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   「想いは消えず」(その七)

                          佐 藤 悟 郎

 

(その一) (その二) (その三) (その四) (その五) (その六) (その七) (その八)



 少し広い畔道を歩いていた。遠く集落の家や森影が見える。春の日差しを受けた田圃の蓮華草が、柔らかく波打って揺れていた。
「達夫兄ちゃん、手をつないで歩こう。」
そう言って差し出した恵子の手を握った。温かい手の温もりが伝わってきた。
 広い田圃の中程にある小川にたどり着いた。出来たばかりなのだろう、欄干のないコンクリートの橋があった。
「少し休もうか。」
少年は言った。二人は川下に向かって、コンクリートの橋から両足を投げ出すように腰を下ろした。小川の流れは速く、川岸のネコヤナギが揺れていた。暫く経つと恵子が言った。
「良いでしょう。」
そして達夫の顔を覗き込んでいる。そしてもう一度
「良いわよね。」
と彼に問いかけた。彼は頷いて
「分かった。約束するよ。」
と答えた。恵子は花が咲いたように、明るく微笑んだ。
 そして別れが訪れた。駅のホームで走る恵子の顔を見て、彼は俯いて涙を流した。そして私が好意を抱いていたのは、姉ではなく妹恵子だったと気付いたのだった。

 恵子は、そのありふれた「初恋」の小説を読んで、うっすらと目に涙が溢れてくるのを感じた。ピクニックの思い出、虹の話、キャラメルのことも書かれている。それは彼が自分の中学生の頃のことを綴っているのだと確信した。最後のコンクリートの橋で言った言葉をはっきりと覚えている。
「私、達夫兄ちゃんの嫁さんになる。」
そう言って、念を押したのを覚えている。私の顔を見て、笑顔で答えた彼のことも、いつも思い続けていた。別れた以後も、彼の面影だけを追い求めてきた自分だった。それを思うと、今の自分の凝り固まった考えが、足早に消え去っていくのを感ずるのだった。何も理屈だけで生きる人生ではない。やはり人間は、ありふれた人生を求めることが摂理ではないかと思った。そう思うと、彼を慕う思いが、前にも増して強く沸き上がってくるのだった。

 その妹は、私がその地を去るとき、学校を抜け出してきたのか、動き始めた列車を見つめ、私の姿を見つけると大きく手を振っていた。そして列車と共に走り出したのだった。右手を振って、もう左手で涙を拭いている。何か叫んでいる様子だった。

 それはまさしく恵子が達夫との別れたときの情景だった。点々と散りばめられた彼の思い出は、まさしく恵子の思い出でもあった。

読み終わると恵子の目は涙で溢れていた。
「達夫さん、ご免なさい。やはり達夫さんは、私の想っていた人だったわ。」
恵子は、その単行本を優しく撫で、口付けをした。そして編集者が中西六平であるのが目に入った。

 恵子は、中西六平が優れた編集者であることは知っていた。世間の耳目を集めるための作品と、作家自身の価値ある作品を扱い分ける編集者だった。更に、スキャンダルなどについては、出版社の記者達に情報を流しスクープすることでも知られていた。恵子は、おそらく月刊雑誌「新星雲」で発表された彼の作品の真実追究が始まっていることを感じた。そして近いうちにスクープとして明らかになるものと思った。最近、その権力機関が騒がしくなっているのを、寄稿している出版社の記者から聞いたのを思い出した。

 恵子は、彼から返事が来るのを、心待ちにしていた。恵子がそうしたように、彼からの返事は来なかった。恵子は、彼に会いたいと思った。恵子は、夜会を催し、彼を招こうと思った。

 そんな矢先である。恵子は晶成社の月刊雑誌「新星雲」開いてい目を通していた。達夫の短い小説が掲載されていたからだった。静かな恋を綴った物語だった。その後書きに中西六平の「お知らせ」と題する文章が載っていた。
「執筆した遠山達夫氏は、最近疲れている様子で元気がないので「励ます会」を催すことにしました。参加したい方は当編集部まで電話を願います。」
会場は、晶成社の近くの居酒屋の二階とのことだった。編集部の人間で溢れるのではないかとも書かれていた。

 恵子は、達夫を「励ます会」の日近くになって晶成社に電話して、会の参加を伝えた。電話に出たのは、若い声の女性だった。
「有難うございます。参加を希望される方が思いの外多いので、場所を近くのホテルに変更しました。」
恵子は、名前も尋ねられることもなく、会費は三万円で、当日会場で受け取ると言っていた。
「どれほどの人の申し込みがありましたか。」
「八人程の申し込みがありました。ですから会場を変えたんです。」
恵子は、会費が随分と高いと思いましたが、達夫にカンパの意味があると思ったのです。いわゆる安酒屋の飲み会の延長のように感じ、参加する人は実際半分も来れば良いのではないかと思いました。
「私の名前を聞きませんの。」
恵子が尋ねると、電話口の女性は
「ええ、押しつけがましいことになりますので、聞かないことにしております。」
そして最後に
「いらっしゃる際は、普段着のままおいでください。編集部の人も職場から直行しますので宜しくお願いします。」
それを聞いて、恵子は電話を切った。中西六平の考えが色濃く出ているのだと思った。

 恵子は、当日になって会場のホテルに入った。晶成社の編集部の人達なのだろう、部屋の入口で受付の順番を待っていた。受付には、若い女性がおり会費を集めている。それぞれが三万円を受付の台の上に出し、領収書をもらって会場に入っていく。
「会費、高いよな。中西さんが、妙に力を入れているから。」
「そうだな、遠山さんも、まだ駆け出しだろう。」
そんな声が恵子の耳に入ってきた。恵子の受付の番になると、受付の若い女性が、恵子の顔を見詰めた。
「参加を希望された方ですね。本日はご参加をいただき有難うございました。会費は三万円です。特に座席の指定はしておりませんので、ご自由に席におかけになってください。」
そう受付の女性が、恵子に向かって言った。恵子が頷きを見せたところ、後ろから女性の声がした。
「そう、席が決まっていないの。少し居づらいわよね。私を隣りに、一緒にさせて。」
恵子が振り向くと、見覚えのある顔の女性だった。恵子も同じ思いだったことから
「こちらこそ、ご一緒に願います。」
恵子は答えた。二人は受付を済ませると、並んで会場に入った。

 会場は、正面にステージ代わりの台とマイクが有った。正面左に司会者用の机が有り、正面右には黒布の覆いが掛けられたピアノが見える。壁際には飲み物類がふんだんに置かれていた。会場内には白い布が掛けられた円いテーブルが左右に三つずつ並んでいた。ひとつのテーブルには、五つの椅子が有り、テーブル上には皿などが置かれていた。
 恵子と連れ合いになった二人は、まだ誰も座っていない奥まったテーブルに座った。座るときに連れ合いの女性は、
「私、橋本裕子です。宜しくお願いします。」
と言って、少し頭を下げて挨拶をした。
「ピアニストの橋本さんですね。お見かけした顔と思っていました。私、並木恵子です。こちらこそ、宜しくお願いします。」
恵子が深々とお辞儀をすると、
「あら、小説家の並木さんですか。会えて嬉しいわ。」
二人は挨拶を交わすと、椅子に腰掛けた。

 時間近くになると、各テーブルに居酒屋で並ぶ肴類が出された。間もなく司会が挨拶をした。
「これから「遠山達夫さんを励ます会」を開催したいと思います。編集部の係長の風間です。宜しくお願いします。」
そう挨拶を切り出した。
「会の次第は、中西六平から一言、続いて遠山達夫さんの挨拶をいただき、後は無礼講の宴会となります。では中西先輩宜しくお願いします。」
そう言って「励ます会」が始まったのである。

 最初に中西が壇上のマイクの前に立った。
「皆様、「遠山達夫を励ます会」に集まりになり、私からも感謝を申し上げます。この会は、編集部だけで行うつもりだったのですが、参加を募ったところ五人の方のご参加をいただきました。大変有難うございました。」
「皆様からいただいた会費、三万円は、駆け出しの遠山さんにとっては高額です。これは遠山さんが、旅先で執筆活動をするための旅費の一部とさせて頂くためです。ご理解頂きたいと思います。」
「会の進行は、編集部の者で行い、酒の肴なども取り寄せのものです。これについては、当ホテルからのご理解をいただいております。平たく言えば、居酒屋の飲み会と思って頂いた方が良いと思います。会の終わりも雰囲気次第ですので、途中退場されるのも自由です。」
「一言、遠山さんについて言っておきたいことがあります。遠山さんは「あばら家」でデビューされたのですが、以前から同人雑誌「さざ波」で発表されていた作品に注目しておりました。ある偶然のきっかけから出遭うことができたのです。その辺の話を、これから遠山さんからして頂けると期待しております。」
中西の一言は、このような話をして終わった。続いて司会の案内で、彼が壇上に立った。

 恵子は、壇上の彼の姿を見ると、何故か目が熱くなるのを覚えた。精悍な眼差しとなっていたが、体が酷く痩せていた。何か苦しみに遭遇したのだと感じた。
「本日、私のための会に参加されました、晶成社営業部の部長さんを始め、部員の方々に厚く感謝をしております。また、参加を希望されて、わざわざご出席をいただきました五人の方々に、この上もない程の喜びを感じております。本当に有難うございます。」
先ず、彼は感謝の意をこめて述べた。
「先程、中西さんが言われたことを中心にお話ししたいと思っております。」
彼は、そう前置きをして話を始めた。
「私の故郷は、新潟県です。そこで労働局の職員、公務員をしておりました。そこで小説の創作活動をしており、先程中西さんから話のあった同人雑誌「さざ波」の同人として活動しておりました。」
「公務員として十数年過ごし、労働省の補佐として東京に出向してきたのです。そして一年足らずで、退職する羽目となったのです。部下の会計上の不始末の監督責任を問われ、依願退職を余儀なくされたのです。未だ、私は理不尽なことだと思っております。」
「公務員を退職し、私には余裕があったのです。それは退職金を支えにして、執筆活動ができるからでした。作品が売れれば、食うに困らないだろうと思っていたのです。安いアパートを捜し、創作活動を始めました。」
「その頃には、公務員としての仕事の激しさから、「さざ波」の同人としての活動もしていなかったのです。いざ執筆活動を始めてみると、趣味とした作品のようなものを書くことができないと思っていましたので、中々意に適うものを書くことができませんでした。そのうちに、生活のために蓄えもなくなってきたのです。」
「作品を書くより、生活のための金を考えることが多くなったのです。蓄えも底をつき、街をうろつき始めました。何か仕事がないか捜したのです。たどり着いたのは、日雇いの土方仕事でした。最初のころは、体中が痛み出しましたが、少ない賃金で居酒屋で酒を飲み、酔っ払って体の痛みを癒やしていったのです。執筆活動など忘れかけていました。」
「そんな時でした、日雇いとして働いていた三十過ぎの男です。肉体労働をして酒に頼ることもなく、家族の元に帰っていく男でした。休憩中に話し掛けたのです。彼もある県の権力機関の公務員だったのですが、違法でもない些細な理由で退職させられたと言っていたのです。東京に出て仕事を探していたが、職も見つからず土方仕事をしているとのことでした。妻子のある身で、とても酒を飲んでいるようなことはできないと言っておりました。」
「そうです。その男というのは「あばら家」の主人公です。私はその男の記録を書くつもりで、時々休憩中に話を聞きました。本当なのかどうか、その証拠となるものも見せてもらったのです。それを作品として書き上げたのですが、それまで私が書いていた作品とは異質なものでした。」
「無駄な作品だと思いながら「あばら家」を書き上げて、酒を煽り、床に入ったのです。明日も辛い仕事に行かなくてはならないと思うと、涙が流れました。そして床から這いずり出し、机に向かい、ある女性宛に手紙を書きました。たった一行です。
『助けて欲しい。』
それだけ書いて封筒に収め、ある女性雑誌を開いて、その女性の住所と名前を書き、裏書きをして封をして机の上に置きました。いざという時に、投函するつもりだったのです。」
「それから暫くして、「お多福」という居酒屋で中西六平さんと出会い、助けられたのです。中西さんは、「さざ波」の私の作品で、私の名前を知っていたのです。これからの作品の方向付けもしていただき、とても感謝をしております。」
「終わりになりますが、中西さんの勧めがあり、暫く思い出の地を巡り、心を洗い流し、新たな気持ちで執筆活動の旅に出たいと思っております。今日の参加費の一部を大切に使いたいと思っております。」
彼は、最後に参加者に感謝の言葉を述べ、深々と一礼して壇から降りた。

 彼の挨拶らしきものが終わると、編集部長の音頭で乾杯が行われ無礼講の宴会が始まった。彼は一人ひとり席を回り、酒を注ぎお礼を言った。特に、希望参加の男性作家三人には、励ましの言葉やら叱責混じりの心得などを受けていた。さすがに中西六平は、奥まった席にいる二人の女性に気付いた。
「橋本さんに並木さん、わざわざ来ていただきまして。こんな隅っこの席じゃいけないですよ。前の席を空けさせますから。」
中西が前のテーブルを指差して言った。
「そんなことないですわ。この隅っこから、無礼講の宴会というのを見たいのですよ。ねえ、そうでしょう、並木さん。」
橋本がそう言うと、恵子はにこやかに笑みを浮かべて頷いた。
「そうですとも、達夫さんも最後にここに来るでしょう。そうすれば、ゆっくりお話ができますもの。」
恵子が中西に向かって言うと、
「じゃ、それまでの間、私がお相手しましょう。」
中西は、そう言って椅子を引き、二人の前に腰を下ろした。

 

 

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