行く。お前達二人、俺と一緒にならんか。」
英俊は、即座に断ったが、その精悍な頭領の顔を忘れることができませんでした。それから間もなくして、盗賊の姿が見えなくなりました。

 激しい稽古を重ねた羅清は、紅蘭、英俊に次ぐ者と成長したのです。更に三年の歳月が流れ、三人は学問と武術を身に付け、英俊と紅蘭は龍慧寺の指導者、羅清は高弟と成長しました。


 

 英俊と紅蘭」
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