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   「想いは消えず」(その八)

                          佐 藤 悟 郎

 

(その一) (その二) (その三) (その四) (その五) (その六) (その七) (その八)



 時間が経つにつれて、会場内は人の話し声で騒がしくなった。
「こんなもんですよ。居酒屋同然ですね。ところで、並木さんの出身地は新潟の宮原ですよね。遠山君、いや景山君を知っていますか。」
中西は、少し大きな声で恵子に尋ねた。
「ええ、知っていますわ。私の姉と同級生でした。でも、中学校卒業間近にどこかへ行ってしまいました。」
中西は、そう言っている恵子の顔を見て寂しさを読み取った。おそらく何かの因縁があると思ったが、この場で話を続けるのは相応しくないと思った。中西は、頷きを見せてから顔を橋本に向けた。

 酒の酔いが回ってきたのだろう。会場内は益々騒々しくなった。そんなところに営業部の若い連中がカラオケ道具を引っ張り出した。それでも司会者は歌う希望者を指名して行うことを忘れなかった。時を見計らったように、司会者は少し大きな声で
「どうでしょう。ここで遠山達夫さんから、一曲歌ってもらいたいと思いますが。」
と言った。会場から渦巻くような拍手が湧き起こった。彼は、頭をかきながら壇上のマイクの前に立ち、カラオケ曲集を開いた。
「私は、歌謡曲は良く歌えません。唱歌で、ご容赦願います。」
そう言って、彼は曲番を司会に告げた。
「芭蕉布を歌います。」
前奏が流れ、彼は歌い出した。中西は、橋本との話を止めて、壇上の彼を見詰めた。
「やはりそうか。彼は並木への思いが心に焼き付いているな。」
澄み切ったテノールの声を聞きながら中西は思った。中西は、彼が歌を上手に歌っていると思いながら、恵子に目をやった。恵子は、じっと壇上の彼を見詰めていた。そして目が潤んで、光っているのが見えた。恵子が彼への熱い思いを抱いていると思った。
「遠山さん、素敵に歌っているわ。魅力的よ。」
橋本は、恵子に言葉をかけた。恵子は、一瞬戸惑いを見せ、橋本に顔を向けた。
「そうですね。とても綺麗な声ですね。」
恵子は、そう言ってすぐに顔を壇上に向けた。橋本は、恵子の目が潤んでいるのを見ると、何か激しい感情が恵子を包んでいると思った。
 中西は、恵子が彼と恵子の姉が中学校の同級生と言っていたこと、彼が唱歌「芭蕉布」を歌ったことから、彼の短編集の「初恋」そのものだと思った。そして彼が会場での挨拶の中で言っていたこと、困難なときに
「助けてください。」
と手紙を書いた宛先の女性は、並木恵子であることを確信したのだった。

 彼が、歌い終わって壇から降りると女性編集部員が多い席へと行った。ジュースを飲んでいる者や酒やビールを飲んでいる者、様々だった。古参女性編集部員が、奥のテーブルにいる中西の方を指差して彼に尋ねた。
「遠山さんは知っているでしょう。中西さんの前にいる女性、一人はピアノ演奏家の橋本さん、もう一人は小説家の並木さんですよね。」
彼は答えることなく、少し顔色を変えて奥のテーブルを見詰めた。急に懐かしさの余り体が強張り、かすかに目に霞がかかった。彼は、手の甲で目を拭い、問いかけた女性部員に
「教えていただきまして、有難うございました。」
そう言って少し考え、新しくビール瓶の栓を抜いて手に持ち、奥のテーブルに向かった。彼は奥のテーブルに腰掛けている恵子が、自分を見詰め、一度頭を下げて、また見詰めているのが分かった。

 彼は奥のテーブルの中西の脇に立ち、
「今日は、私のためにおいでいただき有難うございました。」
そう言って、恵子にビールを注ごうとして瓶を前にしたところ、中西が
「並木さんは、ワインを飲んでいたよ。」
彼は、中西の言葉で少し戸惑い、ビール瓶をテーブルの上に置いてワインの瓶を捜した。
「達夫さん、私ビールを飲むわ。」
そう言って恵子は、テーブルの上のビール用のコップを手にして、彼の前に差し出した。彼は恵子にビールを注ぐと、中西が渡すワインの瓶を携え橋本の脇に立ち、ワインを注いだ。彼は、恵子の隣の椅子に腰掛けた。恵子はビール用のコップを取り、彼に渡すとビールを注いだ。そして恵子は
「達夫さんの、これからの益々のご成功を祈り、乾杯しましょう。」
そう言って、中西はコップに酒を注いで、四人で乾杯をした。杯を上げ終わると橋本は恵子に向かって
「並木さん、遠山さんとお知り合いなの。達夫さんと言うなんて、本当に親しそうに聞こえるわ。」
と尋ねた。そう言われると、恵子は数回頷きを見せてから言った。
「橋本さん、先程中西さんに言ったように、幼いころの知り合いだったの。そして、私は達夫さんのこと忘れたことないの。でも、ずっと会えなかった。今日は、とっても嬉しいの。」
恵子の声は、何故か少し震えていた。恵子の言葉に、橋本は恵子が彼に対して、懐かしさ以上の感情を抱いていることを感じた。そして中西が思ったように、恵子が彼の短編小説「初恋」に出てくる少女だと思った。橋本は、二人の再会を思うと少し心が熱くなるのだった。少し雑談をした後に橋本は
「私、少しピアノを弾いてくるわ。」
そう言って一礼をして、テーブルから離れて司会者の方へ向かって行った。中西も
「俺、向こうの方で酒を注ぎ回ってくる。」
と言って席から離れた。彼と恵子は二人きりとなると、話すこともなく、ただ見つめ合っていた。

 司会の橋本の紹介に続き、橋本のベートーヴェンの「熱情」が流れてきた。恵子は彼に尋ねた。
「達夫さん、思い出の地を訪ねると言うこと、宮原にも行かれるのでしょう。」
彼は、頷きを見せながら
「思い出の地と言っても、そう多くはないのです。宮原へも行ってみようかなと思っております。」
と笑顔で答えた。それを聞くと、恵子は大きく頷いた。

 橋本のピアノが終わり、大きな拍手が起きた。それと共に、編集部の若者達が数人、奥のテーブルに押しかけるようにやって来た。橋本がテーブルに戻ってくると、恵子と二人を取り巻くように椅子に座り、あるいは立って次々と話し掛けた。彼は立ち上がり、二人に丁寧にお辞儀をすると、前方のテーブルに向かった。

 会は延々と続く様相だった。彼も、他のテーブルに座り込み、今度は杯を受ける立場となっていた。暫くして恵子は、彼がそのテーブルに戻ってこないと思った。橋本と話をして、ホテルから出て喫茶店に寄って少し酔いを覚まして帰ろうと話し合った。二人が会場から出る時、彼はホテルの外まで出て見送った。別れ際に恵子は彼に向かって
「宮原で、きっと会えるわよね。」
と言って、タクシーに乗り込んだ。彼は走り去っていくタクシーを見送った。恵子はタクシーの中で、黙って思い巡らせていた。
「宮原の、あの思い出の橋へ行き、私は達夫さんにはっきりと言うわ。」
そう心に決める一方で
「本当に会えるかしら。」
という不安が、さざ波のように心に寄せてくるのだった。
「さあ、着いたわよ。私の知っている喫茶店よ。」
突然のように、橋本の声が恵子の耳に入った。一瞬、驚いたように恵子は橋本を見詰めた。橋本は、
「大丈夫よ。並木さん、思っているようになるわよ。」
と恵子の心を見据えたように言った。そしてタクシーを降り立った二人は、小さな喫茶店へと姿を消した。

 彼は故郷に旅発つ際、晶成社を訪れ中西に挨拶方々面会した。中西は、彼を喫茶店に誘った。
「呉々も体に気を付けてくれ。無理が重なっている。痩せ気味になっている。旅の間、よく食べ、よく眠ることだ。執筆するには、心身共に健康であるのが必須の条件であることを忘れるな。」
中西は、彼が旅の間に激しい執筆活動をするのではないかと案じて言った。彼は、
「有難う。少し疲れを感じているが、大したことではない。旅は、のんびりしてきますよ。」
そう言った。更に彼は中西に
「中西さんには、世話になってばかりいますので、言っておきたいことがあります。私は、「さざ波」同人として戻りました。多少寄稿もしております。「さざ波」にも少なからず恩を感じております。悪く思わないで欲しい。」
と言った。彼の少し心配そうな表情を見て、中西は少し笑ってから言った。
「そんなこと心配することないよ。「さざ波」の主宰者、今野宗平は私の友達だよ。彼もある出版社の記者をしたことがある。ただ、自ら小説などを専門とする雑誌に憧れたんだ。そして同人誌「さざ波」を立ち上げたんだ。彼から「さざ波」が発行される度に、私に送ってくれる。だから景山さん、いや遠山さんの作品は全て読んでいたんだ。最新号で、貴方の作品を読んで知っている。良い作品だと思っているよ。」
彼は、中西の言葉を聞いて頷き、笑顔を浮かべ安心の様子を示した。
「中西さんに、嫌われるのではないかと、心配しておりました。晶成社の方の仕事があれば、全力を挙げて頑張ります。宜しくお願いします。」
彼の言葉を聞いた中西は、
「余計なことを気にするな。君はもう立派な作家なのだ。自分の思うがままにすることだ。」
そう言って、重ねて彼の心配事を笑い飛ばすように言った。
「そうだ、今野君から、並木恵子女史から「さざ波」の同人になりたいと問い合わせがあったと言っていたよ。勿論OKしたとのことだったよ。」
彼は驚くと共に、一緒の場で活動ができるのに喜びを感じた。
 その後、中西は彼に旅の日程について聞いた。彼は、旅は一か月間の予定で、宮原に最後の十日程いたいと思っている。宮原は、既に旅館を予約しているので今月の二十日には旅館に入らなければならないと話した。彼は中西と別れ、東京駅から列車に乗って旅に出た。

 恵子は、「励ます会」の挨拶の中で、彼が一ヶ月程の旅に出ると言っていた。思い出の地を巡る、そして宮原へも訪れたいとも言っていた。恵子は、彼と二人切りで話したいと思っていた。彼と連れ添って人生を送りたいと言いたかった。彼の返答がどうあれ、恐れることではなかった。

 恵子は、彼の旅が六月の中頃と言っていたことに思いを巡らしていた。恵子は、丁度、六月の下旬に故郷の宮原に近い高等学校での講演会の依頼が来ており、承諾していたのだった。
「達夫さんは、必ず宮原にも来るだろう。」
と思った。六月の中旬に宮原の実家に行き、高等学校の講演会を終わった後、暫く実家で過ごして七月中旬に東京に戻る腹づもりだった。明るいうちは、散歩をして思い当たるところを歩き、彼と出会えることを期待していた。執筆活動は、夕食後に始めれば良いと思った。

 恵子は翌朝早く、東京駅へ行って売店で、手土産として東京名物の鳩最中と人形焼を買い求めた。東京駅から一番列車に乗って故郷の宮原へと向かった。列車の中で思ったことは、
「私は、達夫さんにはっきりと言うわ。あの小川の橋に連れ出して、約束したこと守ってね。」
と言って、どうしても彼を口説き落とすことだった。そして二人で、母の元に赴いて結婚することを告げることだった。車窓からただそれだけを思い、流れていく景色などを見過ごしていた。

 恵子は宮原の実家に行き、母の部屋で寝泊まりする生活を送った。執筆活動は、以前の自分の部屋が空いていたことから、午前中と夕食後は座卓を前にして執筆活動をしていた。午後は散歩をして早めの夕食に間に合うように帰った。

 高等学校の講演会も終了し七月になった、ある夕食後だった。母が、食後の果物を持って恵子の部屋を訪れた。
「日が長くなったわよね。今日は、お月様綺麗だよ。見てごらん。」
そう言って、恵子の母は座卓の先にある障子戸を開いた。恵子は、立ち上がって窓辺に行き、空を見上げた。スーと蛍が光を見せて通り過ぎていった。恵子は、ふと懐かしさが横切った。恵子の母が
「あら、蛍が飛んでいる。思い出すわね。大萬渡川へ蛍を見に行ったこと。丁度今頃だったよね。」
と言った。恵子は、母の顔を見て
「え、大萬渡川へ行ったのは、昼でなかったの。」
と問いかけると、母は頷いて
「昔のことですので覚えていないのかしら。当たり前よね。姉の悦子、それに景山君の四人で出かけたのよ。」
母の言葉を聞いて、恵子は一瞬顔色を変えた。彼と大萬渡川に行ったのは、一度しかなかったからだった。川の橋の上で彼と並んで座っていた時、蛍が目の前を横切ったのを思い出した。

 恵子は、彼が大萬渡川に行っているかも知れない。そう思うと、俯き考え込んでいた。思い詰めたように顔を上げて母を見て言った。
「お母さん、これから大萬渡川に行かない。蛍がいっぱいいるわよね。」
母は、娘恵子の顔を覗いた。真剣な眼差しで、母を見詰めていた。母は、恵子が何かを思い詰めている様子に気付いた。行くのを断っても、一人でも大萬渡川に行くと思った。
「そうね。行ってみようか。」
母は、笑顔で言った。二人は、そのままの服装で出かけた。

 出かける際、母は孫を誘ったが、宿題があると言っていたことから、恵子と二人で出かけた。町の通りから外れて裏通りに出た。農業高校の桑畑の中の道を歩いた。月は丸みを帯びて、明るく地上を照らしていた。ちらほらと人影も見えてきた。川からの帰りなのだろう、子供の手を引きながら歩く姿が見られた。

 林を抜けると大萬渡の村影が見えた。村のたたずまいに明かりがともり、川は大萬渡の村から流れる清らかな川だった。恵子は林を抜けると大萬渡川の方を見詰めた。子連れの人影が目に付いた。橋の上に男の子と父親と思われる二人が、連れ添うように屈み込んでいた。
「やっぱり、達夫さんはいないわ。東京に帰ったのかしら。」
そう思いながら、橋近くまで歩いて行った。

 突然、図太い男の声がした。
「帰るぞ」
その声で橋で屈み込んでいた男の子は立ち上がり、屈み込んでいる人に手を振っていた。男の子は、声をかけて道を歩いてくる男を追いかけながら走ってきた。男の顔が見える頃に、恵子に母は言った。
「五十嵐旅館の跡取りよ。駅前の旅館よ。」
五十嵐旅館の跡取りが彼と中学校の同級生だったことは、恵子は知っていた。そしてすれ違う頃になって、母は挨拶方々五十嵐旅館の跡取りに声をかけた。
「今晩わ。蛍狩りですね。お月様がでていて助かりますね。」
旅館の跡取りの男は、足を止めて恵子の母を見詰めた。
「お茶屋産のおばさんですか。良いあんばいに晴れまして、蛍もいっぱい見えましたよ。」
と答えた。男の子は跡取りに追いつくと、恵子を見上げた。跡取りは、男の子の頭を撫でていた。
「お父さん、達夫おじさん、もう少しいると言っていたよ。」
跡取りは、子供の顔を見て頷いてから、顔を恵子の母に向けて言った。
「いえ、中学校の同級生で、今は東京に住んでいるんですよ。懐かしいんでしようね。明日、東京に帰ると言ってましたよ。」
そう言って、跡取りはお辞儀をすると、子供の手を引いて町の方へと歩いて行った。

 恵子の母は、少し見送ってから恵子を見た。恵子は橋の方を見詰め、硬直している様子だった。
「恵子、今の話からすると、橋の上で屈み込んでいる人、景山君のようだね。」
恵子の母がそう言っても、恵子は返事もせず震えている様子だった。母は、驚きはしなかった。昔の恵子の性格を知っていたからだった。恵子の母も、若い頃同じような性癖を持っていたのを思い出した。恵子の母が、そっと恵子の手を握りしめると、恵子は母を見つめ、そして俯いた。
「さあ、行きなさい。行くのよ。お母さんが見守ってあげるから。」
恵子は、顔をあげて母を見て頷いた。恵子は、母から手を離してぎこちなく歩き出した。恵子は小川の橋近くになって立ち止まって俯いてしまった。母は心配そうに恵子を見つめた。暫く見つめていると恵子が顔を上げて、幾度か頷きを見せて歩き始めた。しっかりとした足取りで彼の側まで行くと、彼が恵子を見上げるのが母の目に見えた。彼が左手を恵子に向かって伸ばすと、恵子が両手で包むように彼の手を握り、彼に寄り添うように屈み込むのが見えた。恵子の母は、寄り添う二人の影を微笑んで見つめていた。

 

 

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