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   「想いは消えず」(その五)

                          佐 藤 悟 郎

 

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 冬が過ぎ四月になった。山の地では雪が多く残っていたころ、彼は本庁への勤務命令を受けた。本庁の課長補佐級の抜擢異動だった。彼は、前局長の計らいだと思った。

 彼は、片田舎で過ごした一年を振り返った。こうして彼は自分のことを書いている。小説だと思っていないが、それに近いものにしようとしている。何か物足りないものとなっている。それもそうである。感情とその場面を徹底的に殺している。あるいは書けない。殺したそのままを書いている。それが原因である。
 構想が無い、特に人の感情表現がされていないことが、大きな原因であろう。思うことは大切である。無意識に時間に追われて書くものに、ろくな代物はない。しかし、努力だと思う。何が欠落しているか分かるだけでも、得をしたと言わなければならない。それを充足するがために、努力するべきである。分からない点を多く拾い出していかなければならない。
 まるで、現在の彼の書いたものは、玄関の戸を叩き、入らないまま、さようならである。それで良いはずでは決してない。

 案の定、彼の東京の宿舎はもう決まっており、前局長の娘敏子が母と一緒に、片田舎の彼のところまで荷造りの手伝いに飛び込んできた。彼自身、いずれこの敏子と一緒にならなければならないと思った。人生の既成事実が、ここまで進めば、彼は、否応なしに流れていくと思った。

 荷を送り出し、交替の支所長に事務引き継ぎをした。労働局の方からも、彼に挨拶方々多くの人が訪れた。彼は、一旦県の労働局の方に挨拶に行き、現労働局長に会った。
「本庁は辛いぞ。特に課長補佐はな。優秀な奴らを相手に、負けんようにな。」
そういう助言があった。そう言われてみれば、学歴も、友もない彼には、多くの困難が山積すると思った。彼は、自力で、それを乗り越えようと思った。それと同時に、東京に出て小説家としての決着をつけようと思った。

 東京へ行くまでの間敏子は、ただ落ち着いていた。静かな目を彼に時折見せ、いつも彼の隣に位置していた。列車の中では、軽い眠りに陥り、彼の右肩に凭れている敏子だった。彼は、その黒髪の香りを感じながら、決して悪い思いは何一つなかった。これが彼の妻になる女性だなと思い、微笑んでもみた。
 東京の宿舎に着くと、彼の部屋は、大方片付け終わっており、前局長である本庁の三席が一人で待っていた。
「どうだい。上手くやっただろう。私の配慮も、満更でないと褒めてくれよ。」
そう言って、梶原前局長は敏子を残して妻と二人で宿舎を去って行った。彼は、敏子と二人で寛いで、お茶を口にしていた。敏子の顔は、生き生きとして輝いていた。

 それにしても彼は、現在創作している作品について思った。彼が作り出した小説家、その小説家の生き様についての小説だった。思ったことは、小説家が小説家の話を書くのは、最低のことである。小説は、普通に通用する作品でなければならないのが鉄則である。彼は、自分の締めくくりとして書いているつもりである。今まで書き上げた下らない多くの作品をもって、世の中に問うつもりは更々ない。そんなことをしたら、惨めな破局となるだろう。進歩していく自分の作品を書き上げていくことだ。そのためには考え、一気呵成に書き上げるのだ。テーマの全体が定まっているか。それから書いていくことだと思った。
 小説は終わりが来なければならない。全てがそうであり、終わりがある。終わりとは、何であろうか。良く言われる結果とは大きな違いがある。終わりには、多くの意味がある。出発という意味、これから続くという意味、様々だと思う。そこで終われば、全て終わりなのだ。結論的に、終わりは終わりであり、それに加えて意味があるものと言わなければならない。

 彼は、今手がけている作品が書き終われば、それからも下等な代物を書き続けるだろう。でも今までとは異なった意味合いから、純粋な人間性を基本として、小説を書いていかなければならない。小説が小説であり得る気持ちを持ち、その実りある事柄を探しつつ、終わり無き作品を多く書くことになると思う。彼は非難されるものであっても、それを甘んじて受けなければならない。逃げも隠れもしない立場にいつもいようと思った。
 劣悪な小説とは、どのようなものか知らない。自分の書いた小説を言うことになるのかも知れない。小説の中の、全ての要素を愛し、理解して、作品を書き綴ることが小説家の生命と思う。そして、現在以上の力を作品に現すことは不可能である。その真実だけは、忘れてはならないと思った。

 人生は、思うように動いてはいかなかった。彼には、安楽な生活が手に届きそうだった。一気に彼の公務員生活は失われた。何のことはない。部下の不始末が一年経過した時に暴露して、部下は懲戒免職となった。直属の上司としての彼に責任を取れとのことだった。誰も彼に救いの手を伸ばす者とて無かったこと。道に外れて昇進した理由があり、その理由を失えば全てを失ってしまうことを彼は知らなかった。

 彼は依願退職をして、都心から電車で一時間くらいかかるところに、アパートを借りて暮らしていた。前局長の敏子の姿もない。部屋の中には、本と机がある生活だった。余分な物は売り払ってしまった。彼の収入はゼロだった。退職金で食い繋ぎ、その間に小説家としての道を立てようと志したのだ。数年の費用しかない。ぎりぎり詰めての数年の費用である。
 敏子が、彼の元を去ったのは、彼が依願退職する一か月程前のことだった。
「好きな人ができたの。貴方より。」
そう彼に電話があった。彼は、敏子の選ぶのに任せると言った。彼は敏子に言った。
「お目出とう。幸せになってください。」
敏子は明るい声で、
「有難う。」
そして暫く無言のままだった。
「達夫さん。貴方のこと、忘れないわ。一生忘れないわ。」
その声は震え、嗚咽となった。
「私、小説を書くことも諦めない。貴方の作品を全部持っているわ。素晴らしい作品ばかりよ。今に世に出るわ。こんなことになって、ご免なさい。」
彼は悲しくなった。慰める言葉もなかった。彼はゆっくりと最後に言った。
「これからの人生、幸せだけを考えれば良いと思います。今まで楽しかった。本当に有難う。さようなら。」
敏子からの返答がなくなり、長い沈黙の後に電話が切れた。

 彼が退職して直ぐに、敏子の結婚式が挙げられたことを聞いた。同じ役所の若い青年だった。半分敏子の父に左右された人生であり、恨む気は少しもなかった。敏子との間に、交わりがなかったことに咎める思いもなかった。

 苦しい生活の中で、明るく楽しいことを考えることは、実に困難を伴った。自分自身を責めているようでならなかったからだった。自由な時があっても、却って無駄が目に付くようになった。焦る。書いて、世に出して、売れて、食えて、数年でそんなことができるかどうか疑わしいと思った。

 身形も、自然と貧しく、汚くなってきた。年寄りじみてきた。彼は、街を歩いても、変人そのものだった。それを計算に入れなかったのだった。気付いて、身形を良くしていった。ドンドン費用は増し、金は失っていった。いよいよ金が残り少なくなった。
「小説では、こんな時、誰かが助けてくれるものだ。」
彼は、そう思った。彼は、それまで良心的に人生を生きてきたつもりだった。ただ、自分の選んだ人生が、間違っていたに過ぎなかった。空腹を覚え、外に飛び出した。職がないかと歩き、公園や駅で水にありついた。

 土方仕事にありついた。一日働いて、疲れを癒すために酒にありついた。泥のように、夜は深い眠りに陥った。時々、
「これでは駄目だ。少しでも書かなくては。」
そう思って筆を執る。夜更かしをすると、翌日がとても辛かった。彼は、涙を流さなければならなかった。四十歳にも近い、この身になったこと、もう、書く余裕など無くなった人生、如何に口惜しい気がしてならなかった。
「時間さえあれば、私の、思い切りの感情を、吠え立たせてやる。」
酒を飲みながら、何度も、何度も涙したことがあった。時は過ぎていく。春と夏と祭り騒ぎと、目の前を若い人が、少女が、少年が、彼の過去のように通り過ぎていく。

 彼は、心身の衰えを知っていた。もう、長くはない。心が参れば、狂気になるだろう。身が参れば、床に臥すだろうと思った。軽い風邪に、打ち克つ力さえなかった。枕元に水を用意し、眠る日が多くなった。起きる力さえ、無くなっていた。
『本当に、辛い毎日だ。助けてください。』
彼は、恵子宛に、それだけ書いた手紙を用意していた。いよいよの時に、それを投函するつもりだった。そして、彼は幾日もなく、朧になった脳裏に諦めの思いが横切っていった。
『人生には色々なことがあった。喜びも、悲しみも、そして、愛も憎しみも、栄光も没落も、全てが人生には、そして一人ひとりに憑きまとっている。ただ、誰一人として、それを知らないだけである。人は、その立場で、更に底があり、高さがある。そして、感情を持っている。
 小説もそうである。色々と作品の見方があるかも知れない。他人から見れば、私の作品でも、色々な見方と違った見解があるだろう。しかし、実質は、私自身以外の何ものでもないのだ。長い小説だから良い小説である、優れた作家だから作品も優れている、そんなことは決してない。小説に関し色々思い、心に留めることがある。小説家としての意思の上に立つ、名も知らぬ人だろうか。永久に、私は息を吹き返すことなく、失われてしまうのだろうか。』
彼は悲しい思いを抱きながら、深い眠りに陥った。

 彼は夕暮れになって深い眠りから目が覚めて、空腹に襲われた。飯もなければ米もなかった。アパートをから外に出ると俯いて歩いた。通りに出て駅近くの小路に入り、顔を上げると暗い小路に「お多福」と書かれた赤提灯が軒下に下がっているのが目に入った。
「どうせ、俺の来るところは、こんな所なんだ。」
そう呟いて彼は店に入った。店に入ると日雇い土方などか喚き散らして酒を飲んでいる。顔見知りとなった男もおり、手を挙げて軽く会釈をしながら奥のカウンターの椅子に腰掛けた。隣には首にタオルを巻いた男が、連れの男と話し込んでいた。

 彼はカウンター越しにいる店の女将に
「いつものやつをくれないか。」
と言った。女将は
「お握りと漬け物、二合徳利だね。分かったよ。」
と答えて、脇の調理場にいる親父に注文の品を大声で言った。
 彼は熱めの酒徳利からコップに半分程酒を注いで、煽るように飲んだ。次いで片肘をついて握り飯を食べると、幾らか腹が満たされたと思った。もう小説を書く時間が惜しいと思うことはなかった。顎に手を当てて肘をついたまま、目を閉じると隣の男の話が耳に入ってきた。
「君の小説、あれは売れないよ。筋も悪いし、文章もお粗末、そのものだ。冗談にも、編集部に持ち込めないよ。」
隣の首にタオルを巻いている男は、いとも素っ気なく言っていた。その口振りから、どこかの出版社の編集者なのだろうと思った。目を開けてタオルを巻いている男の隣に座っていた男の方を見つめた。その男は腹を立てたらしく、椅子を蹴るようにして席を立ち店から出て行った。
 首にタオルを巻いた男は、何事もなかったように女将とたわいもない世間話をしていた。そして急に彼の方に顔を向けると
「君、小説を書いたことあるか。」
と問いかけた。彼はその男を見つめた。
「ああ、少しは書いたことがある。」
彼が答えると、間髪を入れず、
「今も書いているのか。」
彼は頷きを見せた。彼は、何者か分からない男とまともな話はできないと思った。
「書いた作品があれば、私に見せてくれないか。」
その男は単刀直入に話し込んできた。
「余り、出来が良くないものだ。」
彼が答えると、直ぐさま男は
「出来具合が良いか悪いかは、自分で判断するものではないよ。」
そう言って、男は懐から名刺を取り出し
「私は、金曜日にはこの店によく来るんだ。来週の金曜日にも来るので、作品を持ってきてくれないか。」
と言い放つと、タオルを首から外して鞄の中にしまい込み、立ち上がって名刺を彼に渡して店から出て行った。彼は名刺をカウンターに置いて、コップの酒を飲みながら名刺を見た。名刺には
晶成社 編集部 編集者 中西六平
と書かれていた。名の知れた出版社で、彼はその編集者の名前も知っていた。
「女将、今の人知っているのか。」
彼は女将に尋ねた。
「ええ、知っているわよ。どこかの出版社の人と言ってた。以前はしきりに来て、あちこちの人に話しかけていたのよ。今日は、久しぶりに見えたの。さっきまで隣りにいた人、小説を見てもらったらしいの。でも突き返され、ケチをつけられてしまい、怒って帰ったみたい。」
女将は、そう話してくれた。彼は、珍しい編集者もいるものだと思った。彼は酒を飲み続け、酔いが回ってくると編集者中西六平のことが、ひどく気に掛かってきた。あの梶原局長の娘敏子を知り会った同人誌とは比べものにならない世界であることも感じた。

 次の金曜日になると、彼は最近書き上げた小説を大封筒に入れて居酒屋「お多福」に入った。店に入ると女将が彼を指差し、続いて中西編集者が振り返り手を挙げて招く素振りを見せた。やはり中西編集者は、首にタオルを巻いていた。
 彼は中西編集者の隣の椅子に腰掛けると、直ぐに大封筒を手渡した。中西編集者は、大封筒から原稿用紙の束を取り出し、一枚目を見てからぱらぱらとページを捲り、それが終わると
「確かに預かった。後から、じっくりと読ませてもらうよ。」
そう言いながら、大封筒ごと鞄にしまい込んだ。
「折角の縁だ。一緒に杯を交わそう。今日は、私がおごるから。」
そう中西編集者は言いながら、カウンターの笊の中に入った大きめのお猪口を選んで彼に渡した。暫く学生運動や野球の話をしていたが、急に中西編集者は
「ところで、原稿用紙の名前、景山達夫、あれペンネームか。」
と彼に尋ねた。彼は、
「ペンネームなんて持ってませんよ。本名ですよ。」
と答えた。中西編集者は頷きを数回見せると、
「じゃ、「さざ波」という同人誌に、以前よく載っていた小説は君のものか。」
と言った。彼は薄ら笑いを浮かべ、
「ええ、そうですが、そんなところまで目を通しているんですか。」
と感心するように答えた。
「それはそうですよ。宝が眠っているかも知れんからですよ。」
中西編集者は、そう言うと立ち上がって
「急に用ができたんだ。景山君に悪いけれど、俺、店から出るよ。」
と言って、余分程の金を女将に渡した。鞄を取り上げ、右手を拝むようにして彼に挨拶をすると店から出て行った。彼は、猪口からコップに替えて、ちびりちびりと酒を飲んでいた。
「同人誌の私の作品にも目を通している。それでも声がかからないのは、私の作品が認められていないということになるのか。」
そう彼は結論付け、預けた作品も期待が持てないと思った。

 

 

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