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   「想いは消えず」(その二)

                          佐 藤 悟 郎

 

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 夏そして秋が過ぎ、本格的な雪の時期となった。恵子から、何の音信もなかった。彼は、何かしら音信があるものと期待はしていた。もう一か月以上も経っていた。夕方、暗くなった雪道に、役所から出て帰路についた。防寒着に身を固め、外で同僚と別れた。近くには歓楽街があり、同僚達が連れ立って歩いていくのが見えた。

 雪を踏みしめながらアパートまで行くと、白いコートを着た恵子が玄関前に立っていた。彼は、手を振りながら歩いていった。彼女も手を振って応えていた。
「出張でこちらの学校に来たの。お邪魔して良いかしら。」
彼は、恵子をアパートの中に招いた。彼は、来客があっても恥ずかしくないように、部屋の中をいつも整理をしていた。整理されていないと、何か自分の生活が嫌になるからだった。必要な調度品やステレオ、台所周りのものを持っていた。さすがに部屋に入り、防寒着を脱ぐと、冷え冷えとした部屋だった。
「綺麗な部屋ですね。」
台所を見渡し、暖簾を掻き分けて居間に入ってきながら、恵子は言った。彼は、差し当たっての夕食を、外で取らないかと誘った。彼女は、夕食を作ると言って聞き入れなかった。彼は、電気炬燵に入って、時々台所の方を見つめ、新聞を見ていた。

 新聞の連載小説を読みながら思った。よくも長々と書いていけるものだと思った。人物が多く登場し、それを使いこなしている。筋もゆったりとしている。作家の頭の中に、何が飛び騒いでいるのだろうかと不思議にさえ思った。
 しかし、欠けているものがあることに気付いた。その小説のテーマがないことである。そのことは、彼自身も随分考える。分からなくて苦労するところであるが、やはり足りないものは、足りないと感ずるのである。
 テーマというと、直ぐ思想だと大上段に翳してくる者がいる。人間性が究極だという者もいる。果たしてそうであろうか。テーマは、人の感ずる全てのものである。モザイク式小説、それが悪いと決して言わない。小テーマを重ねて、大テーマと伸長させていくのだ。大テーマは何か、目的がないと小説は本当に動きの取れないものになるのだろうかと思った。

 彼は、久し振りに家庭というものを味わった。恵子は、家庭というものに相応しかった。夕食を終えて、後片付けも全部彼女がやってくれた。二人でお茶を飲みながら、幾度も顔を見合わせ、微笑んだ。そして大きな溜息をついた。二人同士、手を伸ばせば、いつでも捉えることができるところにあった。
「夜は、いつも何をなさっているの。」
彼は、恵子の質問に、小説を書いていることを話した。彼女は、興味あり気に彼の話を聞いていた。彼は、今までの自分の話を語り聞かせた。時々、彼女の顔に寂しげな面影を見つめた。そういう時、彼は話を打ち切ろうとした。とうとう終わりまで話した。
 彼は、彼女をバス停留所まで送る途中、あの寂しそうな面影のことについて尋ねた。
「近い内に、お会いすると思いますの。その時、お話ししますわ。」
そう言った。やはり、何かあるのだと思った。それがどのような代物なのか、淡い情念を持っている彼には、聞きたくもあり、耳に入れたくもないと思った。

 彼は、小説を書いて、何か感情のない作品ばかりだと、常々自分を卑下していた。そのうちに立派な作品を書けるものと思っていた。自分が、未熟ということに甘んじていたのだ。作品は、常に読む者のことを考えなければならない。読み通させることが必要である。否という答えが返ってくるだろうかと思った。
 更に、内容を理解させるために必要な説明をしなければならないことは勿論であるが、その感情を作り上げなければならない。読者とは誰であろうか。時として彼であり、また肉親であり、親友であり、文学者であり、政治家であり、数学者であり、全ての人なのだ。それらの人の前に小説をさらけ出せることが適ったとして、全ての人に、その心の高まりを与えなければ、小説の意味は全くないと言わなければならない。今まで書き上げた小説の中に、恋慕を書いたつもりのものが、果たして自身を含めた読者が、そのとおりに感じただろうか。答えは、否の一言だった。小説の意味がない。貧弱すぎるという言葉のみだった。場には、その場に似つかわしい文章を書き連ね、書き上げなければ小説の意味がない。まるで、日記帳になってしまうではないか。そして下等な代物であると思った。

 相変わらず、最高の傑作と信じて小説を書きながら、冬を過ごした。彼は、特に役所の人に、自分が小説家志望ということを知られないように生活を送っていた。そのために、適度の仕事もし、交遊もしていた。それらの時が、いかにも惜しいと、歳を増すごとに思い出されるのだった。一時間あれば、もっと書けたはず、それも熟慮できたはず、という風に反省ばかりしていた。

 寒さの残る、初春の天気の良い休日だった。彼は、恵子の住む地の駅に降り立った。いつも恵子は、白い服装をしていた。改札口を出ると、駅前広場の小さな噴水の前に、白いセーターを着た彼女の姿を認めた。雪は、溶けそうになり、水気が多く、ぐしゃぐしゃしていた。
 朝も早い時間に彼女から電話があり、是非、都合をつけて遊びに来て欲しいということで、彼は汽車で来たのだった。恵子の電話は、落ち着いた、はっきりした声だった。
 彼女は、微笑んで彼を迎えてくれたが、彼の目には、心なしか寂しそうに思えた。街の中を歩く時も、彼女は伏し目がちに、黙って歩いているのが分かった。
「恵子さん、元気がないようだね。」
そう言葉をかけると、初めて我に返ったように、彼に微笑んでみせる。しかし、また黙々とした歩みが続いた。彼は、街の店舗を見る振りをして、時々、彼女の顔色を見ていた。

 彼は、恵子の母のいる居間に通された。驚いたことに、間もなく彼女は外出してしまった。彼は、座卓の前に、彼女の母と向かい合って座っていた。母は、もう六十に近かったが、屈託のない女性だった。軽やかに、彼の近況を尋ねたりする。
「もうすぐ春ですね。恵子も東京に行くことになるかも知れません。」
事もなげに彼女の母は、彼に向かって言った。彼は驚いた。その時、彼女の母の目を見た時、威厳に満ちた光を放っているのに気付いた。どういうことなのだろう。彼は狼狽した。彼女の母の瞳は、明らかに敵意を持っていた。彼は、目の遣り場がなくなってしまった。長い間、その厳しい瞳を見つめていたように思えた。ようやく彼は何かを言わなければならないのだと思った。
「今朝、突然電話がありまして、来た訳ですが。お母さんから、今、話を聞いて吃驚しております。」
彼は、とにかく言い訳がましく、来た理由を手短に言った。彼女の母は黙っていた。彼は、惨めだと思った。どうしてこのような立場に陥ってしまったのか、このような仕打ちを誰が仕組んだのか、それを呪った。彼は、温和しい牝鹿のように、彼女の母の前で、ただ、だらしなく俯いてしまった。彼女が家に帰って来たら、早々に暇を告げて帰ろうと思った。
「何も聞いていないのですか。恵子は、東京に嫁に行くのです。とっても良い相手なのです。そうですとも、きっと嫁に行くのです。」
彼は、そう言った彼女の母に向かって顔を上げた。彼は、しかめ面をして、それでも丁寧に言ったのです。上等な言葉で
「それは、それは、お目出度いことです。春に嫁に行かれるとは、ますます結構なことです。」
愚にも付かないことを言ったと思った程である。
「それでは、貴方も賛成ですのね。」
彼は、否応もなかった。彼女が結婚することに、何故、彼が口出しできるものではあるまい。それから、彼女の母の態度が、急反転した。甘い菓子を食べながら、世間話をした。彼は、気まずい思いをしたが、年寄りとはよいものだ。そんなことに、いっこう気にかけぬ様子だった。

 恵子が家に戻ってきたのは、お昼少し前、出かけてから二時間くらいしてからだった。美容室に行ってきたのだろう、髪を豊に結って、和服を着込み、華やいだ身形となっていた。
「今日、講演があるものですから、貴方も一緒に来てくださいね。」
そう言って、彼を彼女の部屋へと招いた。驚いたことに、彼女の部屋はまるで図書館のようだった。部屋の中は、限りなく多くの本が整然と並んでいた。彼は、その書棚の限りない小説の数と質の良さに目を奪われた。それに芸術書、歴史書等の数限りのない程の知識が、そこにあった。まるで文学者の部屋だった。本のある洋間、彼はたじろいで見渡しながら、奥まった片隅のドアを開け、手招きをしている彼女の後に付いていった。一段高くなり、和室となっていた。八畳の間に、箪笥が備えられ、白塗りの座卓があった。そして鏡台と机の向こうの障子が開けられ、中庭が見えた。

 彼は、恵子が座っている姿が全部見えるように、窓の縁に腰掛けた。ガラス戸を開けると、上気した顔に冷たい風が吹き付けてきた。彼は、外の残雪を見ながら、放心状態だった。何という軽率なことだったのだろう。そんなことに気付かなかったとは。
 彼女、並木恵子が中央文壇の最高の賞を得た女性だったことを、彼は知らなかったのだ。注意しておれば、分かったはずなのに。鏡台にあった授賞式の写真を見たとき、彼は信じられなかった。ただ茫然とした意識と困惑しかなかった。彼は、彼女と話をする意欲も、また、その資格もないと思った。自分の置かれた悲しむべき現実に、ただ残雪を見るばかりだった。そして、惨めな自分の姿を見るばかりだった。

 彼は、力無く片手をついて、足を崩して座っている恵子を見つめた。そして、目の前にいる女性が、彼が人生の目的とする文学界の、誰もが目指し、得ることができない登竜門の獲得者であることを思った。彼は、知らなければ良かったと思った。そして、彼女に巡り会わない方が良かったと思った。何故か、涙が溢れて、熱くなるのを感じていた。
「東京にお嫁に行くんだって。頑張ってね。」
彼は、できるだけ明確に言った。彼女が、どのように反応したのかは分からなかった。涙で、彼女を見ることができなかったからだ。
 彼は、思った。今、彼女を捉えることができる。小説家としての実力さえあれば、喩え名声はなくとも、彼女を得るために、名乗りを上げる勇気を持ち合わせていただろう。しかし、彼女の書いた小説と自分のものを比べれば、海山の違いがあることを、彼は知っていた。

 彼の小説は、人生の猜疑心や、名誉心や、堕落から発し、生まれたものだった。それは小説家を志した、その動機が既に不純だったのだ。能力以上に大切なもの、人物としての情熱、小説家としての情熱、それが欠けた状態で、名前ばかりの旗印を掲げ、この道に入ったことを感ぜずにはいられなかった。
 安逸とした生活の中に、何の奔流もなく、文学の世界に飛び込むことができるだろうか。何かを書いて、小説家面をしている。他人と違った人間と思い込み、高慢な自分が出来上がってしまっている。現実の自分を破壊し、消滅させない限り、そして生まれ変わった人間となって発しない限り、成功などは論外として、小説家としての道すら歩くことができないのではないかと思った。
 それにしては、もう三十半ばに近い自分では、遅すぎる。最初からやり直すのでなければ、ただ小説家を夢見ての亡者となるだけであろう。そう彼は思った。

 恵子は、彼にとって高嶺の花の存在となってしまった。彼の意思など、小さなものだった。
「私が、東京へお嫁に行って、それで良いの。」
そう尋ねる恵子に、彼が応える資格もなかった。彼女はその時、彼が小説をやっていると言ったとき、寂しい姿を見せたのは
「私を、きっと、避ける人になる。」
そう、確信したからだと言っていた。確かに、そうならざるを得なかった。

 人は、真剣に物事に当たろうとするとき、その対象は偉大な姿と変わっていくものだと思った。恵子に突き当たったとき、自分が一体、小説家として何をしてきたのか、落胆の思いばかりだった。あの巨大な知識量一つ取ってみても、劣った自分がはっきりとしている。趣味で小説を書いているのでないのか、深く反省しなければならない。彼女の作品を思うとき、いかに知と心とが優れているかを読み取れるのだろう。
「涙なんか流さないで。私も悲しくなるわ。きっと、貴方は苦しんでおられるのだわ。」
恵子の声が、細く、弱々しく、近くから聞こえた。髪の香りが、時々微かに感じた。彼は、涙を手の甲で拭いた。恵子は、彼を見つめていた。心配げに、眼を少し赤くしていた。
「余りにも、自分が小さく見えてね。」
彼は、苦笑するように恵子に言った。そして彼は、彼女に暇乞いをした。彼が彼女の前に立っていると、彼を見上げているその両目から、輝く涙が頬を伝ったのを見つめた。
「講演会に、来てくださらないの。」
彼は、ただ
「済みません。」
と言い、深いお辞儀をして、彼女の部屋を出て行った。彼は、店を出て通りに出た。恵子の他、何も考えることはなかった。歩きに歩いた。彼女の笑顔や、涙を流す言葉を交互に思い浮かべながら。

 彼は、他のことは見えなかった。とにかく幾時間歩いたか、分からなかった。ようやく自分のアパートに辿り着き、布団の中に潜り込んでしまった。色々な思いが彼の脳裏に浮かんでは消えていくのだった。
『時はまだある。急いで書く必要はない。そうではない。私の人生は、もう好い加減に費やされたのだ。だから急いで書かなくてはならない。粗雑にならないように、丁寧に、そして急いで、ほれ急いで、間違いのないように小説を作り上げろ。それも上等な奴をだ。
「そんな才能が、私にあるのか。」
そんなことはどうでも良い。できるだけの、その場のことを考え思い、情景を浮かべ、そして一気に書くのだ。ダラダラしたことなど、どうでもよい。正確な「情景」、それに「心の動き」さえ捉えることができれば、とにかく急ぐのだ。そうしないと、彼女がどこかへ吹っ飛んでしまうぞ。仕方のないことだなんて言わずに、やれ。』
『描写力がないだと。馬鹿な、今更何を言っている。そんな余裕は、誰にでもないのだ。書き上げるためなら、下手でもいい、避けて通る方が、余程の馬鹿だ。難しいことを乗り越えることもせずに、今まで放り出した作品が多いことか。それらは、永久に生き返りはしないだろうし、その癖は、長く悪癖として残るだろう。とにかく、乗り越えなければならない。』
『作品を完成させれば、悪いところが浮き上がってくるはずである。それが要点、大切なことなのだ。完成させずに、前にも進まずに、いじりいじり、最後に廃棄してしまう。何たる馬鹿なことをしているのだ。』
『作品も作り上げずに、どうして恵子の前に姿を見せることができるのだ。彼女が泣いている。その涙に、偽りがあろうか。』
彼は、悲しみと疲れと彼女の顔が入り交じり、混乱した頭の整理がつかないまま、眠りに陥ってしまった。

 

 

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