リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集

 

 

   「想いは消えず」(その四)

                          佐 藤 悟 郎

 

  (その一) (その二) (その三) (その四) (その五) (その六) (その七) (その八)

 


 彼は、支所長公舎に入って、小説の勉強をした。少ない職員との付き合いは、結構と忙しいことが多かった。彼は、自炊生活を余儀なくされた。意外と、その手間は多く必要だった。時々、次席金津次郎の奥さんがご馳走を持ってきてくれ、有り難いと思った。次席は定年も間近い人だったが、感謝しながら舌鼓を打った。
 彼は、その山の片田舎の支所長勤めは、三年は覚悟していた。土木関係業者や大手の紡績会社の出先関係者から時々、彼に接待の誘いに来たが断っていた。
「前の所長さんは、そうでなかった。」
そう言う声も、彼は耳にした。彼は、社交的なことまで断っていたのだから、そう言う声がするのも当然のことと思った。彼は、嫌悪感からというものではなかった。実に、時間が惜しかったからだった。付き合い出せば、他の業者へと際限なく続くからである。

 木々の緑も増したと思うころ、いつもの通り田舎の支所長の机に向かって仕事をしていた。ふと窓から山の風景が目に入った。青空の下の妙高山は雪を頂いていたが、近所の林の木々は緑に溢れていた。何故か恵子の顔が浮かび、小学校で再会した姿が大きく迫ってきた。彼は、その日の朝恵子の夢を見て目覚めたからだと思った。懐かしくもあり恋しくもあり、その気持ちを抑えることができなかった。脇にある便箋を取り出し、恵子宛てに手紙を書いた。

『山間の市に転勤となり、今日は、夢から覚めて筆を執りました。朝日が新緑に差し込む清々しい朝です。
 夢というのは、貴女の夢でした。私が広い部屋に立っていたのです。その部屋にはキッチンがあり、貴女が野菜を刻んでおりました。手を休めて私を見つめると、笑顔で私に挨拶をしたのです。
 すると女の子が駆けて来るのです。その女の子は、まさに幼い頃の貴女でした。駆けてくる女の子の後ろには、三つの部屋があり、真ん中の部屋の戸の上に「恵子の部屋」と書かれており、部屋の戸は開いたままでした。恵子の部屋の右隣の部屋には「ママの部屋」、左隣の部屋には「パパの部屋」と書かれていたのです。
「パパ、お庭のお花、見に行こう。」
女の子に手を握られ、一緒に庭へ行ったのです。庭に出て女の子と並び、立って花を見つめました。色とりどりの花が目の前に広がっていました。そして花は右から左、左から右へと花の種類が映画のように変わりながら見えるのです。桜の花、山吹、藤の花、紫陽花、芙蓉、葵、ポピーと流れていきました。
「パパ、お花って、何で美しいの。」
女の子は、私を見上げて尋ねました。
「恵子ちゃんの心が美しいから、美しく見えるのだよ。」
私が、そう答えると、女の子はにっこりと笑顔を見せて、また花を見つめました。
「ママも呼んでくるわ。」
そう言って、女の子は私の脇から走って姿を消したのです。カサブランカが目の前に広がったとき、女の子姿を追うように私は振り返ったのです。そこには女の子の姿も、家も見当たりませんでした。ただ山毛欅の林が静かに見えるだけでした。目を前に戻すと、花は消えて、やはり林が見えるだけでした。
 私は静まり返った山毛欅林の中に、一人で立っているのが分かりました。何故か寂しくなり、目に涙が溢れてきたのです。そして目が覚めて、涙を右手でぬぐったのです。貴女が懐かしく、愛しく思いました。
 私はどうすれば良いのか、考えがまとまりませんでした。答えは、貴女を思っているということだと思いました。失礼と思いましたが、貴女への思いに耐えがたく、こうして手紙を送ることといたしました。』

 最後に日付と名前を書き、封筒には支所の住所を書いて、役所の近くにあるポストに投函した。返信はなかった。彼は少し落胆はしたが、立場の違いから仕方がないと思った。

 月日は早く過ぎ去り、寒さも増し、火も恋しくなるころ、事務をやっている若い女性職員が公舎を訪れた。玄関の明かりをつけて、赤い光の中にその女性職員を見た。暖かそうな綿入れを着て立っていた。
「これ、山で採れた茸です。食べてください。それから父が作った炭も。」
そう言って、まだ年端もいかない、その女性職員の父が炭俵を背負ってきた。その女性職員は、時々、役所の仕事を間違える女性だった。彼は、知らなかったのだけれど、怒られて泣いているのを見て、助けてやったことがある。その原因を見ると、仕事も教えないで仕事を言い付けたことが原因だった。その上司に問い質すと
「仕事なんて、自分で覚えるもんだ。覚える気がないから、駄目なんだ。こういう女は、怒らなければ駄目なんだ。」
と答えた。彼は、その上司の話には一理あると思いながら、それより大切なもの、怒られていると人の心が下手に作られてしまうことが心配だった。それから彼は、その女性職員を目の届くところに置き、仕事を教えた。案外と飲み込みの早い女性で、今では役所全体の仕事を身に付けてしまった。
 彼は、二人を居間に通した。彼は、一人暮らしなので多くの物は要らないと言った。
「色々な料理できますわ。」
そう言って、その女性職員は、料理を始めた。その父は、娘のことを料理上手と褒めていた。
「器量は、十人並みですが、自慢ですわ。」
そう笑いながら言った。その父に、彼は好感を持ってしまった。

 年の瀬も迫った日、業者の組合から、反省会と称する忘年会に誘われた。そう言う会には、いつも次席を遣っていたのだけれど、彼も年に一回はと思い、金津次席と共に出席した。業者達は、驚いて応対してくれたようだった。
 彼は、会に先だって言葉を求められ、型どおりの挨拶を済ませた。そして、多くの業者が、上席にいた彼のところに、酌にやってきた。彼は、酔いが回ってしまい、帰りたいと金津次席に話した。次席は、幹事役の業者に耳打ちをした。
「所長さん、街へでもどうですか。折角、席が取ってあるのです。」
彼は、無碍にそれを断った。全ての業者がいるから、公正という問題はそう無かったが、汚らわしさを感じたからだった。彼は、次席が彼の代わりを務めるだろうと思い、公舎へ歩いて帰った。

 公舎に帰って、机に向かった時、ふと自責の念が浮かんできた。小説家として、山の中に入って、立場も得て、その行動が安穏としているという事実だった。自分がやらなければ、踏み越えることができないという事実である。雨が降り出してきた。無性に、寂しい気持ちがした。
 前局長の妻道子と敏子が訪ねてきたのは、そんな時だった。彼は、女性の声で玄関に行くと旅支度している二人の姿を認めた。彼は、酒が入っていることを詫びて二人を居間に通した。何もないところだった。ストーブをつけ、電気炬燵をつけて、とにかく部屋を暖めた。熱いお茶と思い台所へ行った。直ぐ、敏子も台所に来た。
「不自由な生活をなさっているのね。」
敏子は、そう言った。彼は、敏子の瞳を見つめた。柔らかな目は、別れた時と少しも変わっていなかった。安心感が彼の心に流れた。
 敏子の持ってきた土産を、その場で開けてお茶を飲んだ。
「変わっていないね。怒っているかと。」
敏子の母はそう言った。彼は適応性に優れている人間だと言った。母は笑っていた。

 その母と敏子は、翌日も、その翌日も帰らなかった。彼の口から、帰ることなど聞けなかった。良いことに、毎日温かい食事を取ることができた。公舎に帰ってくると暖かい空気と、香りの良い夕食の匂いが流れてくる。敏子が玄関まで迎えに出てきて声をかけてくれる。身寄りもなくなった彼には、とても得がたいものを得たと思った。
 御用納めになっても、二人は帰ろうとしなかった。彼は、不安を感じた。昼が過ぎ、役所から公舎に戻って昼食を済ませた。午後から彼は、書斎と定めた部屋に入った。敏子も入ってきた。そして彼に言った。
「私とお母さん、家出してきたのよ。」
悲しそうな顔をしていた。そして俯いて啜り泣きをしていた。静かだった。その悲しそうな音が彼の耳に大きく響いてきた。
「家出するなら、貴方のところへ行こう、と私が言ったの。」
彼は、別に困りもしなかった。迷惑でもなかった。却って助かった。
「長くいても良いよ。ずっといても良いよ。その方が、私だって嬉しいんだ。」
敏子は、彼がそう言ったのを聞いて、顔を上げて微笑んで見せた。そして涙を拭くと
「良かった。ここに来て、本当よ。」
彼は、敏子が愛くるしい程可愛く見えた。
 それから二日後、前局長は、頭を掻きながら彼の公舎を訪れた。そして母と敏子に頻りに謝っていた。彼は書斎に入って、その話などは聞かなかった。とにかく新年を東京で迎えるということで、彼を伴って四人で東京へと向かった。

 彼は、仕事の他は全て創作活動に身を投じた。仕事で神経が疲れている。それでもやらなければならなかった。目的を考える必要はないと思った。浮かばれることのない人生であるのが、彼の本当の姿なのだと思った。
 公務所の文書は、当てにならない。でも毎日の日記や手紙、そしてメモなど、全てが彼の創作活動の一環として、考え得る限りの活動として捉えなければならなかった。
 彼自身を苦しめる欲を殺して、悶え苦しむ生活が続いた。何故、そんなことをしなければならないのだろうか。答えはなかったが、答えらしいことはあった。
「真剣に自身を知り、自身を育てる。」
欲に流されれば、自身の心が痛くなる。人間として片輪になるかも知れない。彼は、それを選んだ。生涯苦しみ、悩んでいく種を自ら撒き、背負い生きていく決心をした。自分自身に厳しく、冷たくしなければ、強い人間的な精神を得ることができないと思った。
 精神的なものを鍛えなければ、決して小説の神髄に到達できないと思った。そして自然と小説の中で、好き嫌いの思惑を感ずるようになった。

 正月、東京で前局長の家で過ごした。彼は、その敏子の好意に包まれて楽しい日を送った。帰り際に、敏子の好意を撥ね付けてしまった。敏子は、彼の前で顔を蒼白にして震えてしまった。
「どうしてなの。私が嫌いなの。」
敏子の弱々しい声を聞いて、彼は後悔をした。自分自身、情けない男だと思った。自身の道のためには欲するところを求めず、と言うことを誓って生きてきたことが悲しくてならなかった。
「嫌いだなんて、私は、貴女を好きです。それ以上の心を抱いております。」
彼は、一つに年齢が違いすぎること、もう一つに求められるべき何も持っていないことを話した。敏子は、伏し目ながら彼の言葉を確かめるように頷いて聞いていた。
「私は、そんなこと、何も気になりません。」
敏子は確かな言葉で彼に答えた。敏子は更に言った。
「もしかすると、もう貴方は決心されているのでしょう。違いますか。」
彼は無言のままだった。無言は肯定の意味だった。敏子は、気丈夫に彼を失いたくないし、諦めもしないと言ってくれた。


 

  (その一) (その二) (その三) (その四) (その五) (その六) (その七) (その八)