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   「想いは消えず」(その一)
                          佐 藤 悟 郎

 

  (その一) (その二) (その三) (その四) (その五) (その六) (その七) (その八)

 


 彼が中学校時代に過ごした地方都市を離れて十五年もの歳月が流れた。彼が通っていた中学校は、その地方都市の郊外にある古い街並みと酒や醤油などの醸造会社がある地域だった。公務員となった彼は、その地方都市の中心部に異動した。少年の頃の思い出をたどってみて、現在の自分が地方公務員になると予想することはできなかった。彼は、そう思うと寂しさが心に浮かぶのだった。

 少年時代、誰もが思うように、彼にも生涯の漠然とした野心があった。貧しい生活の中で名を築こうという意思がそれだった。それからの中途半端な生活を送る毎日、漠然とした想念は今も変わっていない気がしていた。明確な希望と意思と、そのための能力と成果を欲しいと思っていた。

 心の清らかさが彼を裸にしてくれるだろう。彼は裸にならない限り、少なくとも心から素直にならない限り何もできないだろうと思った。それまでの人生は理屈で歩いてきた。青空を見上げて歩くことも少なかった。青空の中に人の感情が入っていても、素直にそれに触れようとはしなかった。山や川の移りゆく景色を見ることもなかった。それは心の底に高慢が潜んでいて、その高慢さが素直さを覆い尽くしたからだった。根拠のない彼の高慢さであり理屈だった。

 彼にとって、実に長い旅である。人は、精神的な自我を発見し、真剣に育てようとするには長い旅が必要である。静かな部屋で余裕を持って考えることは、大切なことだと思った。今、与えられようとする環境は、最高なものであることに感謝しなければならない。精神のための長い旅は、他人にとってどうであったか知らないが、十五年もの長い間必要だった。その長い間、自分で自分を虚飾していったこと、それに嘘で対決しようとしたことである。いかにも心から離れた、それらのことが無意味だったかが分かる。そんなことを彼は思った。

 彼にとって大切なことは、自分自身の心を裸にすることである。その中には、野心も清らかに流れているはずである。自身がどうすればよいか見えるはずである。高慢とは程遠いのであるが小説家を志す者が、理屈や高慢で技術的な作品ばかり書こうとしていたことが恥ずかしいと思った。そのような小説が、彼の前にあったなら、やはり彼は嫌うだろう。

 そんな止めどもない考えに悩んでいる彼の名前は景山達夫である。労働局職業安定部門の地方公務員で三十三歳になっている。小説を書き続けており、同人雑誌「さざ波」の同人でもある。「さざ波」の主宰者は今野宗平といい、自由気ままな人物で、人生観に豊富な知識を持っている人だった。

『実生活と創作活動の衝突という問題が、如何に大きいか分かる。創作が実生活に支配されるということである。実生活と創作活動は、相容れない点を多く持っている。創作するのに登場人物が大学卒業したと書くと、何か抵抗を感ずる。それは、私の経験がそうでないからである。一種の卑下した気持ちが起きてくる。若者のことを書こうとする。今はどうだろうか。過去にそんなことがあったかと問い返してくる。その一つひとつが、私を悩ませて心がいじけてしまう効果がある。それが荒れた感情となり、実生活を巻き込んでしまう。』
『文学活動を行うには、強靱な精神力が必要だということは事実である。過去の小説家の人生を見ると、やはりそれができないことがあり、創作活動が不可能に陥ってしまうことすらある。そのようなことがないようにしなければならない。全て精神力の問題ではないかと思う。そうでない場合もあるかも知れないが、そのことを意識して活動していかなければならないのではないかと思う。』
『小説が、実生活から離れるということの問題は、文学が嘘を書くことなのかということがある。確かに、小説に嘘があることを否定することができない。これは、誰もが認めるところである。それでも読まれるというのが小説なのではないかと思う。答えにならないかも知れないが、それで良いと思う。』
現在の心境を、そんなことで彼は綴った。

 十五年の歳月が流れ、彼が少年のころ過ごした土地は変わっていた。駅から降りて小路に入り、彼の住んでいた家を見ようとした。そこには住んでいた家はなく居酒屋となっていた。砂利道だった家の前の小路は舗装となって、居酒屋の影を落としていた。青空の中に白い雲が浮いて流れ、初冬の風が冷たく吹いていた。彼は、顔覚えが比較的に良く、建て直した隣の酒屋の店先から中を覗いた。少年の頃の遊び仲間の男の顔が見えた。突然の彼の顔に、彼は怪訝そうな顔をしただけで、顔を背けてしまった。もう彼のことは知らないのだろう。その通りを歩いただけでも、思い出のある顔を二〜三見た気がした。でも、平然と歩く彼には、彼だと誰も気付かなかった。

 彼は、懐かしい所を求めて散策しようと思って歩いた。人を求めるために歩いたのではなかった。街並みが変わったのは、当然だと思った。昭和三十年代の前半のころは、誰でも貧しかったのだ。

 ただ、山並みは変わらなかった。青みを帯びた霞の中に、その山の端を優しく見せていた。彼は、ふと思った。もう変わるまいと思った。今の自分自身の素直さが崩れてしまえば、人生は終わりになるだろうと思った。
 小説を創作するのは、その時々が生命であることもよく知っていた。その時々に書いた文章や小説も、後から手直しすることなど必要ないと信じていた。人生と同じである。後から手直しするなど、誰ができるものだろうか。
 小説を書きながら考え、そして全体として高めていかなければならないのだ。小説が、後から手直しをして良くなる。そんなことは希なことである。総合的に、時として纏めていく。そのように努力することが道なのだと思った。

 彼は、通っていた小学校が好きだった。幼いころ、グランドで夕方まで遊び、よく夕焼けになった空中に、豊かな葉の繁みを見せる大きな桜の木が、大きく浮かんでいるのを印象深く思っていたからだった。日曜日のグランドは静かだった。校舎は昔と変わっていなかった。何か、昔の懐かしい風が伝わってきた。二十年近く前の景色が、そこにあった。そして土の臭いがあった。
 彼は、桜の幹に手を触れてみた。そして、その幹の傷を探してみた。実に、彼の傷付けた記録が残っていた。彼は、その傷をじっと見つめていた。無垢の過去が懐かしくてならなかった。目を閉じると、昨日のように、戯れる自分の姿が浮かんでくるのだった。微かに人の足音が聞こえてきた。彼は、目を開き、桜の幹から手を離して足音の方を見た。和服姿の女性が歩いてきた。紺色の少し地味な姿だった。

 彼は、その女性をただ見つめていた。女性も彼に気付いたのだろう、彼から顔を背けようとしなかった。五メートル位もしたところで、その女性は立ち止まった。そして一度目を落とした後に、また彼を確かめるように見つめた。微笑みを浮かべると、深く彼に一礼をした。
「誰だろう。」
彼は、初めて見る人のようにも思えたし、以前逢ったこともあるようにも思った。一瞬、昔、幼いころの同級生や近所の女の子の顔を思い浮かべてみたが、何の心当たりもなかった。彼は、戸惑いを感じながら、軽く会釈をした。中々、その女性は歩こうとはしなかった。彼がよく見ると、その女性は、手を前にセカンドバックを両手で押さえ、小刻みに震えているのが見えた。そして、首も硬直したのだろう、震えていた。

 彼は、何か、その女性に悪意でも与えたのかと思った。近付いて
「どうかしましたか。」
と、できるだけ柔和に言ってみた。女性の小さな、少し上ずった声が、途切れ途切れに聞こえた。
「ゥ、ゥ、動けなくなってしまいました。」
そう言っているのが分かった。かなり、その女性が楽になるのに手間がかかった。
「分かりますか。私、並木恵子です。」
彼は、そう言われて驚いて、目を大きく開いて彼女を見つめた。昔の面影が残っており、右目の脇、少し下に小さな黒子があるのを見た。確か、彼より年下の女の子だった。恵子の姉悦子と遊ぶと、よく彼の後ろにも付いてきたのだった。
「貴方と分かって、驚いてしまい、動けなくなってしまったの。」
恵子は、そう言った。彼は、恵子と聞いて懐かしく思つた。とても強い好意を持っていた女の子だった。恵子は、綺麗に装いをしていた。そして、女性としての色気も漂わせていた。

 彼は、恵子に誘われるがままに一緒に歩いて、彼女の家へと向かった。町の通りにある、お茶屋の娘であることは知っていた。ただ年は、二つ下で三十歳近くになっているはずだった。若く装っている彼女は、そう見えなかった。
 道すがら、恵子は、時々彼の顔を見て微笑み、
「驚いた。」
とか
「懐かしいわ。」
ということを言っていた。何もよそよそしい感じもせず、歩けることに不思議さを思った。駄菓子屋の前を通り過ぎた。
「ここで貴方はキャラメルを買ったでしよう。そして二十個の中から、私に何個くれたか分かる。」
彼は、そんなこともあったことを思いだした。確か、姉に六個、妹に四個くれて、二人が喧嘩をしたのを思い出した。
「忘れたよ。買ったのは覚えているけど、何個だったかな。」
「四個よ。」
「そうだっけ。姉さんと喧嘩をしたのは、その時だったかな。」
彼女は、彼の腕を曳いて引き留めると、彼と向かい合って、首を小綺麗に傾けて微笑んだ。
「そうよ。キャラメルで喧嘩したのよ。貴方は、私に、もう二個くれたのよ。とても美味しかったわ。」
わざわざ立ち止まってそう言って、また並んで歩き始めた。親しみが、彼の心に湧いてくるのが分かった。

 恵子の家は、昔と余り変わらなかった。店舗は明るく、改装されていたが、お茶の香りが漂う気持ちの良い店だった。店には、彼女の弟夫婦がいた。店から廊下を歩いて、奥の居間に行き、彼女の両親に会った。両親は、昔の面影を残し、彼を笑顔で迎えてくれた。上等なお茶を口にしながら、昔の話を楽しんだ。恵子は、部屋から出て行った。そして白色の、彼女に似合うワンピース姿で現れた。

 恵子のいない間、両親は、姉悦子のことや恵子のことを話してくれた。同級生の姉悦子は、三十の歳になって東京へ嫁に行ったと話した。彼を家に招いてくれた恵子については、中学校の教師をしていて、やりたいことを気儘にやりながら過ごしていると言った。嫁に行く気が全然ないと嘆いていた。縁談話は時々あり、最近になっても、良縁が舞い込んできたが無碍に断り、相手方に悪いことをしたとも話していた。

 彼女が着替えて戻ってくると、彼の話題となった。彼は、素直な気持ちで、この土地から去った後のことを、かいつまんで話した。飾る気持ちも、少しもなかった。飾ったところで、どうなることでもなかった。それはそれで、この地から去ってから、今までの間とは大きく異なっていた。虚飾しか知らなかった彼では、とても考えることができないことだった。
「そう、頭が良かったのに、大学へ行かなかったの。」
恵子の母は言った。以前の彼であれば、くどくどと言い訳をしたかも知れなかった。
「大学を受けたのですけれど、落第しましてね。」
彼は、ありのままを話した。恵子は、彼が菓子を食べてしまったのを見て、自分の菓子を彼に勧めてくれた。彼は、地方公務員として働いていた兄の紹介で、地方公務員となり、この地に近いところに転勤してきて住んでいることを話した。そして懐かしい所へ散策に出かけ、恵子に会ったことを話し、招いて貰ったことを感謝していると話した。恵子の母は、彼の住所を尋ねた。
「そう、アパート暮らし。大変ですね。子供さんも大きくなられたのでしようね。」
彼は、別に気にも留めなかった。
「アパートは、役所の近くだったので借りたのです。甲斐性無しで、まだ一人です。来てくれる人がいないもんですから。他人から、変人と言われているんですよ。」
恵子の母は、言ったことが彼の気に障ったと思い、彼に詫びを言った。

 彼は、恵子の家を辞して街に出た。恵子が後から追いかけてきて彼に声をかけ、一緒に並んで歩いた。初春の陽が顔に当たり、幾らか風の寒さも緩んでいるように感じた。
「どちらへ行かれるの。もう帰るのではないのでしょうね。」
彼は、実際アパートに帰りたかった。小説家を志しており、作品が遅々として進まず苛立っていた。とにかく原稿用紙の前にいないと、落ち着きがなくなってしまうのだった。何の経験もせず、その思惑だけを持ちながら、情景も浮かばないままに、全体から見れば、奇異な文章を書いてしまう始末だった。ここでは情景を書かなければ、では、情景とはどういうものを選ぶのか、という類の作品だった。

 人の会話、描写、感情など、あらゆることに渡っていて、それを一つひとつ吟味し、組み立てていく仕事だった。小説とは、そういうものだと思っていた。そういうことをして、全体を纏めていく。作品の出来具合は、完成してみなければ分からないといった代物だった。
 そして常に迷うのだった。作品らしくない点について、何が原因なのかということを真剣に思っていた。完全な作品でなければ、決して小説家として成功しないと思っていたのだった。しかし、却って完成・完全な作品を持っていたとしても、必ず成功する保障など、どこにもないとも思った。
「昔と変わってしまって、どこへ行く当てもないですよ。帰ろうと思っています。」
彼がそう答えると、恵子は、バス停近くの喫茶店に彼を誘った。小綺麗な、人のいない静かな店だった。
「私、小学校のグランドで会ったとき、本当に驚いたのよ。」
「どうして。私に気付く人なんか、いないと思っていたのに。」
恵子は、微笑んで、少し顔を赤らめ、彼を見つめた。彼も彼女を見つめていた。彼女の大きな動悸が伝わってきた。そして間もなく、彼女は顔を伏せてしまった。静かに、ウェイトレスが二人の前にコーヒーを置いていった。
「幾つですか。」
彼はそう言って、匙二杯の砂糖を、彼女のコップに入れた。
「顔を伏せているなんて、悪いことですね。」
一層赤くした顔を彼に見せて、コーヒーを飲み始めた。彼は、彼女が何を思っているのか、はっきりと分からなかったけれど、彼に対する好意を抱いていることだけは確信した。
「貴方は、私のことを思い出してくださって。見た瞬間、あの木の下で。」
彼は、首を横に振った。恵子は、どうして思い出さなかったのかと彼に尋ねた。彼は、思ってもいなかったこと、長い年月が経っていたからだと言った。忘れても当然のことだと思った。
「私は、貴方と逆のことを思って生活してきたのです。だから、直ぐ貴方と分かったのです。」
彼の何が、彼女をそうさせたのか分からなかった。熱いものが、彼の体の中を這いずり回りだした。清楚な光に輝きだした彼女の顔を、彼は見ることができなかった。そして俯いてしまった。おそらく、彼女も俯いたに違いなかった。無言のまま、時は過ぎていった。彼が顔を上げると、彼女は、落ち着いた少し潤んだ清楚な瞳を彼に投げかけていた。

 喫茶店を出て、二人で無言のまま、バス停留所に立っていた。バスが来ると、彼はそれに乗って、窓から直ぐに外を見た。白いワンピース姿の彼女が、手を振っていた。そして、バスが走り出すと、大きく手を振っているのが分かった。彼は、女性として、感情の強い大胆な人だと思った。そして甘い感情が自分を包んだ。

 彼は、アパートに帰ると机の前に座った。そして彼の癖なのだろう、暫く考えていた。
「小説を書く上で、最低限必要なものは何であるかを思ったことがあっただろうか。ゲーム遊びのような真似をして、それまで小説を書いていた。それらの全てを要約するならば、想念ということである。」
「思うことは、作り出すことに違いないが、もっと別の意味がある。その中には、筋もあれば情景もあり、人もあり、言葉もあるのだ。小説は、まさにそれを書くことなのだ。一部始終を書くことは、到底できない。その中に必要なもの、それは想念を想起させ得ることと思うが、抜き出して書くことである。想念は、動くものである。だから的確に、迅速に書いていかなければならない。想起させるための対象は想念であるが、時と共に消えてしまう。小説家として大切なことは、自己の正しい想念を作り出せること、それを素早く書けることであると思う。」
そんなことを考えていたのだった。

 

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