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      「英俊と紅蘭」 第六話

                          佐 藤 悟 郎

  ( 第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 第八話 )


 陵の国は、江夏皇帝を頂いて平穏を取り戻しました。英俊は、江夏皇帝の就任式が終わって間もなく、時々、北方の潘の国近くに出かけて野戦訓練をしました。元々は、曹将軍の兵だったことから、その動きに注意を払っていました。訓練を重ね、心底から兵が服従しているのか見ていたのです。英俊は、軍を紅蘭、羅清それに自分の三隊に分けて実践したのでした。劣る者、将として器でない者を別働隊として、若い武将范項順に任せました。

 その訓練は、回を増すごとに激しく、兵の機敏さが際立つようになっていきました。
「桓英俊将軍の兵は際だって精強である。」
潘国の間者はそう国元に告げました。潘国王は、それを確かめようと、若く優れた武将を潜入させたのです。若い武将は、訓練全体が見える森陰に隠れ、見つめていました。
「桓将軍の兵は、潘軍の兵に優っている。」
そう感じて、潘の若い武将がその場から立ち去ろうとした時、捕らえられて英俊のもとに連れて行かれました。英俊は、直ぐ縄を解き
「見るところ、潘の武将と見受けた。他国の様子を見ること、尤もなことです。」
そう言って、解放したのです。英俊は、当分の間、潘国軍が国境を侵すことはないだろう思いました。

 江夏皇帝は、宮殿に隣接する野原に英俊と紅蘭、羅清の住居を建てました。三人の意見を聞き、三棟を並べ、それぞれの屋敷には障壁となる物は作らず、互いに行き来できるようにしたのです。三棟の屋敷の前は広場とし、裏は将兵や軍兵の住むところとしました。
 それまで三人は宮殿の片隅の一室で生活していたのですが、新居に移ると屋敷の前の広場で、ささやかな宴を催したのです。軍の訓練は続けましたが、それも半日となり、十日に一日は休息日としました。軍兵は喜んでこれを受け入れ、まとまりも強固になっていきました。

 時には、英俊は絵を描き、紅蘭は笛を奏で、羅清は馬を駆り立てて走り回っていました。時々、三人は前庭で火を焚き、食事を共にしていました。時には、江夏皇帝も宮殿を抜け出し、これに加わったのです。
 秋になって、空に美しく月が輝いている夜でした。江夏皇帝も卓を囲んでいましたが、浮かない様子だったのです。
「どうなされました。沈んでいる様子に見えますが。」
紅蘭が皇帝の顔を窺うように見つめて言いました。皇帝は、鬱陶しい口調で答えました。
「執事の南山の様子がおかしいのだ。血を吐いて倒れた。床に就いておるが、息苦しい咳をしている。」
更に皇帝は、南山が牢に入っているときに、碌に食事も食らわず、疲れと共に咳が出るようになっていたと言いました。
「先程も見舞いに行ってきたのだが、南山は余命幾ばくもないと言った。そして惣の地に優れた者がいるというのだ。その者とは、惣の太守の執事をしている張学参だと言っていた。おそらく南山は、自分が死んだ後のことを心配して言ったのだろう。」
と、南山が遺言ともとれることを言ったと、皇帝は話しました。
 皇帝と三人は黙って、沈み込んだのです。紅蘭が医術の心得があることは、皇帝、英俊、羅清とも知っておりました。
「これから見舞いに行きましょう。」
紅蘭が言うと、他の誰もが首を横に振りました。その時でした、宮殿から使いの者が来て、皇帝に告げたのです。
「南山様の容体がおかしい様子です。息絶えていると典医が言っております。お知らせに来ました。」
皇帝と三人は、お互いに顔を見合わせると、席から立ち上がりました。急いで宮殿の執事室に入ると、側にいた典医が立ち、恭しく一礼した後
「南山様は、逝かれました。胸の病のため、息ができなくなったものと思われます。」
と言いました。紅蘭は、南山の側に行き胸に手を当て、口元に耳を近付けました。そして半開きになっている目に指を当てて閉じました。
 南山の葬儀は、皇帝の指示の下で厳粛に行われました。南山には、民への思い遣りは厚く、また京丘の多くの門弟が集まりました。丘の由緒ある墓地に葬られました。南山には多くの弟子がおり、妻と一人の娘がいました。娘は美しく学才に優れていると噂されておりました。南山の葬儀に娘の姿が見えました。

 江夏皇帝は、南山が言い残した執事の後任として、張学参を迎えるべきかどうかを真剣に考えていました。政を行うに当たっての儀式や知識が足りないことが多いと感じていたからです。
 張学参について調査をしたところ、京丘の生まれで、若い頃から遼南山の門に入り、俊才で若くして頭角を現し、南山も惣の懇請を受け、張学参を推挙したとのことが分かりました。
 江夏皇帝は、遜将軍と英俊に相談をしました。相談を受けた二人は、南山が名前を挙げたのであれば、執事として迎えることに賛成しました。ただ、迎えるに当たっては、皇帝が直接惣に赴き、惣の太守の意見を聞くのが礼儀であると意見が一致したのです。遜将軍が随伴して、皇帝自ら視察を兼ねて、惣の地へ行くことに決めたのでした。

 惣の地に使者を送り、皇帝が巡視に行くことを告げ、その応諾を受けてから皇帝は京丘を出発しました。惣の太守は、盛大な宴を催し迎えました。
 翌日、江夏皇帝が朝早く目を覚ましたところ、何処からともなく美しい琴の調が聞こえてきたのです。皇帝は庭に出て、琴の音に誘われるように歩きました。大きな池にたどり着くと、池を越えた館から琴の音が流れてくるのが分かりました。その館は女人が住む館と思われ、それ以上近付くのを止めました。暫くすると、琴の音は途絶えたのです。庭をそぞろ歩いて行くと、一人の出で立ちの良い若者に会いました。その若者は、江夏皇帝を見ると、脇によけて頭を下げておりました。江夏皇帝は、その若者の前を通り、部屋に戻りました。
 朝食を済ませると、供とした将兵と共に、惣の太守と会見をしたのです。
「私が訪れたのは、巡視もあるが、一つ願い事をするために来たのだ。是非、聞き入れてもらいたいことだ。」
そう言った後に、遼南山が亡くなる前に、張学参を跡継ぎに、と遺言したことを話し、張学参を迎えることを、是非承諾願いたいと話したのです。惣の太守は、少し驚きの表情を見せ考え込みました。
「皇帝が所望されるのであれば、喜んで承諾いたします。直ぐにでも京丘に赴かせましょう。」
暫く考えた後に、惣の太守は、そう答えたのです。
「張学参殿の意を聞かなくとも良いのか。」
惣の太守の思惑を図りかねて、江夏皇帝は尋ねました。それに対して、惣の太守は答えました。
「張は優れた才能ある者、話を聞けば惣に遠慮して、言うことを聞き入れますまい。命とあれば、如何ともし難いと思うことでしょう。」
江夏皇帝は、惣の太守の言うことも、尤もと思いました。惣の太守は、張学参の才能は認めておりましたが、煙たい存在でもあったのです。
 太守は、側近の者に張学参を連れてくるように言いました。間もなく張学参が姿を見せました。驚いたことに江夏皇帝は、朝会った若者であることに気付きました。惣の太守は、張学参に端的に言いました。
「皇帝の執事、遼南山先生が亡くなった。皇帝は、お主を執事として迎えると言っている。早急に、皇帝と共に京丘に向かうように。」
張学参は、惣の太守の言葉が主命であることを弁えたのか、皇帝を見つめました。
「南山先生に及ばぬことがあると思いますが、良き者として務めます。どうかよろしくお願いします。」
張学参は、そう言って深く江夏皇帝に礼をしました。張学参は、南山の娘に思いを抱いておりました。学参は、皇帝に請われたとき、娘への思いもあり、これを受けたのです。張学参は、荷造りをすると言って、その場を退出しました。
 その日の宴は、内々のものでした。江夏皇帝と遜将軍、惣の太守揚翔坡、太守の息子揚剣庸、それに張学参との宴だったのです。宴が始まって間もなく、琴を抱えた女人が二人部屋に入り、その後に美しい女人が入ってきて琴の前に腰掛けました。最初に入ってきた女人二人は、琴の前の女人の後ろ左右に分かれて侍っておりました。
 江夏皇帝は、杯も取らず、琴の音に耳を傾けていました。そして琴を奏でる女人の美しさに目を細めました。一曲を弾き終わると、琴を片付けようとするのを見て、江夏皇帝は思わず言いました。
「実に良い音色です。もう少し弾いていただけないか。」
その突然の声を聞いた一同は、江夏皇帝を見つめました。琴を弾いていた女人も、その美しい目で江夏皇帝を見つめ、頷きを見せました。江夏皇帝は杯を置き、ただ琴を弾く女人の姿を見つめていました。女人達が退出した後も、江夏皇帝は未練が残る様子で、黙っていました。それを見た惣の太守は、江夏皇帝に言ったのです。
「琴を弾いていたのは、私の娘、桂英と言います。琴を片付けたら、来るように言いましょう。」
惣の太守は、そう言って使いの者を呼び、来るように伝言しました。江夏皇帝が杯を持ち、酒を飲み始めると間もなく、桂英を先頭に五人の若い女人が宴の中に入り、華やかな宴となったのです。

 江夏皇帝は、張学参を伴って京丘の宮殿に戻りました。数日後、身の回りの整理がついたのを見計らって、張学参を招きました。
「先帝が亡くなられて、争いが起こりました。聞いたところによりますと、多くの民が都を離れたとのことです。先ずは、都の安寧を図り、商い取引を活発にすることです。そうすれば自ずと、人はこの京丘に集まるでしょう。」
それを聞いた江夏皇帝は、尤もなことだと思いました。皇帝と共に聞いていた、将軍らも頷いて聞いていたのです。
 張学参は、国政について具体的に江夏皇帝に進言をしました。荒れた都を囲む広い城壁を修復し、四つの門に兵団を配置しました。城壁内の街には、兵を巡回させ喧嘩、盗みなどを取締りました。税を軽くし、自由な商いを保障したのです。陵の都、京丘が安全で住み良いことが次第に広まっていきました。

 張学参は、朝早く庭をウロついている江夏皇帝の姿を見ることが多くなりました。何か物思いに耽っているように見えたのです。ある時、江夏皇帝は、張学参に問い掛けました。
「惣の太守の娘、確か桂英と言っていた。年は幾つになるのか。誰か想い人でもいるのか。」
張学参は、その問いかけを聞いて、惣の太守の娘桂英への想いからだと察したのです。
「桂英様は、年は二十歳です。想い人はいる様子はありません。中々賢い人とお見受けいたしております。」
張学参は、そう答えました。桂英の話はそれで終わり、政についての話となりました。張学参は、皇帝の部屋から退出した後、考えながら歩きました。庭に降りて、緑の鮮やかな草木を見つめ、空を仰ぎました。江夏皇帝の問い掛けは、桂英との仲を取り図ることを期待して、話を向けたのだと思いました。
 張学参は、その思うところを惣の太守揚翔坡に文で伝えました。折を見て、桂英を伴って京丘に来たらどうかとも伝えたのです。張学参の文を見て惣の太守揚翔坡は、桂英を伴って京丘を訪れることにしました。毎年の貢ぎ物を送る初夏の頃、一行と共に惣の太守揚翔坡と桂英は京丘に向かいました。通常、貢ぎ物を送る一行は護衛の兵団を組織して京丘まで送ることになっており、太守などの重要な地位の者は伴わないことになっておりました。
 江夏皇帝は、この度の惣の貢ぎ物は、惣の太守揚翔坡が直接持参してきた旨、張学参から報告を受けました。江夏皇帝は、惣の太守揚翔坡一行のところに足を運んだのです。江夏皇帝は、一行の中に桂英の姿を認めると心が和んでいくのを感じました。

 江夏皇帝は、各将軍と紅蘭、羅清を呼び、急遽宴を催すこととしたのです。宴の設定を任された張学参は、桂英の琴の演奏を取り入れることを忘れませんでした。桂英の琴の演奏を聴く江夏皇帝の目は輝き、身を乗り出して耳をそばだてておりました。各将軍らは、桂英の美しさと奏でる音の見事さに感心をしておりました。そして桂英を見つめる江夏皇帝の熱意も感じておりました。
 曲が終わると、名残惜しそうに江夏皇帝は桂英を見つめました。そして各将軍の方に目を向け、思い付いたように言いました。
「紅蘭殿は、笛の名手ですね。桂英様の琴と合わせた曲が聴きたいものです。」
紅蘭は頷きを見せ、桂英に尋ねました。
「桂英様、お琴、お見事でした。皇帝が、何か所望されております。何が良いのか、ご存じではありませぬか。」
桂英は、少し考えておりました。紅蘭は、
「古曲であれば合わせることができましょう。誰もが、いずれ憶える曲が多いと思います。」
紅蘭がそう言いますと、桂英は笑みを浮かべて頷きました。
「紅蘭様、彩雲の曲、古曲と思いますが、如何でしょうか。天から授かった曲と聞いております。」
紅蘭は頷きを見せると席から立ち上がり、桂英の左横に立ち、懐から笛を取り出しました。紅蘭は笛の基本音を鳴らし、桂英は琴の音を合わせました。琴からの出だしで、笛の音が重なっていきました。
 その場に居合わせた者は、その美しい曲に引き込まれていきました。何か懐かしく、心が揺さぶられる音色が続きました。桂英は、琴を奏でながら、笛の音を耳にしながら思いました。紅蘭が尋常でないほど高貴な人であることを感じたのです。彩雲の曲が終わると、桂英は紅蘭を見上げ、暫く見つめておりました。紅蘭は微笑み、一礼をすると笛を懐にしまい込み、席に戻りました。
 琴を片付けるため、一旦桂英は姿を外しましたが、供の女人を伴い戻ってきました。宴は和やかの内に始まり、そして終わりました。桂英は、紅蘭と話す内に、紅蘭の近く京丘に住みたいと思うようになりました。

 宴が終わった後、桂英は紅蘭の屋敷を訪れました。清楚で落ち着いた佇まいでした。
「桂英様、宴の前、お琴を弾くときの皇帝の姿を見ましたか。」
紅蘭が問いかけると、桂英は
「ええ、ご熱心な目をしておられました。以前、惣の館の時もそうでした。さぞ音曲が好きなのだろうと思いました。」
そう答える桂英に、紅蘭は微笑み、首を横に振りました。
「皇帝は音曲が好きなのは間違いないでしょうが、それ以上に桂英様、桂英様がお好きなのです。」
桂英は驚きの目を紅蘭に投げかけました。
「何も驚くことはございますまい。桂英様であれば、皇帝の后として相応しいですよ。想い人がなければ、流れに任せるのが良いと思います。」
紅蘭の言葉を聞き、桂英は俯いてしまいました。紅蘭は、俯いている姿は、恥じらいでいるのだと分かりました。
 同じ頃、張学参は皇帝の居室で、皇帝と向かい合っておりました。皇帝に呼ばれたのですが、皇帝は俯いたり、見上げたりして中々用件を言いませんでした。張学参は、端的に話を切り出しました。
「桂英様を妃として迎えたら如何ですか。」
皇帝は、張学参の言葉を聞き、驚きを見せました。そしてようやく皇帝は、張学参に言いました。
「私も桂英様のことを考えていたのだ。后にしたいと思い、そなたに相談したいと呼んだのだ。果たして、惣の太守、それに桂英様は承知するだろうか。」
張学参は、皇帝の明確な意思を聞き安心しました。
「では、明日惣の太守、それに桂英様が帰られる前に、皇帝の御心を伝えましょう。婚礼の段取りは、重大なことがなければ、百日後と致すように段取りをいたしましょう。皇帝は、何も心配することは無用でございます。」
張学参は、皇帝の意思を惣の太守揚翔坡、桂英に伝えれば、それで事足りると思っていました。相手の意見を慮りするなど、皇帝たる者がすべきではないと思っていたのです。従わなければ、その責めを負わすべきと考えていました。
 翌日、張学参は、皇帝の使いと称して、惣の太守が泊まっていた賓客室を訪れました。揚翔坡と桂英に対して告げたのです。
「江夏皇帝は、桂英様を后とすることをお決めになりました。婚礼は、百日後と致すことになります。準備万端、滞りなく進めていただきたいとのことです。」
張学参は、そう告げた後、更に言いました。
「この度は、真に喜ばしく、お祝いを申し上げます。」
張学参は、二人に向かって深くお辞儀をしたのです。惣の太守揚翔坡は、喜びを浮かべました。
「皇帝の御意志を有り難くお受けいたしました。桂英共に準備万端怠らぬように致します。江夏皇帝に、よろしくお伝えいただきたい。」
惣の太守揚翔坡は、深く頭を下げました。桂英も、静かな喜びを見せて、深く頭を下げたのでした。
 惣の太守一行が宮殿を離れる際、江夏皇帝が見送りをするために姿を見せました。江夏皇帝は、桂英に近付き言いました。
「お待ちしております。」
桂英は、喜びに満ちた顔で皇帝を見つめました。
「喜んで参ります。どうかよろしくお願いします。」
桂英がそう答えると、皇帝は右手を差し伸べました。二人は手を握り合いました。惣の太守揚翔坡と桂英は、馬車に乗り込み江夏皇帝と別れました。

 江夏皇帝と桂英の婚礼は、各将軍と各地の太守が陪席して盛大に行われました。副将軍の紅蘭、羅清、営の地の参与董韻、惣の地の桂英の兄剣庸、哀の地の副将軍林春沢、略の地の副将軍韓相順も参列をしました。宴は、三日三晩催されました。
 江夏皇帝の婚礼の宴が終わった翌日、高顕項と董韻が英俊の館を訪れました。営の地に帰る挨拶がてら、立ち寄ったのでした。二人は、館の応接室に通されました。そこには少し高い衝立があり、紅蘭の等身大の姿が描かれておりました。白い蓮の花が咲く池の辺で、笛を吹いている絵でした。それを見た董韻は、眩しそうに見つめておりました。
 高顕項と董韻が英俊の館に来ているのを知って、紅蘭と羅清も応接室に入ってきました。紅蘭は、飲み物と甘い食べ物を持ってきて、机の上に並べました。高顕項は、民の暮らしぶりについて、野盗の姿は消え、作物も豊かになったと話しました。また、営の地が晴河の上流にあることから、港を整えて船を造るとも話しました。従者の迎えが来たことから、高顕項と董韻は英俊の館を後にし帰って行きました。

 江夏皇帝の妃となった桂英は、時には紅蘭の館を訪ねるようになりました。琴を紅蘭の館に持ち込み、紅蘭から音曲を習うようになったのです。桂英は、自分が音曲に優れた者と思っていたのですが、紅蘭の笛に合わせたとき、自負心が如何に音曲を台無しにするのかを感じたのでした。その時紅蘭を尊い人と思い、尊敬をするようになったのです。一点の曇りもなく、清らかな心そのものの紅蘭を、宮殿でも敬意を払って応対をしていました。

 張学参は、惣の太守揚翔坡が皇帝の座を窺っていることを知っておりました。娘が江夏皇帝の妃となったことについて、心が和らいでいくのを感じました。皇帝の義父であり、妃に子が生まれれば、未来の皇帝の祖父となる。皇帝の座を得なくても、同等の立場を得たことになる。無謀な野望も、いずれ消え去るだろうと思ったのです。
 張学参は、野望の道筋について揚翔坡が語ったことを思い返しました。揚翔坡は、皇帝劉家と遠い縁戚である略を滅ぼすために、胡塞常という若い武将を送り込んでいました。哀の太守班迅恒には跡継ぎがなく、高齢でそう長く生きていない。そうすれば皇帝を動かし、哀の太守を兼ねることができると考えておりました。そんな状況に進めば、皇帝を毒殺する。病死と偽れば、縁戚筆頭の自分が皇帝となっても不都合がないと思っていたのです。
 元来、惣の太守揚翔坡は、剛勇の者でした。その息子揚剣庸も、父に劣らず剛勇の者でした。惣の太守は、皇帝の許しも得ず、兵を募り鍛えておりました。
 陵の国では、皇帝の下に三軍、各太守の下に一軍の軍制が敷かれておりました。皇帝軍のそれぞれの軍の兵員は約一万、太守の軍は最大で六千と定められておりました。ところが惣の兵力は、皇帝の一軍以上の兵力となっていたのです。

 皇帝の執事張学参は、皇帝の将軍を見つめていました。遜将軍、何将軍、桓英俊将軍、いずれも優れた将軍であると思いました。惣の兵は、数では劣らずとも到底太刀打ちはできないとも思ったのです。特に桓英俊将軍は優れ、兵は整然として、武器も整えられ、訓練にも勤しんでおりました。その兵は、惣の全軍を凌ぐ兵力と感じていたのです。

  そして何事もなく、三年の月日が経ちました。哀の太守、班迅恒が病で倒れたのです。班家では継ぐ者がなく、皇帝は、誰を哀の国の太守とするか一人で考えておりました。それは秋が来て、宮廷の庭が色付き、皇帝が遙か北の山脈を見つめているときでした。潘国がいつ攻めてくるか、そのためには国の守りを堅くしておかなければならないと思いました。英俊を特に信頼しており、英俊を身近に置いておかなければならないと思っておりました。何将軍は、忠実な武将でしたが、政には不向きだとも思いました。妃の桂英の父、惣の国の太守である揚翔坡に新しい太守が決まるまで任せようと思いました。
 そんな時です、后の桂英が張学参を連れて姿を見せました。三人は、庭に降り立ち池の周りを散策しました。池を一巡りして、部屋に入って椅子に腰掛けました。女官にお茶を出させ、皇帝は天井を見上げ力無くお茶を啜りました。
「何か、お考えごとをしておりますか。席を外しましょうか。」
張学参が言いました。
「その必要はない。哀の太守を誰にするか、考えていた。」
皇帝は、再び天井を見上げました。顔を降ろすと、桂英、そして張学参を見つめたのです。
「適当な者が見当たらない。適任者が見つかるまで、惣の太守に任せようと思っている。この考え、どう思うか。」
妃の桂英は頷くだけで、意見はありませんでした。張学参は、惣の太守である揚翔坡は、二つの国を治めるだけの器量はないと思っていたのです。特に縁戚である略の国と折り合いが悪いと思っていました。
「私の意見を申し上げてもよろしいですか。桓英俊殿が適任だと思います。文武に優れ、性格も穏やかでございます。民の心も、直ぐに馴染むかと思います。」
皇帝は、張学参を見つめました。
「確かに、英俊は適任と思うが、それだけに身近に置いておきたい。」
張学参は、皇帝から目を反らし、庭を見つめました。大きく息を吸うと、恭しく言いました。
「どうでしょうか。桓将軍の後を紅蘭殿に任せたらいかがでしょうか。紅蘭殿は、女人とは言え、桓将軍に勝るとも劣らない優れた人と思っております。」
皇帝は、また天井を見上げました。
「やはり、英俊しかいないのか。」
と呟きました。皇帝は、后桂英と張学参を下がらせ、一人で考えを巡らしておりました。

 皇帝は、哀の地の新たな太守として英俊を命じました。皇帝は、英俊の願いを入れて、羅清と共に哀の地へ行くことを許しました。ただ、紅蘭は都に残し、英俊の後を継ぐ将軍の地位に就けたのです。


 

「英俊と紅蘭」
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